マニュアルに載ってない、はじめてのデート
日曜、午前十一時。新宿駅東口の人混みの中、怜は待ち合わせ場所に静かに立っていた。
ふだんはスーツかモノトーンの服しか着ない彼女だが、今日はライトグレーのニットに白のロングスカートという柔らかな装い。緊張が、その指先に出ていた。
予定の五分前。
人混みの向こうから、優真が小走りで現れる。
「お待たせしました!」
「ううん、私も今来たところ」
テンプレートのような返しに、ふたりは小さく笑い合った。
映画館のロビー。
チケットを事前に買っていた優真は、怜にそれを差し出す。
「チョイス、大丈夫でした?」
「話題の恋愛映画って、どこかで見た気がするけど……」
怜が目を細める。
実は、恋愛ジャンルはどちらかというと苦手だ。
「……でも、あなたと一緒なら、何でも大丈夫」
その言葉に、優真は一瞬固まり、慌てて目を逸らした。
「そ、そっか。よかった……!」
(……可愛い)
怜は口元を手で隠しながら、小さく笑った。
上映中。
スクリーンの中では、すれ違いまくる男女がひたすらに感情をぶつけ合っていた。
怜は思った。
(映画の中の人たち、気持ちを言葉にするのが、どうしてこんなに上手なんだろう)
一方、優真も──
(こんなシーン、マニュアルにない……! 手、繋ぐとか、どのタイミングで……?)
彼の手はひざの上で、不自然に開かれたり閉じたりを繰り返していた。
映画のあと。近くのカフェで並んで座るふたり。
「……思ったより、ちゃんとした映画でしたね」
「ね、予想より泣きそうになった。危なかった……」
「私は途中、ちょっと寝そうになってました」
「えっ」
「……嘘です。ちょっとだけですけど」
ふたりの間に、ささやかな笑いが広がる。
その瞬間、ふと沈黙が降りた。
優真が言葉を探すように、カップを回す。
「……俺、今日うまくできてるかなって、ずっと思ってて」
「うまくって、何が?」
「あなたを楽しませるとか……そういう、理想的なデートってやつ。マニュアルで読んだ通りに進めようとしたけど、なんか……」
優真は、少しだけ視線を落とす。
「うまくいってるのか、よくわからなくて」
怜は、静かに息を吐いた。
「私も、ちょっと考えてました」
「え?」
「たとえば、次は○○に連れていくと印象アップとか、食後は〇〇を話題にすると親密度が上がるとか」
優真が、小さく笑う。
「……同じこと考えてたんだ」
「でも……」
怜は、優真の目を見つめた。
「あなたが、楽しませようと思ってくれてること、それだけで……私は嬉しいんです」
その言葉に、優真の表情がゆっくりと緩んだ。
この日初めて、ふたりの間に焦らなくていい空気が流れた気がした。
だが、帰り道。駅の階段を上っていたときだった。
突然、怜の足元がふらついた。
「……っ!」
思わずつかまったのは、優真の腕。
「大丈夫!?」
「ごめんなさい、ヒール慣れてなくて……」
そんな怜に、優真は言った。
「もう、無理しないでいいですよ。俺、スニーカー派ですし」
怜は、少し恥ずかしそうに笑う。
「……じゃあ、次のデートはスニーカーで」
「次もあるって、ことでいいんですね?」
「ふふ、そういうことです」
そうして別れた後。怜はひとり、帰りの電車に揺られていた。
(……楽しかった)
素直にそう思えた。
でも──彼の手が、自分に触れた瞬間。
胸の奥に眠っていた、もうひとつの感情が顔を出した。
(……あのときの彼も、こうして私に触れていた)
過去の記憶が、ふと蘇る。
それは、恋愛マニュアルにも書かれていない、トラウマという名のページ。
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月曜の朝。怜は職場のデスクに座り、PCの画面をぼんやりと眺めていた。
楽しかった──そのはずだった。
優真の気遣いも、言葉も、空気も。
全部が「優しさ」でできていたのに。
(……なのに、なんで)
心の奥がざわついていた。
優真の手が、自分の腕を支えた瞬間。
それだけで、記憶の底が不意に揺れた。
──「誰かを信じたって、結局は裏切られるだけじゃん」
大学時代、初めて付き合った恋人に言われた言葉。
突然の別れと、傷ついた感情のまま、蓋をしてしまった心の部分。
(……まだ、引きずってるんだ、私)
一方、優真はと言えば、朝から落ち着かない様子だった。
「おい優真、顔に悩んでますって書いてあるぞ」
隣の席から、吉村がからかうように声をかける。
「……昨日デートだったんだ」
「おおっ、ついに! で、どうだった?」
「楽しかった。たぶん……ちゃんと伝えられたと思う」
「たぶん?」
「……怜さん、笑ってたけど、最後、少し遠くを見てた気がして」
吉村は少し真剣な顔になる。
「相手の心の奥って、見えそうで見えないもんだよな。でも、そう感じたってことは──お前、ちゃんと彼女を見てるってことだ」
「……そうですかね」
「男はだいたい鈍感だけど、お前はそこが違う。なら、ちゃんと聞け。それだけで変わること、あると思うぜ」
昼休み。怜が給湯室でコーヒーを入れていると、声をかけられた。
「……桐谷さん」
優真だった。怜は少し驚いたように振り返る。
「少しだけ、時間いいですか?」
「……ええ」
ふたりは空いている会議室に移動する。休日とは打って変わって、静まり返った社内の空気。
「昨日、楽しかったです」
怜が先に切り出した。
「私も。ほんとに」
「でも……何か、考え事してましたよね。最後の方」
怜は、言葉を失う。
優真が、ためらいながらも続ける。
「もし、それが俺のせいなら……聞かせてもらえませんか。ちゃんと、知りたいんです」
「……あなたには、関係ないって思ってた」
怜の声は静かだった。
「昔、好きだった人がいて。でも、裏切られて──信じることが、怖くなったんです」
彼女はゆっくりと自分の胸に手を当てる。
「誰かに寄りかかると、そのぶん傷つく。だから、マニュアルを読んで安全な恋をしようとした」
「……俺も、そうでした」
優真は、まっすぐに怜の目を見る。
「失敗するのが怖くて、うまくやりたくて。本に頼って、正解を探して。でも今は……間違ってもいいから、あなたと向き合いたいと思ってます」
怜の目に、少しだけ光がにじんだ。
「……そんなの、ずるいですね」
「え?」
「そんなふうに言われたら、信じてみたくなるじゃないですか」
優真は微笑む。
「じゃあ、信じてください。ちゃんと、俺の言葉で」
会議室を出たふたりは、廊下ですれ違った本間部長に呼び止められた。
「お、ふたり、いい雰囲気だね。進展あった?」
怜と優真は、そろって目を逸らし、うなずきもしない。
ただ、その表情には確かに変化があった。
それを見て、本間はひとり頷く。
(……よしよし)
その夜。怜は久しぶりに、恋愛マニュアルのページを閉じた。
(これは、もう参考書じゃない)
彼女の中で、少しずつ答えのない恋が形を持ち始めていた。