第3話:消えた皇子と首のない人形
(首がない、ねえ……)
ユウはしゃがみこんで、床に落ちた布くずを拾い上げた。
それは見間違えようのない、《人形の首》の残骸だった。
事件は早朝に発覚した。
帝都・王宮内、第二妃の東の館。奥深くにある育児房で、乳母が「皇子様がいらっしゃいません!」と叫び声をあげたのが最初だった。
慌てて駆けつけた侍医、女官、侍女たち。そこには確かに、小さな揺り籠だけが残されていた。
そして、その中に――首のもげた人形。
本来そこにあるはずの、《皇子の姿》はどこにもなかった。
「どういうことだ。寝かしつけたのは確かだというのに……!」
「まさか、また呪殺……?」
「呪いで首だけすげ替えるなんて、どうやるんですか、いったい」
ざわめく中、ユウは黙ってその場を観察していた。
香りの残滓、揺り籠の木の軋み、床に転がる繊維の屑、そしてなにより――女たちの《靴の裏》。
「……なるほど、これが……トリック、か」
呟いた声は誰にも聞こえなかった。
(どう考えても変なのよ)
ユウは、乳母に話を聞きながら、思考をまとめていく。
――まず、おかしいのは「目撃証言」だ。
乳母は「深夜二つ時にミルクを与え、そのあとすぐ寝かせた」と言っていた。
だが、その時刻の水場は完全に凍っていたという。
室内に水を運ぶには、氷を割る必要がある。だが、手桶にも床にも水滴の跡がない。
(つまり、乳を与えたという証言がウソ。皇子はもっと早く、別の場所で消えていた)
次に揺り籠。これも不可解だ。
外見上は問題ないが、よく見ると《軋み》の音が異常だった。通常なら赤子が動いても出ないよう、工夫がされている。
にもかかわらず、わざとらしいほどの“ギー、ギー”という音。
(これは……《空動き》させてたわけか)
揺り籠の底板に仕込まれていたのは、ごく簡易な“震動の仕掛け”。砂時計と滑車を使った、簡素ながら確実に動く構造。
つまり、皇子が寝ているかのように見せかけるために、《からくり》が使われていたのだ。
(じゃあ、誰が仕掛けた?)
視線を床に移す。そこには細かな砂粒と、布の繊維が落ちていた。普通の乳児の衣では出ないような、きらびやかな刺繍糸。
(この繊維……東の館の調度には使われてない。西の館の上級妃の飾り紐だ)
「つまり、皇子は最初からここにはいなかった?」
高官の一人が半信半疑に聞く。
「そう。おそらくは、昨日のうちに《別の館に》連れ出されたの」
「なぜ、そんな……!」
ユウは、にこりともせずに続けた。
「目的は『すり替え』。皇子ではない何かを、誰かに見せるためにね」
「すり替え……誰に?」
「それがわかったら、話が早いんだけど。まあ、一番怪しいのは“皇位継承順”に関わるあたり」
沈黙が落ちた。
ユウはあらためて育児房を出て、西の館へ向かう。
第二妃の息子であるこの皇子は、継承順位が第七位。だが、彼女の実家が力を持てば、一気に浮上する立場だ。
(だとしたら……“本物の皇子”を誰かに見せないと意味がない)
そこで彼女が見たのは、飾り棚の下に落ちていた、わずかな染み。
干からびた桃の果汁。それに混じる《香料》。
「また、この香りか……」
先日の事件と同じ、《幻覚性物質》の香り。今回は少量だが、それでも嗅覚の鋭い赤子にとっては強すぎる刺激だった。
「犯人は、第二妃の部屋に皇子を連れて行っていた」
ユウは、静かに断言した。
「揺り籠に細工し、乳母に偽証させたうえで。香りを使って皇子を興奮させ、"元気な様子"を妃の兄に見せた。つまり、《跡継ぎとして相応しい》と印象づけるため」
「では……人形の首が落ちていたのは?」
「赤子が部屋にいないのをごまかすための“置き換え”よ。本物とそっくりに作った人形。赤子の服を着せて、下に寝かせ、揺らしておく。ただ……間に合わなかったの。時間的に。で、首を取り外して“事件”にした」
仕組みは見事だった。証言、時間の錯誤、香りによる印象操作、そして逆説的に「誘拐された」と見せることで、皇子の存在感を高める。
「皇子を狙う者がいる、という印象を操作したのか……」
「ね。けっこうずる賢いよね、貴族って」
ユウはにやりと笑った。
だが、事件の裏にはもう一つの事実があった。
ユウは最後に育児房の帳の裏に、そっと指を差し込んだ。
そこにいたのは、縮こまったように座っていた一人の侍女。
おそらく、皇子を「取り替えた」人物。
「言われたのよ。『一目だけでいいから見せてあげたい』って……。お妃様、泣いてたの……」
ユウは頷いた。
皇子を産んだが、ほとんど会えないままに別館へ隔離された母親。その兄が、一目だけでも息子を見たいと願い、妃が動いたのだ。
「……まあ、気持ちはわかるけど、やり方がダメだったね」
「……すみません……」
侍女は崩れるように泣いた。
ユウはひとつ息をつき、立ち上がった。
「じゃ、あとはお偉いさんたちに任せるよ。私は、香りの出所だけもうちょっと調べてみるから」
その夜。ユウはまた桃の香りを分析していた。
(この香料、やっぱり……単なる市販のものじゃない。もっと……意図的に調合されてる)
彼女の目が鋭くなる。
この香りを作れる人物は限られている。しかも、王宮に出入りできる調香師となれば――
(まさか、あの人?)
ユウの記憶に浮かぶのは、かつて医局で一度だけ会った、白い手袋をした男だった。
物語の背後に、影が蠢いていた。