第1話:風聞と腐った桃
(塩漬け肉と薬草のスープが食いたい……)
天幕の隙間から吹き込む乾いた風に、ユウはひとつ、長いため息を吐いた。
ここは帝都のはずれ、いや、帝の影さえ差さぬ辺境に建つ――いや、建っていた――診療院の跡地である。地元民には「黒狼の巣」とも呼ばれたこの場所で、彼女は一人、黙々と草を刻んでいた。患者も看護婦もいない。いるのは、たまに毒見役の代わりに放り込まれる罪人くらい。
それでいて、診療院の名は一応あった。「帝国医学派・流刑分院」という肩書きが、帝都からの距離と絶縁を際立たせていた。
(流刑って言うか、追い出されただけなんだけどね)
ユウは、髪を結び直しながら目の前の台に転がる腐った桃に視線を落とした。斑点だらけの果肉の奥に、何かが蠢いていた。蛆、ではない。白く、透明な筋。
(……あら、これは)
指先でそっと持ち上げる。そこにあったのは桃の果肉を模した、綿密に作られた《膠質状の装置》だった。まるで本物そっくりに果汁すら染み出すその代物は、香気を撒く毒――いや、幻覚剤を隠し持っていた。
それに気づけたのは、ユウがかつて宮廷内の《医局》に籍を置いていたことと、そして、なにより彼女が"異端"であるがゆえだった。
「連れてこい、というのだな?」
その晩、帝都北門から馬車が出た。黒塗りの車体、封じ札、随行の宮廷宦官。任務は「辺境診療院より、ユウ・ハズキを迎えよ」。要請ではなく、勅命。
(帝都? 冗談でしょう)
ユウは引きずられるようにして連れて来られた。しかも、その目的が――
「王宮で、《呪殺》があった」
とのことだった。
(呪殺? バカバカしい。そんなもの、証拠の残らない毒か病気か、何かしら医学で説明できるはず)
そう思ったのは、到着した日の朝までだった。
最初の遺体は、皇帝の第六妃の胎内にいた赤子だった。問題は、胎児のみならず、母体にも原因不明の壊死が生じていたこと。通常の解剖ではわからない、まるで《何かに蝕まれた》ような組織崩壊。
さらに三日後、今度は侍女が、咽に桃の果肉を詰め込まれた状態で倒れていた。発見時には《瞳が逆さ》に回っており、舌に黒い印が浮かんでいた。
宮廷中で囁かれるのは「先帝の側室による呪い」という、百も承知の怪談話。
しかしユウは気づいていた。
(あれは毒じゃない。熱でも病でもない。もっと……操作された"錯覚"だ)
手がかりは、桃。遺体。宦官の動き。そして、意外にも――「洗濯場に干された、ある一着の下着」。
ユウは、それらを並べ、考えた。
常識に囚われれば、この事件は《怪奇》で終わる。けれど、非常識な推理を重ねれば――そこに浮かぶ「真実」は、決して神秘ではなかった。
その夜、ユウは小さな硝子瓶を取り出し、ほんの一滴だけ己の舌に落とした。
「……やっぱりね」
そして、彼女は笑った。淡く、しかし確かな笑みだった。
――犯人は、死者の中にいた。