あのとき話せなかったこと、今なら言える
週末の午後、春の風がやわらかく頬をなでていた。
怜と優真は、待ち合わせ場所のカフェで向かい合っていた。
ここは以前、二人がはじめてプライベートな話をした店。
懐かしさと緊張が、テーブルの上に静かに流れていた。
「……ごめんね。私がちゃんと話さなかったせいで、余計な心配させちゃって」
そう言って怜が視線を落とすと、優真はすぐに首を振った。
「ううん。俺の方こそ、不安になって勝手に誤解して……」
互いの言い訳が、空中でぶつかって和らいでいく。
「中原さんは、私の大学時代の先輩でした。付き合ってたのは……社会人になってから1年くらい」
怜は静かに話し始めた。
途切れがちな言葉。それでも、逃げることなく。
「すごく優しい人だったし、最初はうまくいってた。でも、だんだん私が完璧でいようとしすぎて……気づいたら、すごく息苦しくなってた」
「怜さんが……?」
「自分の気持ちを言うのが怖かったの。期待を裏切るんじゃないかって」
優真は、ただ黙って聞いていた。
「最後は、向こうから別れを告げられた。『君はひとりで完結しすぎる』って」
少し笑う怜の声は、どこか寂しげだった。
「それ以来、誰かと深く関わるのが怖くなったの。正直、今も少し……怖い」
カップを持つ手が、わずかに震えていた。
しばらく沈黙が流れて──
「ありがとう、話してくれて」
優真の言葉は、驚くほどあたたかかった。
「……え?」
「怜さんが、完璧じゃないってこと、知れて嬉しかった」
怜の目が見開かれる。
「俺、まだ全然うまくできてないし、たぶんこれからも不安にさせちゃうと思う。でも、ちゃんと向き合いたいって思ってる」
「……優真さん」
「だから、俺にも不安を話してほしい。気持ちを味見させてくださいって、前に言ったよね」
優真は、真剣な目で続けた。
「俺、まだ君の全部は知らないけど、知っていきたい。もっとちゃんと、君を理解したい」
怜の瞳が、じわりと潤んだ。
「……ずるいですよ、それ」
「えっ」
「そんなの、好きになるに決まってるじゃないですか」
その日、ふたりは手をつないで帰った。
マニュアルでは教えてくれない、不器用な心の交差点。
でもそこに立てたのは、ふたりが本音を見せ合えたから。
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春の陽射しの中、ふたりは並んで歩いた。
手をつないだまま、怜は何度かちらりと優真の横顔を盗み見た。
彼の表情は穏やかで、どこか安心したようにも見える。
(……こんなふうに隣を歩ける日が来るなんて、思ってなかった)
不器用で、でも一生懸命な人。
理屈だけじゃ動かなくて、でも誠実な気持ちをぶつけてくれる人。
──そんな人に、出会えてよかった。
帰り道、近くの公園でベンチに腰かけると、優真がぽつりと言った。
「俺も、怜さんにちゃんと話したいことがある」
怜は少し驚いた顔で、彼のほうを見つめる。
「実は……俺も昔、好きだった人がいてさ。付き合ってたわけじゃないけど、ずっと片想いだった」
「……そうなんですね」
「その人には、結局何も言えなかった。臆病だったし、自信もなくて。だから今、怜さんとちゃんと向き合えてるのが、自分でも不思議なんだ」
「不思議……?」
「うん。でも、たぶん怜さんが言葉で考える人だからだと思う。俺も、不器用だけど、ちゃんと伝えようとすれば、怜さんなら受け取ってくれるって思えるんだ」
怜はふっと息をついて、小さく笑った。
「それ、たぶん私も同じです。優真さんが、ちゃんと向き合ってくれるから、怖くても逃げずにいられる」
ふたりの間に、言葉では説明できない安心感が広がっていく。
しばらくして、怜がそっと口を開いた。
「ねえ、もし恋愛マニュアルが今あったとしたら、今の私たちに何て書くと思います?」
優真は少し考え込んでから、にやりと笑った。
「『まずは、お互いの取扱説明書をつくりましょう』とか?」
「それ、けっこう的を射てるかもしれませんね」
「でも、不完全でいいって、一文は絶対に入れたいな」
「……いいですね、それ。私もその項目、太字で書きます」
その日の別れ際。駅の改札前で。
「怜さん」
「はい?」
優真はほんの一瞬、迷うように息を飲んだ。
「俺たち、ちゃんと付き合ってるってことで、いいですか?」
怜は一瞬目を見開いて──そして、まっすぐうなずいた。
「はい……ちゃんと、私たちの言葉で、始めましょう」
春の風が吹き抜けた。
まだ不器用なふたりだけど、マニュアルを超えた感情で、確かに恋は始まっていた。