恋愛偏差値ゼロのふたりが出した答え
朝のオフィスには、いつも通りの慌ただしい空気が流れていた。
電話が鳴り、資料の印刷音が響き、人々がそれぞれの席でキーボードを叩いている。
だけど、桐谷怜の胸の中には、昨日までとはまるで違う静けさがあった。
──私は、ようやく自分で自分を許せたのかもしれない。
昨日の屋上でのやり取りを、怜は何度も思い返していた。
優真がくれたあの言葉と、ぬくもり。
それはマニュアルには載っていない、たったひとつの「彼だけの答え」だった。
「……おはよう、優真くん」
「あ、怜さん。おはようございます」
少しぎこちないけれど、どこかあたたかい──
まるでお互いに歩調を合わせながら、一歩ずつ進んでいこうとしているような挨拶だった。
昼休み。
2人は一緒にビル近くのカフェに向かった。
「こうやって外に出るの、なんか久しぶりですね」
「ほんと。なんか、息抜きになる」
メニューを眺めながら、優真が少し笑って言う。
「でも俺……今日で、マニュアル読むのやめます」
「え?」
「昨日、屋上で決めたんです。これからは、正解じゃなくて、怜さんと作る選択を信じようって」
その言葉に、怜の胸がじんわりと温かくなる。
「……私もね。あの本、鞄から抜いたの。もう、頼らなくてもいいって思えた」
互いに、心の中にあった「マニュアル」という仮面を外した。
そのことが、こんなにも自然で、心地よいものだったなんて──想像すらしていなかった。
午後、プロジェクトの最終提案が社内で行われた。
怜と優真、そして理人が関わった企画が、社長や幹部にプレゼンされる。
怜は、理人の隣に座りながら、不思議と落ち着いていた。
もう、過去に引きずられてはいなかった。
「……いい提案だったよ。ありがとう、桐谷さん」
理人が最後にぽつりとそう言った。
それは、かつてのような上から目線ではなく、同じステージに立つ人間としての感謝だった。
「うん、こちらこそ」
怜は静かに微笑んで返す。
その表情に、理人は一瞬だけ言葉を失ったようだった。
会議室を出ると、優真が待っていた。
「お疲れさま、怜さん」
「うん、ありがとう……優真くん、あのね」
怜は一歩、彼に近づいた。
「私ね、ようやくわかったの。恋をするって、正解を当てることじゃない。相手と一緒に悩んで、迷って、答えをつくっていくことなんだって」
優真は、その言葉を噛みしめるように頷いた。
「……怜さんとなら、どんな迷いでも悪くないって、思えます」
2人の距離が、ほんの数センチ縮まった。
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その夜、ふたりは帰り道の途中にある公園に立ち寄った。
木々の間から街灯がこぼれ、風がほんのりと甘い初夏の香りを運んでくる。
ベンチに並んで座った怜と優真の間には、もう気まずさも、遠慮もなかった。
「……ここ、前に一緒に通ったとき、覚えてる?」
怜がぽつりとつぶやく。
「ああ、あのとき俺、緊張してて全然話せなかった……」
苦笑まじりに答えた優真に、怜も思わず笑ってしまう。
「でも、不器用なとこも、今は好きだなって思える」
「えっ」
優真の目が大きく見開かれた。
怜はその顔に、ほんの少しだけ頬を赤らめながら続ける。
「好きっていうのが、正しく振る舞えるってことじゃないんだよね。マニュアル通りに言葉選んで、駆け引きして、それで得られた関係って……本当の意味での恋じゃなかった」
風がふわりとふたりの間を撫でていく。
「……俺も、たぶんずっと間違えないようにって思ってた。怜さんに嫌われないようにって。でも、間違ってもいい、情けなくてもいいって……怜さんが思わせてくれた」
沈黙。
けれど、その沈黙は気まずさではなく、あたたかい共有の時間だった。
やがて、優真が立ち上がる。そして、真っ直ぐに怜の目を見る。
「怜さん」
「うん?」
「俺と付き合ってください」
その言葉は、驚くほどまっすぐで、どこまでも不器用だった。
でも、それがいいと思えた。
怜は立ち上がって、ほんの少し涙ぐみながら、笑った。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
その瞬間、夜風がふたりの髪を揺らし、まるで祝福するかのように木々がさざめいた。
翌日。
ふたりが付き合い始めたことは、早々に周囲に気づかれていた。
「えっ、まじ? 桐谷さんと朝比奈って、あの不器用同士が!?」
吉村が口をあんぐりと開けて叫び、奈々は「きゃー!おめでとうございます!」と拍手する。
本間課長は、ニヤニヤしながら書類を持ってきた。
「ようやくか。ずいぶん回り道したな、君たち」
ふたりは、照れくさそうに顔を見合わせる。
でも、もう迷わない。
恋愛偏差値ゼロのふたりは、確かに恋人になったのだ。
そして夜。
怜の部屋の本棚から、あの『恋愛戦略マニュアル』が姿を消した。
優真の部屋でも、『恋愛心理戦大全』が引き出しの奥にしまわれていた。
──もう、あの本たちに頼らなくてもいい。
不器用なふたりが見つけた答えは、他人が書いた正解ではない。
自分たちだけの、唯一の本音と感情のレールだった。
彼らの物語に、完璧な正解はない。
けれど、それは誰よりも誠実で、誰よりもあたたかい、ハッピーエンドだった。
──恋愛偏差値ゼロのふたりが、マニュアルを超えて恋をしたなら。
きっとそれは、不完全だからこそ、愛おしいという答えにたどりつく。




