想いが重なる、でもまだズレる
ホワイトデーから数日後。
怜と優真の関係は、社内でも「なにかあったっぽい」と噂される程度には、変わり始めていた。
目に見える進展があるわけではない。
でも、ふたりの会話は少し増え、目が合えば互いに柔らかな笑みを浮かべるようになった。
春の足音が近づくなか、その空気は、穏やかで、そして脆かった。
「……え? 元カレ?」
営業フロアの休憩スペースで、優真がコーヒーを口に運んだ直後だった。
吉村の言葉が、あまりに唐突だった。
「そう。怜さんの元カレ。うちの会社に転職してくるらしい」
「マジで?」
「来週から。俺らのプロジェクトにも一枚噛むってよ」
手にしていた紙コップを、危うく落としかけた。
(怜さんの元カレが……同じ職場に?)
その日の帰り道。
怜は駅へ向かう道で、さやと並んで歩いていた。
「……会うの、ちょっと怖いかも」
「うーん、怜って普段クールだけど、実は過去の恋愛にはだいぶダメージ受けてるもんね」
「……私、あのとき、全部理屈で処理しようとして、でも全然うまくいかなくて……」
「もう終わったことじゃん。今の怜は、前とは違う」
「でも、優真さんに何か誤解されたらって思うと怖い」
「それならちゃんと話せばいい。隠してすれ違うくらいなら、最初からちゃんと向き合わなきゃ」
怜は、立ち止まって空を見上げた。
春の夕暮れはまだ寒く、心も少しだけ、凍えそうだった。
週明け。
転職してきたのは──涼しい笑顔の、落ち着いた雰囲気の男性だった。
「中原隼人です。前職は制作系のスタートアップで……」
自己紹介の声を、怜は遠くから聞いていた。
顔を合わせるのは久しぶり。最後に会ったのは、別れ話の夜だった。
そして数日後。
会議のあと、偶然にも怜と中原が二人きりになる場面があった。
「久しぶりだな、怜」
「……仕事中です」
「変わってないな。そういうとこ」
怜の表情がほんの少しだけ強張る。
「君がどんな顔してここに立ってるのか、見てみたかった」
「……何が言いたいんですか」
「ただ、君が幸せそうで、なんだか安心した。それだけ」
その言葉に、怜は言葉を返さなかった。
しかし──その様子を、遠くから優真が見ていた。
そして彼の心に、今まで感じたことのない感情が芽生える。
(……怜さん、あんな顔、俺には見せたことない)
胸の奥に、じわじわと広がる疑念。
すれ違いの芽が、音もなく静かに芽吹きはじめていた。
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その日、怜は帰りのエレベーターをひとりで降りようとしたところを、後ろから声をかけられた。
「怜さん」
振り返ると、優真がそこにいた。
「あ、朝比奈さん……お疲れ様です」
いつもより、距離がある声。
優真は一歩近づいて、ためらいがちに言った。
「……今日、中原さんと話してたよね」
「ええ、仕事のことで、ちょっとだけ」
答えは淡々としていた。けれど、それが逆に優真の胸に刺さった。
「元カレ、なんだよね?」
「……そうです。でも、それがどうかしましたか?」
怜の返答は冷静だった。だけど──
(なんでだろう。こんなとき、何を言えばいいのか分からない)
優真の口が、何度か開いては閉じた。
そして出てきたのは、ほんのわずかに拗ねたような言葉だった。
「……俺には、あんな顔見せたことないのに」
その瞬間、怜の目が少し揺れた。
「……それは、私が悪いんですか?」
「いや、そうじゃなくて……ただ、俺はまだ、怜さんのこと全然知らないのかなって、思っただけで」
怜は小さく息をのんで、うつむいた。
「優真さん。私、あなたに何も隠してるつもりはないんです。ただ、まだ……話せるほど整理がついていないだけで」
「……うん。ごめん」
静かな空気が、ふたりの間に広がる。
次の日、怜はさやにすべてを話した。
「自分でも分かってる。ちゃんと向き合わなきゃって。でも、まだ怖いの」
「わかるよ。過去に傷つけられた分だけ、今に慎重になるもんだよね」
「……優真さんは、本当にまっすぐで、優しくて。だからこそ、下手に過去を持ち出して傷つけたくない」
「じゃあ、ちゃんと伝えな。『私も向き合おうとしてる』って。黙ってたら、それこそすれ違うよ」
怜はうなずいた。小さく、でも確かに。
そして、その日の夜。怜はL IMEを送った。
「中原さんとのこと、ちゃんと話したいです。私もあなたに、ちゃんと向き合いたいと思ってます。よければ、今週末、少し時間もらえますか?」
数分後、返信が届いた。
「ありがとう。うれしいです。俺も、ちゃんと聞かせてほしいです。今の君の気持ちを──ちゃんと、知りたい」
ふたりのすれ違いは、静かに解け始める。
誤解と不安があったとしても、話し合えば、また理解に近づける。
マニュアルには書かれていない感情の処理。
でもそれを選ぶふたりは、もう確かに、恋愛偏差値ゼロの頃より強くなっていた。