第24話:夢と、鏡と、ある密室
診療院の朝は、いつにも増して静かだった。秋雨がしとしとと降り続け、木々の葉を濡らしている。外界の音を吸い込むようなこの静けさは、何かが始まる予兆のように感じられた。
「先生、起きてください」
エリスの声が扉の向こうから聞こえた。マティアスは重たい瞼を押し上げる。寝不足だった。昨夜は夢見が悪く、何度も夜中に目を覚ました。部屋の隅に誰かが立っていたような錯覚まであった。あれは夢だったのか。
「……ああ、すまない。すぐ行く」
寝巻のまま起き上がると、机の上の書きかけのカルテが目に入った。何かが引っかかる。昨日、診療院に来た兵士の容態のことで何か考えていたはずだ。だが、それよりも今朝の気配の方が気になった。
「死亡確認、六時三十分」
診療院の西棟。仮眠室の一つで、女中の遺体が見つかった。部屋は内側から施錠され、窓は重たい鉄格子に守られていた。完全な密室だ。
「死因は?」
「初見では窒息死と思われます」
エリスの報告に、マティアスは首を傾げた。遺体の顔には恐怖の痕跡が刻まれ、爪は何かを掻きむしったかのように血まみれだった。けれど、喉に圧迫痕もなく、毒物の匂いもない。
「施錠されていたというが、鍵は?」
「部屋の中にありました。床に落ちてましたが、被害者の手が届く距離にはなかったと」
「つまり、彼女が自殺で鍵を投げた、というのは不自然だな」
「はい。しかも、他に出入りした痕跡は一切ありません」
密室殺人。推理小説のような言葉が頭をよぎる。だが現実のそれは、血も生々しく、死者は二度と口を開かない。
「先生、これを」
カルラが差し出したのは、小さな手鏡だった。遺体の枕元に置かれていたものだ。裏面に微かに擦れた跡。何かの文字が削られている。
「何か刻まれていたのか?」
「ええ。ただ、読むには難しそうです」
手鏡を光にかざすと、消されたはずの文が、かすかに浮かんだ。
《わたしを、みて》
ぞっとするような一文だった。これは、死者のメッセージか。あるいは犯人の挑発か。
「この女中には、敵がいたか?」
「いえ、目立った争いは……ただ、最近、夢の話をしていました」
「夢?」
「“同じ夢を見る”と。他の女中数名も、似たことを言っていたそうです。“夢の中で誰かに呼ばれる”とか」
その言葉で、マティアスの脳裏に今朝の目覚めの記憶が蘇る。あの夢。部屋の隅に、誰かが立っていた。白い服の、顔の見えない影が。
午後、他の女中数名に事情を訊ねた。
「夢の中で、女の人が鏡を見せてきて……“あなたは誰?”って聞いてくるんです」
「それが……その、亡くなったアリサさんに似ていた気がして……」
それは、単なる夢だろうか。夢に殺される――そんな非現実的な想像に、マティアスの理性が警告を発する。しかし同時に、医師としての直観が告げる。何かが繋がっている、と。
「エリス。仮眠室の空気を調べてくれ。特に、呼吸器に影響を与える揮発性の毒がないか」
「かしこまりました」
手鏡。夢。密室。そして窒息死。鍵は部屋の中にある。侵入者はいない。ならば、外から操作できる何かがあったのか?
ふと、手鏡の裏面に再び目をやる。そこには、極めて小さな穴がいくつか――いや、これは。
「エリス。これは“香薬鏡”だ」
「え……それはまさか……!」
「極微量の毒を鏡の裏に仕込み、匂いとともに気化させて使用者を錯乱させる道具。かつて王都で流行した“夢見薬”の一種だ。しかも、記憶と感覚を曖昧にし、幻覚を見せる成分が含まれている」
「それなら……夢の話も」
「すべて、仕組まれた幻だ」
つまり、手鏡は犯人からの“贈り物”だった。それを使った者が、じわじわと意識を狂わされ、夢を見、やがて真実と幻想の区別がつかなくなる。そして――
「鏡の裏には、小さな通気穴。これが夜通し毒を放出し続け、密室で換気もなく……」
「結果、窒息のような死に至る。意識が朦朧とした中で、逃げようとしたが、鍵に手が届かなかった……!」
「そしてこれは“事故”に見せかけられる」
密室殺人のトリックは、実に単純だった。毒によって自発的に“内側から鍵をかけた”のだ。意識の混濁した被害者が、自ら罠に閉じ込められた。
「問題は、なぜこんな手間を」
マティアスは、鏡を再びひっくり返す。
《わたしを、みて》
この言葉の意味。エリスがぽつりと言った。
「――犯人は、“彼女”に鏡を見てほしかったのかもしれません」
「自分自身を?」
「あるいは、犯人自身を、鏡の中に映すことで――」
「……自己投影か」
罪の意識を、あるいは復讐心を。“夢”という名の幻想に閉じ込めて。
数日後、手鏡を贈ったのは、王城の女官だったことが判明する。嫉妬。失恋。そして、歪んだ自己愛。女官は「彼女の顔が、あの人に似ていた」とだけ呟いた。
人は、夢に逃げることがある。そして、ときに夢は、毒よりも深く人の心を蝕む。
マティアスは鏡を閉じ、静かに息をついた。
「……夢を見るのは、夜だけで十分だ」
外では、秋の雨が止んでいた。




