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第19話:沈黙の楽譜

風が冷たくなりはじめた夕暮れ。診療院の扉が、しん……と音を立てて開いた。


「ユウ先生、お急ぎください! 音楽学校の生徒が倒れて!」


声を上げたのは、近くの音楽師範学校に勤める教師だった。


「症状は?」


「呼吸はありますが、目を開けず、唇が青く……脈が細いのです。突然でした」


ユウはコートを掴み、助手のエリシアと共に馬車に飛び乗った。


**


到着したのは、石造りの静謐な音楽学校。倒れたのは第一ホールに属する生徒・リーネという少女だった。


「数分前まで普通に歌っていたんです。それが急に……」


ユウが脈を取る。確かに弱い。呼吸も浅い。だが、毒のような呼気や発疹、瞳孔収縮などの兆候は見られない。


「心原性のショックに似ているが……環境中毒も否定できない」


彼は視線を巡らせ、室内を観察した。ピアノ。譜面。音叉。香料付きの手紙。どれも取り立てて怪しいようには見えなかった。


その時、ふと、ユウは床に落ちているものに目をとめた。――折れた調律用のチューニングハンマー。その柄の部分が不自然に黒ずんでいた。


「これ、触った方は?」


「はい。倒れる直前にリーネが……」


ユウはすぐさま布で包み、試薬を垂らした。じわりと紫色に変化する液。


「鉛……いや、これは……有機スズ化合物。神経伝達を一時的に阻害する、特殊な金属毒です」


「金属……!?」


「吸収されれば、筋力低下や心拍の乱れを起こす。なかでも“指先を酷使する者”ほど影響が出やすい。歌や楽器の生徒が標的にされれば、演奏に致命的になる」


「なぜ……?」


ユウはさらに部屋を調べ、机の引き出しに残された使用済みの布きれを見つけた。それも同じく毒反応を示す。


「これは“磨き布”です。誰かが調律器具の柄を意図的に毒で磨いた。だがその毒は、揮発もしなければ目立つ色もない。音楽室という環境に合わせた、きわめて選別的な犯行です」


「つまり、犯人は音楽に精通している……?」


「ええ、そしてターゲットも“特定”されている」


**


リーネは、今期の特待生選抜で最有力候補だったと聞いた。だがその座を巡り、別の生徒――マルヤという優等生が微妙に順位を争っていたという。


ユウは、マルヤの部屋に向かった。


中に入ると、部屋の壁に張られた楽譜が目に入る。奇妙なのは、それらが全て“逆さま”に貼られていたことだった。


「マルヤさん、これらの楽譜は……?」


「……間違いなく自分の部屋です。けれど私は、こんな風に楽譜を飾りません。逆さになんて、気持ち悪い」


ユウは楽譜のいくつかをめくり、その裏に――小さな、筆跡の異なる文字を見つけた。


《おまえの音は嘘だ。沈め》


脅迫文だった。


「……あなたが犯人ではなさそうですね」


「え?」


「毒を使っていたなら、こんな回りくどい脅しはしない。これは“別の誰かが、あなたを犯人に見せかけようとした”罠です」


**


数時間後、ユウは音楽学校の倉庫にいた。光を反射しない鏡のようなピアノの蓋。そこに微かに残された粉の痕。


「……やはりここからだったか」


真犯人は、倉庫で道具を加工し、毒を布で拭き取るふりをして塗布した。しかも標的は、リーネでもマルヤでもなかった。


「真の標的は“教師のルドヴィカ”――あの人だ」


「え? どうしてですか?」


「リーネが毒のついた道具を触ったのは偶然。その前にそれを“準備した”のはルドヴィカ氏です。彼女が演奏指導で使おうとしていた。毒は、長期間の吸収で効く。数週間前からじわじわと症状が出ていた可能性が高い」


「でも、なぜそんな……?」


「ルドヴィカ氏は最近、学校側から“早期退職”を示唆されていたと聞きます。“年齢的に新体制に合わない”と。退職に抗議するすべもなく、次第に心を病んでいた」


ユウは、机の引き出しから見つけた最後の楽譜を示した。


そこにはこう記されていた。


《音にすら、居場所を奪われたら、人はどうなるのか》


**


犯行は未遂に終わった。


ユウは毒を洗い出し、証拠を校長に渡した。ルドヴィカは自室で静かに涙を流していた。


「どうして、誰も……私に、“もう少し頑張って”って、言ってくれなかったのかしらね」


音楽の才能があっても、時代に切り捨てられる者はいる。


毒よりも恐ろしいのは、誰にも気づかれず、音のない闇に沈んでいく“心の孤毒”かもしれなかった。


ユウは最後に、棚から古いバイオリンを取り出し、軽く弓をひいた。


長く閉ざされていた沈黙の楽譜が、わずかに――震えた。

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