はじまりは、マニュアルから。
月曜の朝、都心のオフィス街にある大手広告代理店。その中でも企画部は、常に時間との戦いだった。
桐谷怜は、いつも通りの無表情でデスクに座り、キーボードを正確に叩いていた。周囲の雑談にも興味を示さず、まるで感情を切り離した機械のように作業を進めていく。
(よし、午前中にこのラフ案を仕上げて──)
手元の付箋にあるタスク一覧に目を走らせた怜は、小さく頷いた。冷静沈着、仕事は正確無比。社内でも一目置かれる存在だ。
──ただし、恋愛だけは例外だった。
「……でさ、そのとき言われたんだよね。怜って、感情見えなくてつまんないって」
怜は小声でそう呟き、バッグの中に忍ばせてある小さな本をそっと見つめた。
表紙にはこう書かれている。
『恋愛戦略マニュアル ~大人の恋は、理論で落とせ~』
恋愛は感情の戦いだと思っていた。だが違った。怜は痛感したのだ。感情を使わず、論理と戦略で進めた方が安全なのだと。
「今回は絶対にしくじらない。マニュアル通りにやる。それだけ」
そう小さく誓いを立てたそのとき、ドアが開いた。
「おはようございまーす!今日からこちらにお世話になります、朝比奈です!」
明るい声に、社内の空気が一瞬変わった。桐谷怜の視線が、ふとそちらへ向かう。
──長身、爽やか。笑顔が似合いすぎる新入り。
「わ、イケメンきた」
「え、なんか芸能人っぽくない?」と囁く女性陣の声が聞こえる。
怜は、興味なさそうに視線を戻した。
(関係ない。私は、恋愛偏差値0からの逆転を狙ってるの。こういうモテそうな人は、最も避けるべき対象──)
しかし、運命は皮肉だった。次の瞬間、上司の本間が口を開く。
「朝比奈くん、今日から桐谷とペアで動いてもらう。今週から新案件だ、よろしく頼むよ」
……は?
驚いたのは怜だけではなかった。隣に立っていた朝比奈優真も、少し目を見開いた。
「えっ、桐谷さん? あ、よろしくお願いします!」
怜はすぐに表情を整えた。冷静な仮面を貼り付けるのに慣れている。
「こちらこそ、よろしくお願いします……では、資料を確認しましょうか」
(ああ、なんで。よりによって、イケメンとペア……)
不安と警戒を押し殺しながら、怜は資料を手渡した。
一方そのころ──
朝比奈優真は心の中で叫んでいた。
(うわ、マジか、よりによって、超冷たそうな美人とペア!?)
冷静なふりをしていたが、内心は爆発寸前。
そして──彼のカバンの中にも、ある本が入っていた。
『恋愛心理戦大全 ~好きにさせる52のテクニック~』
学生時代、恋愛はずっと受け身だった。軽く見られ、誤解され、いつの間にか失恋していた。だから今度こそ、自分から仕掛けてみようと決意したのだ。
(俺だって……本気で恋したい! そのためには、このマニュアルの通りに、第一印象から完璧に!)
だが、想定外だった。
(……この人、全然笑わない。いや、逆にこれはチャンスか?「ギャップ萌え」ってやつ?)
作戦開始。
マニュアルP.7──「第一印象で心を掴め。ポイントは清潔感と余裕」
「えっと……桐谷さん、コーヒーとか飲まれます? ミルクとか砂糖は……」
「ブラックです」
「お、おお……じゃあ僕もブラックで」
(本当はミルク2個ないと飲めないけど!!)
静かに、奇妙な駆け引きが始まった。
その日の午後。社内会議室での企画打ち合わせ。怜は資料を広げつつ、心の中でマニュアルを再確認する。
『ステップ1:恋愛対象に見せるには、知性と共感。まずは仕事で信頼を取れ。』
(ここは、理論で押す。情は不要)
「この案ですが、ターゲット層の反応を三段階で予測しています。資料5ページをご覧ください」
怜の的確な説明に、優真は内心うなった。
(すげぇ……マニュアルでは、相手を褒めて優位に立たせろって書いてたな)
「桐谷さん、ほんとにわかりやすいっすね。こういうの、どうやって考えてるんですか?」
怜は一瞬、驚いたような表情をしたが、すぐに視線をそらす。
「……特別なことはしてません。ただ、数値に基づいて考えてるだけです」
(マニュアルP.14──褒められても浮かれない。冷静な姿勢で、相手に「もっと知りたい」と思わせよ)
──2人は、互いに知らなかった。
それぞれが別の恋愛攻略本を元に動いていることを。
そして今、その教科書通りの初動戦が、見事に始まってしまったことを──
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その日の午後、社内会議室を出た怜は、資料をファイルに挟みながら優真に声をかけた。
「……午後のミーティング、少し準備しておきたいので、30分後に資料確認してもらえますか」
「了解です。僕の方も競合の情報、まとめておきますね」
まるでビジネス書の見本のようなやり取り。しかし、その裏では──。
(マニュアルP.21:「信頼を重ねる報連相は恋愛でも最重要。連携プレイを意識せよ」)
(……ここで気を抜くと、距離が縮まらない。気を張って、冷静に)
怜もまた、自分の教科書通りに対応していた。
──だが。
その30分後。会議室に戻った優真は、あるミスに気づく。
「……え、あれ……データ、間違ってる……?」
手にしていた競合企業の事例資料。その中に、まったく別業界の情報が混ざっていた。焦りを隠せず、顔が引きつる。
その瞬間、背後から声がした。
「……朝比奈さん、その資料、見せてもらってもいいですか?」
「え、あ、はい……すみません、ちょっと混ざっちゃったみたいで……」
怜は無言で資料に目を通し、1ページずつ確認しながら、静かに言った。
「……このパートは、おそらく前回の商談資料と混在していますね。でも、補足を足せば修正できます。5分ください」
そして、タイピングを始めた。手早く、正確に無駄がない。
「──これでOKです。これを印刷しておいてください」
優真は、その冷静な対応に驚いた。
(……すごい。普通、こういうとこで責めたり、呆れたりするのに)
そしてふと、マニュアルの一節が脳裏に浮かぶ。
(感情の共有こそが、信頼の近道。ときに素直な謝罪と感謝を忘れるな)
深呼吸し、素直に言った。
「……桐谷さん、ありがとう。正直、焦ってて。助かりました」
怜は、ぴたりと手を止めた。
「……別に。仕事なので」
そう言いながらも、視線は少しだけ逸れていた。
──動揺したのだ。
(なんで……今、心臓がこんなに……マニュアルには感謝されると好感度が上がるとあるけど、そういうこと……?)
理屈では割り切れない何かが、心の奥で揺れ始めていた。
その夜。怜は自宅のソファで、例のマニュアルを開いていた。
『好感度が上がったときこそ注意。感情で動けば負け。行動はあくまで計画的に。』
「……感情じゃない。戦略、戦略で動くの」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
だが、その目はどこか揺らいでいた。
一方そのころ、優真も自室で資料を広げていた──が、もはや手につかず、開いたままのページをぼんやりと眺めていた。
『沈黙の相手こそ最大の難関。その心を解く鍵は、一貫した誠実さである』
「……いや、無理だって。マジで感情読めなさすぎなんだけど、あの人」
そう言いつつも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「でも……悪くないかもな。ああいうタイプ、逆に、燃えるっていうか……」
恋愛マニュアルには、どんなケースも成功例として書かれている。
だけど現実は、想像以上に不器用で、ややこしくて、でも──どこか甘い。
翌朝。
「おはようございます」
「……おはようございます」
ふたりは、また同じように出勤し、同じ会議室に入る。
他人から見れば、ただの仕事仲間。けれどその実、互いに恋愛指南書を片手に、攻略を試みる恋の初心者たち。
──攻略マニュアル通りに進めば、うまくいくはず。
そう信じている限り、すれ違いはまだ始まったばかり。




