バレンタイン戦線、予想外の本命
二月。社内がほんの少し浮ついた空気に包まれ始めた。
毎年恒例のバレンタイン・イベントが近づいている。
「ねえねえ、今年もやるらしいよ、部署対抗・義理チョコラリー!」
「えっまた? あれって地味に気使うんだよな~」
会話の端々に「チョコ」の文字がちらほら混ざり、フロアの雰囲気はそわそわし始めていた。
怜は、同じ企画チームの相沢さやに背中をつつかれる。
「で、どうすんの? バレンタイン」
「どうって?」
「優真くんにあげるんでしょ? 本命チョコ」
「……別に、普通に渡すだけです」
目を逸らす怜に、さやは満足げに笑う。
「ふーん、そっかそっか。普通に渡すだけね。ふふっ」
「……何がそんなに面白いんですか」
「いや、ついにそういうイベントが来たなって思ってさ。恋って、ホントに日常に混ざってくるんだよね~」
怜は黙っていた。確かに、彼に気持ちを伝えるチャンス──そう思えば、チョコ一粒すら重みを持つ。
一方の営業フロア。
「朝比奈さん、今年もたくさんもらいそうですね~」
「え、いやいや、全然。むしろ怖いんだけど、そのノリ……」
苦笑する優真に、吉村がこそっと耳打ちする。
「で、本命は誰からもらうつもりなのよ?」
「……決まってるだろ」
「おっ、言ったな。怜さんだよな?」
優真は、照れ隠しのようにファイルで顔を隠した。
「……渡してくれるかな」
「お前が受け取る覚悟あるなら、絶対くるって」
覚悟──その言葉が、優真の胸にじんと響いた。
バレンタイン前日。怜は悩んでいた。
市販で済ませるべきか、手作りか。包装は? 渡すタイミングは?
恋愛マニュアルは、「効果的なチョコの渡し方」すら網羅していたが──
(……もう、マニュアル通りじゃない)
彼女は、自分の気持ちに素直になろうと決めていた。
そして迎えた当日。
出勤してきたフロアは、朝から義理チョコが飛び交っていた。
「朝比奈さん、これ、いつもお世話になってますチョコです!」
「うわ、ありがとう、嬉しい!」
笑顔で受け取る優真。しかし──
(怜さんは……まだ来てない)
そう思ったとき、目に入ったのは、またしても山下奈々。
「これ……よかったら、受け取ってください」
「えっ、ありがとう。これ、義理……?」
「……さあ、どうでしょう」
そう言って、にこりと笑った彼女の手には、小さなリボン付きの箱があった。
その瞬間。
「……すみません、少しお時間いただけますか?」
冷静な声が、背後から響いた。
振り返ると──怜が立っていた。
表情は変わらない。けれど、その手には、丁寧にラッピングされた小さな紙袋。
「朝比奈さん。これ、よかったら受け取ってください」
優真の目が見開かれる。
まるで、静かなる戦線布告。
静まり返ったように感じた瞬間の後──
「……ありがとう。もらっても、いいですか」
優真は、怜からの紙袋をそっと受け取った。
触れた指先がわずかに震えるのを、怜は感じた。
「手作りなんですけど、味は保証できません」
「そしたら、味見は一緒に……してくれますか?」
思わず、怜は吹き出した。
「それ、どこかのマニュアルに載ってたセリフ?」
「……たぶん、オリジナルです」
「なら、悪くないです」
ふたりの間に、柔らかな空気が流れた。
だがその様子を、山下奈々は離れた場所からじっと見ていた。
昼休み、怜は屋上でさやとランチをとっていた。
「ふぅん、本命チョコ、無事に渡せたわけだ」
「ええ、一応」
「で、あの後どうだったの? 何か言われた?」
「味見してほしいって……なんか、優真さんらしいなって思った」
「それってさ──」
さやはフフっと笑って怜の肩をつつく。
「完全に本命同士ってことじゃん。もう、告白一歩手前って感じだよ?」
「……まだ、ちょっと怖いですけどね。全部さらけ出すの」
「でも、前より表情柔らかいよ。恋すると人って、ちゃんと変わるんだね」
怜は、少し照れながらうなずいた。
一方その頃、優真は営業フロアで吉村に詰め寄られていた。
「で? 本命チョコ、もらった?」
「……うん」
「うんって! お前、ちゃんとお礼言って気持ち伝えた?」
「その……ちゃんと告白じゃないけど、味見してって」
「おーいお前、遠回しにもほどがあるわ!」
「でも、彼女が少しだけ笑ったから、それで十分かなって」
吉村は頭をかかえるように笑った。
「まあ、らしいっちゃらしいけどよ。でも、次はちゃんと言葉にするの忘れんなよ?」
「……うん。わかってる」
その夜、怜の家。
仕事から帰った彼女は、部屋着に着替えてテーブルに座っていた。
優真から届いたLIMEには、こんなメッセージがあった。
「チョコありがとう。ほんとにうれしかった。次は俺から何か渡しても、いいですか?」
数秒、画面を見つめたのち──
「もちろん。楽しみにしてます」
そう打ち込んで、送信した。
マニュアルに書いていない展開ばかり。
でも、それがどこか心地いい。
(……次は、どんな一歩になるんだろう)
そう思いながら、怜はそっとソファに体をあずけた。