表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/24

第24話:夢と、鏡と、ある密室

診療院の朝は、いつにも増して静かだった。秋雨がしとしとと降り続け、木々の葉を濡らしている。外界の音を吸い込むようなこの静けさは、何かが始まる予兆のように感じられた。


「先生、起きてください」


エリスの声が扉の向こうから聞こえた。マティアスは重たい瞼を押し上げる。寝不足だった。昨夜は夢見が悪く、何度も夜中に目を覚ました。部屋の隅に誰かが立っていたような錯覚まであった。あれは夢だったのか。


「……ああ、すまない。すぐ行く」


寝巻のまま起き上がると、机の上の書きかけのカルテが目に入った。何かが引っかかる。昨日、診療院に来た兵士の容態のことで何か考えていたはずだ。だが、それよりも今朝の気配の方が気になった。


「死亡確認、六時三十分」


診療院の西棟。仮眠室の一つで、女中の遺体が見つかった。部屋は内側から施錠され、窓は重たい鉄格子に守られていた。完全な密室だ。


「死因は?」


「初見では窒息死と思われます」


エリスの報告に、マティアスは首を傾げた。遺体の顔には恐怖の痕跡が刻まれ、爪は何かを掻きむしったかのように血まみれだった。けれど、喉に圧迫痕もなく、毒物の匂いもない。


「施錠されていたというが、鍵は?」


「部屋の中にありました。床に落ちてましたが、被害者の手が届く距離にはなかったと」


「つまり、彼女が自殺で鍵を投げた、というのは不自然だな」


「はい。しかも、他に出入りした痕跡は一切ありません」


密室殺人。推理小説のような言葉が頭をよぎる。だが現実のそれは、血も生々しく、死者は二度と口を開かない。


「先生、これを」


カルラが差し出したのは、小さな手鏡だった。遺体の枕元に置かれていたものだ。裏面に微かに擦れた跡。何かの文字が削られている。


「何か刻まれていたのか?」


「ええ。ただ、読むには難しそうです」


手鏡を光にかざすと、消されたはずの文が、かすかに浮かんだ。


《わたしを、みて》


ぞっとするような一文だった。これは、死者のメッセージか。あるいは犯人の挑発か。


「この女中には、敵がいたか?」


「いえ、目立った争いは……ただ、最近、夢の話をしていました」


「夢?」


「“同じ夢を見る”と。他の女中数名も、似たことを言っていたそうです。“夢の中で誰かに呼ばれる”とか」


その言葉で、マティアスの脳裏に今朝の目覚めの記憶が蘇る。あの夢。部屋の隅に、誰かが立っていた。白い服の、顔の見えない影が。


午後、他の女中数名に事情を訊ねた。


「夢の中で、女の人が鏡を見せてきて……“あなたは誰?”って聞いてくるんです」


「それが……その、亡くなったアリサさんに似ていた気がして……」


それは、単なる夢だろうか。夢に殺される――そんな非現実的な想像に、マティアスの理性が警告を発する。しかし同時に、医師としての直観が告げる。何かが繋がっている、と。


「エリス。仮眠室の空気を調べてくれ。特に、呼吸器に影響を与える揮発性の毒がないか」


「かしこまりました」


手鏡。夢。密室。そして窒息死。鍵は部屋の中にある。侵入者はいない。ならば、外から操作できる何かがあったのか?


ふと、手鏡の裏面に再び目をやる。そこには、極めて小さな穴がいくつか――いや、これは。


「エリス。これは“香薬鏡”だ」


「え……それはまさか……!」


「極微量の毒を鏡の裏に仕込み、匂いとともに気化させて使用者を錯乱させる道具。かつて王都で流行した“夢見薬”の一種だ。しかも、記憶と感覚を曖昧にし、幻覚を見せる成分が含まれている」


「それなら……夢の話も」


「すべて、仕組まれた幻だ」


つまり、手鏡は犯人からの“贈り物”だった。それを使った者が、じわじわと意識を狂わされ、夢を見、やがて真実と幻想の区別がつかなくなる。そして――


「鏡の裏には、小さな通気穴。これが夜通し毒を放出し続け、密室で換気もなく……」


「結果、窒息のような死に至る。意識が朦朧とした中で、逃げようとしたが、鍵に手が届かなかった……!」


「そしてこれは“事故”に見せかけられる」


密室殺人のトリックは、実に単純だった。毒によって自発的に“内側から鍵をかけた”のだ。意識の混濁した被害者が、自ら罠に閉じ込められた。


「問題は、なぜこんな手間を」


マティアスは、鏡を再びひっくり返す。


《わたしを、みて》


この言葉の意味。エリスがぽつりと言った。


「――犯人は、“彼女”に鏡を見てほしかったのかもしれません」


「自分自身を?」


「あるいは、犯人自身を、鏡の中に映すことで――」


「……自己投影か」


罪の意識を、あるいは復讐心を。“夢”という名の幻想に閉じ込めて。


数日後、手鏡を贈ったのは、王城の女官だったことが判明する。嫉妬。失恋。そして、歪んだ自己愛。女官は「彼女の顔が、あの人に似ていた」とだけ呟いた。


人は、夢に逃げることがある。そして、ときに夢は、毒よりも深く人の心を蝕む。


マティアスは鏡を閉じ、静かに息をついた。


「……夢を見るのは、夜だけで十分だ」


外では、秋の雨が止んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ