マニュアルにない、予想外な一手。
月曜の朝。広告代理店・プレインズ社のオフィスには、週初めらしからぬざわめきがあった。
「えっ、なにこれ……」
怜が出社して最初に目にしたのは、掲示板に貼られた、社内レクリエーションのお知らせだった。
『新プロジェクト発足記念・チーム対抗BBQ懇親会(参加自由)』
「え、こんなの……初めて聞いた」
戸惑う怜の隣に、ニヤついた顔で立つ人物がいた。
「どう? こういうの、苦手だったりする?」
「……吉村さん」
営業部の兄貴分・吉村凌が肩をすくめる。
「実はな、これ……お前らの部の本間さんが発案らしいぞ。最近、若手の距離が硬いとか言ってな」
「…………」
「それで、企画チームと営業チーム混ぜて、交流しようってわけだ。もちろん、朝比奈も来るからな?」
その言葉に、怜の指先がわずかに震える。
(朝比奈さん……)
──先週、互いにマニュアル恋愛者だと知ったあの夜から、怜の心には、妙な揺れが残っていた。
一方その頃、営業フロア。
「BBQ!? やったー! 楽しそうっ!」
無邪気に喜ぶ山下奈々の声が響く。
その隣で、優真は硬直していた。
(マニュアル……BBQ編……そんなの、載ってない!)
「朝比奈さんも来ますよね?」
「え、あ、うん。たぶん」
奈々は笑顔で手を叩いた。
「嬉しい! じゃあ、隣いいですか?」
「え、隣……?」
「ほら、焼きそばとか一緒に焼きたいじゃないですか〜」
──その時。怜が通りかかる。
一瞬、目が合う。
けれど、怜は視線を逸らして、何事もなかったかのように通り過ぎた。
(あれ……?)
優真の胸に、ざらりとした違和感が広がる。
そして──当日。
河川敷の広場。快晴。会社の若手たちがざわつく中、BBQコンロの煙が空に上がっていた。
「桐谷さん! こっちに座ります?」
デザインチームの女性が声をかけるが、怜は軽く微笑んで首を振る。
「ありがとう。でも、少し歩いてから行くわ」
スマホを握りしめたまま、怜は離れた木陰に向かう。
心の中は落ち着かなかった。
(朝比奈さん……奈々さんの隣に座るのかな)
知ってる。あれは無邪気なんかじゃない。
彼女の言動は、無意識であれど、確実に好意の揺さぶりをかけている。
(でも……私はどうしたいの?)
その答えを見つけられないまま、立ち止まっていると──背後から声がかかった。
「……探しましたよ、桐谷さん」
振り返れば、優真がいた。紙皿と飲み物を両手に持って。
「あなた、こういう場苦手そうだなって思って」
「……正解です」
怜は、ふっと笑った。
「……座ってもいいですか?」
無言で頷く怜。隣に腰を下ろした優真は、焼きたてのウィンナーを差し出した。
「焦げる寸前で救出した奇跡の一本、どうぞ」
「……ありがとう」
紙皿を受け取りながら、ふたりは同時に笑った。
ほんの少し、心が緩んだ、その時。
「──朝比奈さーん! やきそば一緒にって言ったじゃないですかー!」
広場から、奈々の声が飛ぶ。
怜の手が、ぴたりと止まる。
優真もまた、顔を強張らせた。
「……ごめんなさい。行ってください」
「ち、違うんです、これは──」
「私は、別に気にしてませんから」
それは、かつて自分が言った言葉の再現だった。
皮肉なほど、冷静に投げ返されたその一言に、優真は言葉を失う。
(……俺は、何をやってるんだ)
すぐに追いかけたい。でも、足が動かなかった。
広場に戻ってきた怜は、ふと後ろを振り返る。
──誰も、追いかけてこない。
(マニュアル通りじゃ、ダメだって……わかってるのに)
彼女の胸に、言葉にならない空虚が広がっていく。
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BBQ懇親会が終わり、会社から貸し出されたマイクロバスに乗り込むメンバーたち。
怜は、車内の一番後ろの席にひとりで座っていた。隣には誰もいない。
そして数分後、遅れて乗り込んできた優真が、空席を探して歩いてくる。
(どうする? ここに来る? それとも……)
彼の視線が、怜の方に向いた。
一瞬だけ、目が合う。
でも──彼は、数列前の空いた席に腰を下ろした。
(……そういうこと、なんですね)
怜の胸に、すっと冷たい風が吹いた気がした。
帰り道、駅までの短い距離を歩く中、怜の足取りは重かった。
別に、期待なんてしてなかった。
でも、彼の隣にいたいと思ってしまった自分が、ひどくみじめだった。
「……今日は、ありがとうございました」
そう言って背を向けようとした瞬間──
「ちょっと待ってください」
優真の声が、静かに背中に届いた。
「ほんとは……最後、あなたの隣に座りたかったんです」
怜は、振り返らずに答える。
「でも、座らなかった」
「……怖かったんです」
その言葉に、怜はわずかに動きを止める。
「また、タイミングを間違えるんじゃないかって。俺、マニュアルの一文一文に縛られてて……でも、今日のあなたは、どこにも書いてなかった」
「……私も」
ようやく振り向いた怜の瞳には、揺れる光が宿っていた。
「気にしてませんって、あれ……ほんとは、気にしてました」
「……そっか」
優真は、そっとポケットから何かを取り出す。
小さな付箋が貼られたマニュアル本──そこには、手書きの文字が並んでいた。
『ここから先は、自分で書けってことだよな』
「……もう、マニュアルに頼るの、やめようと思って」
怜の手が、そっと自分のバッグに触れる。
中には、いつも持ち歩いていた『戦略的恋愛術』があった。
でも──それを取り出さず、彼女は小さく微笑んだ。
「私も、そろそろ自分のやり方を考えてみようかな」
その夜。
ベッドの上で、怜は天井を見上げながら考えていた。
(もし明日、朝比奈さんが行動を起こしたら……)
そう思ってスマホを手に取る。
──だが、その通知欄に、一通のLI MEが届いていた。
送り主は、山下奈々。
《今日のこと、内緒にしてくださいね♡ 朝比奈さん、やっぱり優しいなあ〜って》
(…………)
心臓が、ぎゅっと掴まれるような感覚。
あの時の笑顔は、自分だけに向けられたものじゃなかったのかもしれない──
そう思った途端、スマホを伏せた。
一方、優真の部屋。
彼は、ソファの上で頭を抱えていた。
(なにしてんだ俺……なんでこんなLI ME、奈々ちゃんから来るんだ……)
マニュアルでは対処不能の案件。
優しさが誤解されるリスクなんて、何ページにも渡って書かれていたはずなのに。
(……明日、ちゃんと伝えなきゃ)
もう、すれ違いを繰り返したくない。
だからこそ、次の一手は「自分の言葉」で。
翌朝。オフィス。
デスクについた怜の視界に、優真の姿が飛び込む。
彼は、まっすぐに歩いてくる。そして、小さく頭を下げる。
「おはようございます。今日の昼、少しだけ時間いただけませんか」
怜は、一拍置いて頷いた。
「……はい。少しだけなら」