迷いと覚悟の分岐点
それは、ごく自然に組まれたプロジェクト編成だった。
──少なくとも、表面上は。
「じゃあ、今回のプロモ案件はこのメンバーで進めていこう。桐谷と朝比奈は企画・営業の主軸、中原は全体統括としてサポートな」
会議室に響く本間課長の声。
怜と優真は顔を見合わせ、次に理人の方へ視線を送る。
理人は、何食わぬ顔で資料をめくっていた。
このチーム編成に、どれほどの意図が含まれているのか──怜には知る由もない。
ただひとつ確かなのは、かつての恋人と現在心を寄せ合う人間、両方と同じプロジェクトで働くことの重さだった。
「よろしくお願いします、桐谷さん」
理人の口調は柔らかく、他の社員には何の違和感もないように聞こえるだろう。
けれど、その声に含まれる温度を、怜だけは知っている。
かつて彼が、甘く囁いたことのある声のトーンだった。
「……こちらこそ」
怜は声色を崩さず、礼儀正しく応じた。
優真の視線が、自分と理人を交互に見ていることにも気づいていた。
会議が終わり、社内は午後の仕事へと戻っていく。
優真はモニターに目を向けたまま、しかしタイピングは一向に進まない。
心ここにあらず──そんな状態だった。
(あの中原さんって、なんか……怜さんと距離が近い?)
直接的な言葉はなかった。
でも、一言ごとの言い回しや、目線の動き、ちょっとした空気が、胸にひっかかる。
(俺、気にしすぎか? でも……)
手元の資料に書かれている恋愛心理戦大全の一節が目に入る。
──不安を感じたときほど、感情を出してはいけない。動揺は関係を壊すサインとなる。
(……そうだよな)
優真は自分に言い聞かせるように深呼吸した。
一方、怜もまた、自席で画面を眺めていた。
理人の態度は、まるで、何もなかったかのように自然だった。
けれど、だからこそ苦しかった。
あのとき自分を置き去りにした人間が、今こうして笑顔で接してくることが、心をざらつかせる。
(なんで、今になってこんなふうに現れるの……?)
「なあ、桐谷」
背後から声をかけられて、思わず身構える。
振り返ると、理人がコーヒー片手に立っていた。
誰もいない給湯スペースを見計らって、さりげなく近づいてきたのだろう。
「昔のこと、もう気にしてないよな?」
まるで友達のような軽さで言われて、怜は答えに詰まる。
「それとも、まだ正解じゃなかったこと、引きずってる?」
その一言に、心臓が跳ねた。
──あの頃、自分が理人に言われて最も傷ついた言葉だった。
「……それ、今ここで言う必要ある?」
「別に。お前が今、ちゃんと自分で答え出してるなら、余計なお世話だと思うし」
理人はふっと笑う。
「けどさ、見てるとまた誰かの答えなぞってるように見えんだよな。あの頃と同じで」
その言葉に、怜は何も返せなかった。
そのやり取りの数分後。
怜が席に戻ると、優真がそっと声をかけてくる。
「……怜さん、大丈夫ですか?」
「え?」
「さっき、なんか……顔、暗かったから」
その気遣いに、怜の胸がちくりと痛んだ。
こんなふうに自分を気にしてくれる人がそばにいるのに、自分はまだ過去に縛られている。
「……ううん、平気。ちょっと考えごとしてただけ」
そう微笑んでごまかした自分が、少しだけ嫌だった。
夕暮れの社内に、ひとつの空気が漂っていた。
表には出ない違和感、言葉にできないざわめき。
──その中心にいたのは、過去と、そして今の自分たちだった。
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夜のオフィスは静まり返り、窓の外には都市のネオンがにじんでいた。
そんななか、優真はコピー室の前で中原理人とばったり顔を合わせた。
「ああ、朝比奈くん。まだ残ってたんだ?」
理人はにこやかに話しかけてくる。その軽やかさが、逆に優真の胸をざわつかせる。
「ええ、ちょっと資料の直しがあって」
「まじめだね。怜はそういう人、好きだよ」
一瞬、心臓が跳ねた。
「……桐谷さんのこと、よく知ってるんですね」
優真の声が、わずかに硬くなる。理人は肩をすくめた。
「昔、付き合ってたからね。今はもう何でもないけど」
さらりと言われた言葉が、刃のように胸に刺さる。
──やっぱり、そうだったのか。
「……今でも、気にしてるんですか?」
「別に。でも、惜しいことしたなとは思うよ。あいつ、あの頃よりずっと柔らかくなったし……朝比奈くんが、変えたのかもな」
「……そうですかね」
「でもさ」
理人の声が、少しだけ低くなる。
「本当の怜をちゃんと見てるか? お前」
その一言に、息が詰まった。
「表情、仕草、沈黙の意味。あいつは、感情を出すのがすごく下手だ。だから……わかってやらないと、すれ違うよ」
そのまま、理人は背を向けた。
「頑張れよ。俺じゃダメだった怜を、君なら守れるかもな」
静かな足音が、闇に吸い込まれていった。
一方その頃。
怜は屋上のベンチでひとり、缶コーヒーを握りしめていた。
冷たくなった缶は、いつの間にか手の温度を奪っていた。
(私……何やってるんだろ)
理人に言われた言葉が、頭の中でリフレインする。
誰かの答えをなぞってるように見える。
ずっとそうだった。
恋愛マニュアルの言葉にすがって、正解だけを求めていた。
本当の自分の気持ちを見つめるのが、怖かったから。
(でも……)
そこに、ドアの開く音がした。
振り向くと、優真が息を切らして立っていた。
「……怜さん、やっぱりここにいた」
「優真くん……?」
「俺、知りたいです。怜さんのこと、もっと。過去も、今も、全部」
怜は一瞬、息を飲んだ。
優真は、目をそらさなかった。
「でも、それで気持ちが変わるとか、そういうのじゃないんです……むしろ、自分が何も知らなかったことが悔しかった」
「悔しい……?」
「はい。俺も、マニュアルばかり見て、怜さんのことわかった気になってた。でも違う。俺、全然わかってなかった」
怜の目に、じんわりと涙がにじむ。
「私も、ずっと正解ばっかり探してた……好きって、こうするものだって、決めつけて……でも、違った。優真くんといるとき、私、ちゃんと泣ける。笑える……こんな私でいいのかなって、思える」
ふたりの視線が重なる。
「いいんです。俺が、怜さんを知りたいと思ってるのは、マニュアルじゃなくて、俺の気持ちだから」
「……ありがとう」
怜がそう言った瞬間、優真の手がそっと彼女の手に触れた。
ぬくもりが、確かにそこにあった。
理人は、ひとり窓際で街の灯を見下ろしていた。
「……変わったな、怜」
その瞳は、少しだけ寂しそうだった。




