後編
入学式から1週間が経ち、クラスの中での力関係もはっきりしてきた。
とは言っても、この学校は基本的に中等部からの持ち上がりが9割を超えるので、中等部から続くカーストの中で、松永 颯風くんと、仲村 厚司くんを含める数名の外部生が、どのポジションに収まるかというところだが。
私は、中等部の頃から相変わらず、授業や校外学習で必要があればペアになってくれるような幼児部からの知り合いを数人確保しているだけで、休み時間は基本一人で過ごしていたが、彼らは割と大きなグループに所属したらしい。
――
入学式を終えて、クラスのメンバーが集う教室の中で、
「なぁ、お前、ナカムラだろ?あのめちゃめちゃ良いストレート投げる、ピッチャーの」
と声をかけたのは、中等部でも声の大きさで目立っていたコウダイくんだった。
彼は、人との距離がかなり近いのであまり近寄りたくはないが、何百人とみて来た人間の中でも、ダントツで『素直でいい人』に分類される。
何と言うか、人を疑うことを知らなくて、言われたことを全部信じる上に、思ったことが隠せず、全て表に筒抜けなのだ。
だが、そんな彼の性格を知らないマツナガ君たちは、「えっと」と声の大きさに困惑する。……いや、違う。マツナガ君に浮かんでいるのは、これは「戸惑い」と「焦り」と「不安」。
だが、ナカムラくんに浮かんでいるこれは、「怒り」……?
そんな二人の様子に気が付かないのか、コウダイ君は
「なぁ、高校でも野球するだろ?連絡先とか交換しないか?」
と大きな声で詰め寄っていたが、肘をついたままのナカムラ君の感情は、ますます色濃くなるだけだった。
あ、このままじゃ、やばい。
そう思った時だった。
「なんだ、やっぱりアツシはすごいよな。入学初日に声かけられちゃうなんて」
立ち上がって、コウダイ君に張り合うみたいに大きな声を出したのは、マツナガ君だった。
「ははは」と頭を掻きながら笑ってはいるものの、彼の浮かべる感情は、沢山の「不安」。
だが、そんなことを知る由もないコウダイ君は、「おぉ」とマツナガ君に向き直ると、手を差し出した。
「お前。キャッチャーのマツナガだな。去年の試合、見させてもらったよ。いいプレーだった」
そう言うコウダイ君に、マツナガ君は、まだ「緊張」と「不安」を振り払えないままだが、笑顔を浮かべ、
「本当か、ありがとう」
と強く手を握り返した。
「アツシのストレート、すごいよな。毎日進化し続けて。
何年間も一緒にやってる俺も、いつか取れなくなるんじゃないかって不安になる。
だけど、こいつの投げる球は、本当に全部全部すごいんだ。
コイツが味方で、本当に良かったと思うよ」
そう言って苦笑いするマツナガ君は、少し気まずそうにナカムラ君の方に視線をやった。
見ると、先ほどまでの怒りの感情は少し収まっているものの、ナカムラ君はまだ机に肘をついたままだった。
「ああ、そうだな。ナカムラは、すごいやつだ」
だが、そう言って向き合ったコウダイ君に浮かんでいた感情は「尊敬」とかではなく、どちらかと言うと好戦的なものだった。
「俺はこの学校の中等部で、1番を背負っていた。
実力的に、お前らの学校との試合は叶わなかったが、バッティングには自信がある。早く手合わせ願いたいものだ」
そう言ってマツナガ君から離された手を、ナカムラ君の方に向けたコウダイ君に浮かんでいたのは、まっすぐな「高揚感」と「希望」だ。
そんな彼の言葉を受けて、
「へぇ」
と、ナカムラ君がちらりとコウダイ君を一瞥する。
「言うじゃん、ぜってぇ負けねぇ」
それだけ言って、手をパンと払ったナカムラ君の周りからは「怒り」はすっかり消え、ただ「面白い」という感情だけが浮かんでいた。
「ああ、俺も負けない」
と言ってニヤリと笑うコウダイ君も、負けじと「興奮」と「血の気がたぎる」感情を色濃く浮かべる。
「はは、じゃあ、早速今日バッセンでも行くか」
と笑うマツナガ君は、気がつけば周りにあった感情が全部仕舞われて、真っ白な色をまとっていた。
――
そんな観察を、ここ一週間続けてみて分かったことがある。
何と言うか、感情が出てくることの少ないマツナガ君とは反対に、ナカムラ君は常に感情が色濃く出ているのだが、それが常に原色の中から一色選んだみたいな「混ざりけのない、純粋な一つの感情」なのだ。
例えば、今は「腹減った」。
マツナガ君と話しているときは「嬉しい」。
授業中は「眠い」。というか、ほとんど寝ている。
なんか犬みたいだな。
そんなことを思う、一方で、マツナガ君はやっぱり基本的には真っ白な感情をまとうだけだった。
たまに、ナカムラ君が誤解を生むような発言をしたら「焦り」「心配」「不安」「呆れ」の少しくすんだ色、誰かが面白いことを言ったら「羨望」「尊敬」と言った明るい色と言った具合に、薄く色は出てくるが、すぐに引っ込んでいってしまう。
そして何より、皆が「めんどくさい」を生み出す掃除の時間も、「嫌だ」を生み出すテストの時間も、彼は黙って、真っ白の感情のまま時間を過ごすだけだった。
なぜなのだろうか。
彼は、人間関係に難があるわけでも、表情に乏しい訳でも、自己主張ができない訳でもない。
それなのに、彼の感情の色は、一向に出て来ない。
果たしてそれが、良いことなのか、悪いことかも分からないまま、彼に対する感情を抱いて、ただ時間は過ぎて行った。
――
そんなある日、帰りの会を終えた担任の『色』が少し違うことに気が付く。
「サカキ先生、大丈夫ですか。手伝います」
そう言って、40人分のノートを一気に運ぼうとしていたノートを半分取ると、担任の周りにあったグレーの「疲れた」は、少しだけ薄まった。
「ありがとう、ワタベさん。じゃあ、職員室まで運んでもらえると助かるな」
そう言って、サカキ先生は「よいしょっ」と半分になったノートを持ち上げると、扉の方に歩いて行った。
パタパタと追いかけ、後ろに着く。
「ワタベさんは、学校はどう?友達はできた?」
そんな他愛もない会話に、他愛もない返事をする。
「はい、まぁ」
「そっか、そっか」
と相づちを打つ担任のまとっていた「めんどくさい」の色は、徐々に薄まって行った。
「ワタベさんは、本当にいい子だよね。気が利くし、手を差し伸べる優しさもある」
そう言って話す担任の感情のパレットから、どんどん色が消えていく。
そりゃそうだ。高々2週間程度の付き合いしかない生徒に、何か特別な感情なんて抱けるはずがない。「ほめて、自己肯定感を高め、学校を居心地が良い場所として提供する」そんなことは、教師にとって仕事の一つで、何ら感情を伴うものではないのだ。
ずっと前から知っていたことなのに、パタリと足が止まった。
あぁ、そうか。私はずっと勘違いをしていたんだ。
感情が引いていく時、私はずっと「色が薄くなっていく」んだと思っていた。
だけど、そうじゃない。
一度塗った絵の具は、二度と落ちることはない。
じゃあ、どうするのか?
そうだ、上書きするのだ、「何も考えない」白色で。
きっと、あの人には「やらなきゃいけないこと」はあっても、「やりたいこと」がない。
希望がないから、失望も落胆も、喜びもさほど感じない。
だから、彼のキャンバスは真っ白のままなのだ。
彼自身の中で占める一番の感情は、考えずともやらなくてはいけないという『義務感』なのだから。
ようやく彼のことが分かった気がして、嬉しいような、安心したような温かさが胸いっぱいに広がった。
彼にとって、それが良いことなのか、悪いことなのかは、私の知ったことではない。
だが、それで彼が「生きて」いるということが、答えなのだろう。
少し遠ざかったサカキ先生の背中に向けて、またパタパタと走る。
彼の心に『色』がともるのは、もう少しだけ先のお話。
ここまでお読み下さり、本当にありがとうございます。
ハヤテがギター・マンドリン部と出会う、少し前のお話でした。
本編で説明し切れなかった感情表現や、本作の感情の根拠が含まれていたりするので、もし良ければ、『夜明けとマンドリン』の1,2章と読み比べてみて頂けるとすごく嬉しいです!
追記)名前を間違える失態を起こしてしまいました、改稿いたしました。