その視線は、作戦か本心か。
「おはようございます、桐谷さん!」
朝一番。オフィスに到着するなり、朝比奈優真は爽やかな笑顔で怜に声をかけた。
「……おはようございます」
怜の反応は、いつも通りクールでそっけない。
しかし、優真の心の中ではマニュアルのページがめくれていた。
(P.34:毎朝のあいさつは、心の距離を近づける基本ステップ。笑顔+名前呼びがポイント)
(完璧だ……!)
と、自画自賛しかけたその時──
「朝比奈くん、例のクライアントの件、ちょっといい?」
後輩の山下奈々が、タイミングよく割り込んできた。手には資料を抱え、無邪気に笑う。
「あ、うん。今、ちょっとだけなら……」
(うわ、空気!)
そう思いつつも、優真は断れなかった。
一方、怜はその様子を黙って見つめていた。
マニュアルP.41──ライバルの存在を想定せよ。ただし、動揺は見せるな。
(……別に、気にする必要はない。戦略的に動くだけ)
──そう思ったはずなのに。
どうしてか、心がチクリと痛んだ。
その日の午後。会議室での資料作成のため、ふたりきりの空間。
怜はノートPCに集中しているが、優真はどこかそわそわしている。
(P.52:ふたりきりの空間では、緊張と安心のバランスを取れ。沈黙をチャンスに変えるのが上級者)
(いける……ここで、さりげない質問から距離を詰めてみよう)
「桐谷さんって、休みの日とか……何してるんですか?」
タイピングの音が一瞬止まる。
「……読書とか、掃除とか」
「へぇ。意外と、ちゃんと家のことするんですね」
「意外ですか?」
「いや……ほら、桐谷さんって、なんでも完璧にこなしそうだから」
(褒めてるつもりなんだけどな……)
怜は一瞬だけ優真を見て、すぐに視線を戻す。
(……マニュアルP.26:好意と見せかけた賞賛を、あえてスルーせよ。相手を焦らせて主導権を握る)
「そういうの、別に完璧を目指してるわけじゃないです。ただ、やるべきことをやってるだけです」
「……なるほど」
優真は苦笑する。
(むずかしい!)
マニュアル通りにしているのに、なぜか距離が縮まらない。
……それでも、怜の言葉に、ほんの少しの隙を感じた。
会議が終わり、オフィスに戻る途中。
ふと、怜のスマホが震えた。通知を見て、彼女は微かに眉をひそめる。
「……あ、すみません。相沢から、ちょっと呼び出されてて」
「相沢さんって、デザインの人ですよね?」
「……ええ。大学時代からの友人で」
(なるほど、そういう人がいるのか)
「じゃあ、行ってきてください。僕の方は先に資料まとめておきます」
「……ありがとうございます」
その言葉に、怜は小さく微笑んだ──気がした。
(え? 今……笑った?)
優真は一瞬、完全に固まった。
マニュアルのどのページにも、桐谷怜の笑顔なんて記載はなかった。
(これ……今の、作戦? それとも、本心?)
──わからない。
だからこそ、知りたくなる。
彼女のことを。もっと、深く。
一方その頃、カフェに呼び出された怜は、親友の相沢さやの前でホットティーを啜っていた。
「で、どうなの? 新しい相棒くんとは」
「……普通よ。仕事のパートナー。以上」
「嘘。あんた、表情筋が動いたもん」
「えっ」
「その口角の0.3ミリ上がり。隠しきれてないって」
「……」
「もうね、バレバレ。で? 好きなの?」
怜は黙り込む。けれど、胸の奥がざわめいていた。
(これは……作戦失敗? それとも、成功……?)
どちらとも言えない違和感が、今も胸の内に残っている。
──たった一つの、あの笑顔だけが。
====
翌日。いつもより早く出社した優真は、オフィスのフロアを見渡してため息をついた。
「……まだ来てないか、桐谷さん」
昨夜、彼の頭の中を占めていたのは、怜のあの微笑みだった。
マニュアルには書かれていない、予測不能の表情。作戦か、本心か。どちらにも見えてしまうから、心が混乱する。
その時、背後から声がした。
「朝比奈くん、おはようー!」
「おわっ、山下さん」
山下奈々が、元気に笑いながら近づいてくる。
「ちょっと相談があってさ〜。朝比奈くんって、デートとか、どこ行く派?」
「え、いや……なんで急に?」
「今度気になる人とご飯行くんだけど、誘い方に迷ってて!」
そう言って腕を組まれる。その瞬間──
「あ」
社内の入り口から、怜が入ってくる。
無表情。けれど、その視線は明らかに優真と奈々を見た。
(しまった)
優真は直感的に、やばいと感じた。
そして怜は、すっと目を逸らし、何事もなかったように自席へ向かった。
昼休み。社内カフェスペース。
優真は迷った末に、席に向かって怜に声をかける。
「桐谷さん。あの、ちょっとだけ、いいですか」
「……はい?」
彼女の声はいつも通り冷静。でも、その目は、どこか冷たい。
「さっきのこと……その、山下さんといたの、誤解させたなら謝りたくて」
「別に、気にしてません」
「……いや、でも。もし俺の行動で、気分を害してたなら」
怜は一瞬だけ視線を伏せる。
そして、静かに呟いた。
「朝比奈さんは、ああいうタイプが……好きなんですか?」
「えっ……違います、断じて!」
即答だった。あまりにも慌てた口調に、怜は少し驚く。
「俺が気になってるのは……」
──言いかけて、口をつぐんだ。
(マニュアルP.78:早期の告白は厳禁。まずは気になるを匂わせる程度に)
「……その、ちゃんと相手を知ってから、じゃないと。ですよね?」
怜は少しだけ、目を細めた。
「……慎重派なんですね」
「え? あ、いや、それは……」
(しまった、これ、また試されてる?)
沈黙が落ちる。その間に、マニュアルのページが何枚も脳内でめくられる。
──だが、怜の方は、別のページを思い出していた。
(P.89:相手に質問を返したくなったら、それは好意の証)
(……聞きたい。あなたは、私のことをどう思っているの?)
けれど、それは口にできなかった。
その日の帰り道。オフィスビルのエレベーター前。
「……桐谷さん」
「はい」
「今日、少しだけ……歩きませんか?」
「……はい」
無意識に返事をしていた。自分でも驚くほど自然に。
会社から5分ほど歩いたところにある、夜の公園。ライトアップされた噴水のそばで、ふたりはベンチに並んで座る。
「ここ、静かでいいですね」
「……そうですね」
静かな時間。心音だけが、なぜかうるさい。
優真がポケットから取り出したのは、恋愛マニュアル本。
「……実はこれ、読んでて」
「……え?」
怜の瞳が揺れる。
「恥ずかしいけど、俺、恋愛偏差値……ほんとにゼロで。だから、マニュアルに頼ってる」
正直に告白する彼の姿に、怜の心がざわめく。
そして、彼女もまた──バッグの中から、一冊の本を取り出す。
「……私も。これを読んでます。戦略的恋愛術」
互いに驚いたように、見つめ合う。
「まさか……お互いにマニュアル頼りだったとは……」
「ですね。まさに、作戦会議みたいな恋愛……」
ふたりとも、思わず苦笑する。
でも、不思議と、その笑いは自然だった。
──初めて、マニュアルの外で通じ合えた気がした。
その夜。帰宅した怜は、ふと思う。
(……こんなふうに、笑ったの、いつぶりだろう)
マニュアルには載っていない。
でも、今日感じた気持ちは、嘘じゃない。
一方、優真もまた──
(今の桐谷さんの顔、マニュアルのどのページにもなかった)
だからこそ、もっと知りたいと思った。