ほんとうの言葉は、どこにある?
社内のカフェスペース。昼休みの喧騒から少し離れたその場所に、怜と優真の姿があった。
どちらからともなく、窓際の二人席に腰を下ろす。
中間に置かれたトレーには、サンドイッチとホットコーヒー。けれど、どちらも手はつけられていない。
「……ありがとう。時間、作ってくれて」
「いえ。私も、話したいことがあったので」
少し間をおいて、優真が口を開く。
「昨日のこと……奈々ちゃんのことなんですけど」
怜は、表情を変えずに聞いている。
「俺、ちゃんと線引きしてたつもりだったんです。でも……あの子、悪気があるわけじゃなくて、無自覚で踏み込んできて」
「……ええ、わかってます。奈々さんが悪いわけじゃない」
「でも、俺が──鈍すぎたんです」
優真の声がほんの少し揺れる。
「……気づいたんです。俺、マニュアルに頼ってばかりで、気まずくなることから逃げてた」
「……」
「あなたが、目を逸らさずに向き合おうとしてくれたのに、俺は……それを、正面から受け止められなかった」
怜は、その言葉にふっと目を伏せた。
「私も……似たようなものです」
ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。
「本当は……あの時、どうして来てくれなかったんですかって、聞きたかったんです」
「……」
「でも、それを聞いたら、何かが壊れてしまいそうで。だから……黙っていました」
ようやく向き合ったふたり。
目と目が、初めて感情でつながった気がした。
少しの沈黙のあと、優真がふと笑う。
「……マニュアル、燃やそうかなって思ったことあります」
「私も、一度シュレッダーかけようとしたことあります」
「けど……なんだかんだで、まだ手元にある」
「ええ、私も」
ふたりは、同時に笑った。
それは作られた笑顔じゃない。素直な、安堵の笑みだった。
「朝比奈さん」
「はい?」
「これから先……わからなくなった時は、正直に聞いていいですか」
怜は少し驚いたように目を見開き、やがて頷いた。
「その代わり……私も聞きます。あなたの言葉で、答えてください」
「……もちろん」
そのやりとりの少しあと、怜がふと視線を横に向けた時──
斜め向こうの席に、山下奈々の姿があった。
彼女はスマホを手にしながら、こちらの様子をじっと見ていた。
(……また、波が来るかもしれない)
けれど怜は、今度は目を逸らさなかった。
真正面から、その視線を受け止めていた。
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昼休み明け。オフィスに戻った怜は、自分の席に座りながら深く息を吐いた。
窓際のカフェスペースで交わした会話。
そこには、マニュアルにはない「彼の言葉」が確かにあった。
けれど──その余韻を打ち消すように、ひとつの通知がスマホに表示された。
《山下奈々:お昼、ふたりで何話してたんですか?♡》
添えられたスタンプは無邪気な笑顔。
怜の指が、一瞬止まった。
(また、恋愛ごっこみたいなつもりなんだろうか)
だが、すぐにスマホを伏せる。
正面から受け止めると、たった今、優真と約束したばかりだ。
一方その頃、営業部のフロアでは。
「朝比奈さん、さっきのLI ME見ました?」
奈々が小首をかしげながら笑う。優真は、デスクの書類に視線を落としたまま応じた。
「ああ、見たよ」
「返事くれないから、ちょっと気になっちゃって。変なこと聞いちゃいました?」
「……うん、少しだけね」
奈々の笑みが、すっと引いた。
「ごめんなさい。朝比奈さんと桐谷さん、なんか……雰囲気よかったから、つい」
「うん。それは……たぶん、奈々ちゃんの勘、正しいと思う」
「え……」
「俺さ、今まで自分から動く恋ってやったことなかったんだ」
視線を上げる。真っ直ぐに、奈々の瞳を見て。
「でも、今回ばかりは、自分で決めたくなったんだよ。自分の言葉で、自分の選択で」
「……それって」
「好きなんだ。桐谷さんのことが」
オフィスのざわめきの中。
その一言だけが、やけに静かに響いた。
奈々は、しばらく黙っていた。
そして──ほんの少し、笑った。
「そっか……朝比奈さんって、ちゃんと好きって言うんですね」
「……うん」
「……応援します。たぶん。いや、ちょっとだけ、悔しいけど」
無邪気さの裏に、確かに本音があった。
数日後。
怜が資料整理をしていると、見慣れた人影が近づいてきた。
「……こんにちは、桐谷さん」
奈々だった。
「少しだけ、いいですか?」
怜は、一瞬だけ迷い──頷く。
会議室の端。ふたりきりの空間。
「この前のこと……ごめんなさい。空気読めてませんでした」
「いいえ。謝ることじゃないと思います。奈々さんの行動には、悪意がないのはわかってますから」
その言葉に、奈々がふと表情を和らげた。
「……でも、無自覚って、罪ですよね。私もやっとわかりました」
その言葉には、どこか成長を感じさせる響きがあった。
「桐谷さんって、ずっとクールで完璧に見えたけど……ちゃんと、人のこと、ちゃんと見てるんですね」
「……あなたが思うほど、私は強くないですよ」
「じゃあ、もっとちゃんと応援します。恋、頑張ってください」
それだけ言って、奈々は軽く会釈し、去っていった。
残された怜は、しばらくその背中を見送っていた。
(……応援ね)
心が、少しだけ軽くなる気がした。
その夜、怜のスマホが鳴った。
画面には「朝比奈優真」の文字。
《この週末、もしよければ……一緒に映画、行きませんか?》
シンプルな誘い。
でもそれは、マニュアルではなく彼自身が選んだ言葉。
怜は、静かに打ち込む。
《いいですよ。あなたとなら》