第15話:風の残り香、影の余韻
ユウは、診療院の窓から吹き込む風にふと眉をひそめた。
――微かに、血の匂い。
「エリシア、少し外を見てきてくれるか。村の西側、石畳の小径だ」
「また鼻が騒いだのね。了解」
彼の助手エリシアは、外套を羽織って素早く出ていった。
ユウは背後の棚から薬包を取り出しながら、すでに何かの異常を察知していた。
その匂いは、風に紛れて漂ってきた。血と…金属と…もうひとつ。焦げた木材の匂い。
これは事故ではない。
火薬のようなものが使われている――
そんな確信が彼の中にあった。
ほどなくしてエリシアが戻る。顔をしかめ、手には煤けた木箱を抱えていた。
「ユウ、あの小径沿いの小屋が爆発してた。中にいたのは一人だけ。…焼死体だった」
「やはり」
ユウは薬包を静かに机に戻すと、その煤けた木箱を観察しはじめた。
小屋は漁村の古い海事記録を保管する倉庫で、通常立ち入る者はいない。
だが遺体の服装から、それが近隣に住む写字生であったことが判明する。
「ただの火事にしては、やけに整っている気がする。むしろ…隠したがっている」
エリシアがぽつりと呟いた。
ユウは頷きつつ、木箱の破片に刻まれた奇妙な傷を指差した。
「見えるか、この焼け残った部分。これは“逆文字”だ。鏡に映さなければ読めない」
火事の現場で、誰かが文字を“逆”に書き残した。
そこに何らかの意図がある。ユウはすぐに鏡を使ってそれを読み取る。
――“風、灰、そして影”
意味深な三語だけが、そこに残されていた。
「詩的すぎる遺書にしては抽象的だな」とユウは呟いた。
「でも、“灰”とあるから、焼却の意図。“影”は……見られていた?」
「あるいは、“風”が運んだ“匂い”こそが、犯人の誤算だったか」
診療院に戻ったユウは、死者の詳細な検死を始めた。
体表の火傷に比べて、肺への煤の侵入がほとんどない。
「つまり…生きたまま焼かれたんじゃない。すでに死んでいたってこと」
「殺されてから、火をつけられた…!」
さらに調べを進めるうちに、遺体の衣に含まれた植物性の粉末が見つかる。
それは“翡翠火粉”と呼ばれる、かつて皇都で密かに流行した毒物だった。
「これは…嗅いだだけで、呼吸中枢を麻痺させる。処方を間違えれば、瞬時に窒息する」
「ユウ…この毒、村の誰かが扱えるとは思えない。どこかで仕入れた?」
彼の脳裏に浮かぶのは、前回の事件で姿を消した謎の旅医――「黒衣の医師」だ。
過去に処刑されたはずの異端医術師の模倣者が、影のように動いているのかもしれない。
翌日、ユウは村長の家を訪ねた。
「例の写字生は、過去に誰と深く関わっていましたか?」
「……あの子は、ある旅の一座と親しかったようだ。特に、劇団の脚本家と」
「劇団?」
調べの末、浮上したのは一座の移動記録と、最近失踪した旅芸人。
彼の旅路の先には、かつてユウが追っていた“黒衣の医師”の噂もあった。
ユウは静かに診療院の扉を閉じ、夜の帳が降りる中、書きかけの処方箋を眺めた。
「風が吹いたな」
「ええ、何かを運んできて、そして何かを連れ去った」
エリシアが呟く。
それは単なる火事ではない。
風が残した“匂い”が、誰かの悪意とつながっていた。
そして、それはまだ終わっていない――。
ユウはそう確信していた。