第22話:『水鏡に映るもの』
夜明け前の空に、かすかな白が差し始めた頃だった。辺境診療院の中庭にある古びた石造りの水盤。その水面を覗き込む女が一人、いた。
「やっぱり……映るわね、あの子の顔」
ユウは自嘲気味に笑うと、水面に手を伸ばしそうになったが、途中で止めた。揺らせば、それはすぐに崩れる幻だった。
「それでも……消えてくれれば、楽なのに」
彼女の言葉を遮ったのは、控えめな足音。背後には、昨日王都から戻ったばかりのアズサが立っていた。
「……話してもいい? ユウ」
「あら、珍しいわね。あなたが『話したい』なんて言うなんて」
「私も気づいてしまったの。毒に詳しいのはあなただけじゃない。最近の患者の症状が、偶発じゃないと気づいた時、最初に思ったのはあなたの顔だった」
「それは光栄ね。あたしに毒を使う動機があると?」
アズサは水面を見つめた。水は静かだった。だが、その中に映る二人の姿には、わずかな歪みがあった。
「――ユウ。クロエが倒れたとき、あなたは現場にいなかった。でも、その後彼女の紅茶を片付けたのはあなただったと、患者の一人が証言してる」
「何が言いたいの?」
「証拠はない。でも、動機ならある。あの子、あなたに――少し似てた。顔じゃない、目だよ。まっすぐすぎる目をしてた」
ユウは何も言わずに微笑んだ。それが肯定なのか、侮蔑なのか、判断はつかなかった。
「雪見草の毒は、熱に弱い。でも、彼女の体からは加熱処理された痕跡がなかった。逆に言えば、紅茶に混ぜた直後に飲ませる必要があった」
アズサの言葉は確信へと近づいていた。ユウは水盤に指先で円を描いた。
「……でも、毒はなかったんでしょう? あなたたちの検査では」
「だから、私は確かめたいの。あなたが本当に、彼女を殺そうとしたのかどうかを」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「――だって、あなたは『殺せなかった』ように見えるから」
それは告発ではなかった。どこまでも優しい確認だった。
ユウの指が止まる。やがて彼女は水盤から視線を離し、アズサに向き直った。
「……あの子は、あたしが昔、見捨てた誰かに似てたのよ。聡明で、正義感が強くて……愚かだった。きっとあたしを救おうとして、殺されるタイプ」
「それで?」
「……あの子が紅茶を手にしたとき、あたしは――」
ユウの声が途切れた。言葉が出ない代わりに、震える笑みが唇に浮かぶ。
「情けない話ね。毒を仕込んでおいて、最後に止められなかったなんて」
アズサは、そっと近づいてユウの肩に手を置いた。
「それなら、まだあなたは医者でいられる」
「ふふ……生ぬるいわね、あんた。あたしみたいな人間、王都だったら牢屋よ」
「ここは辺境よ。正しさより、生きることが優先される。あなたがこの地で、誰よりも多くの命を救ってきた。それは、消せない」
ユウは黙っていた。そして、静かにうなずいた。水面に映るふたりの姿が、揺らめきながらも、ひとつの輪郭を形づくっていた。
***
夕刻、ユウは診療院の裏にある薬草庫で、一冊の古びた日記帳を開いた。それはかつて、毒を研究していた自分が記したものだった。
一ページだけを破り、それを火にくべる。
「……過去は燃やせても、罪は消えないわね」
彼女の背に、アズサが立っていた。
「でも、それを抱えながら生きることはできる。あの子がそうだったように」
ユウは日記帳を閉じ、頷いた。ほんの少しだけ、目元が赤かった。
それは懺悔でもなく、赦しでもなく。
ただ、次の朝に向かって歩き出す者の顔だった。
完結済みにしておきます。




