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化粧室で準備を整える。
ついでにお化粧も直しておこう。
…よしっ。
フロアに戻ると音楽は止み、ダンスは休憩に入っていた。
作戦開始だ。
私が向かうまでもなく、レイモンド様がご両親を伴って私の所にやってきた。
ここに来てからずっと壁の花となり、おいしい料理を味わわせてもらっていただけの私。社交もできない哀れな引きこもり令嬢にレイモンド様は満足げだった。私の価値は着々と下がっている。価値のない令嬢を引き取ってやっているという上から目線の立場が重要なのだ、より安価に宝石の姫を手に入れ、文句を言わせず奉仕させるためには。
さっき化粧室で鼻の中の薬を拭い取り、洗浄薬を使った。鼻の穴の入り口には今回のための特別処方の薬を塗っている。お医者様の薬はいつだってよく効く。きっと大丈夫。
うまくいきますように。
「ご無沙汰しております」
ドキドキしている私に先行パンチを食らわせてきたのは子爵だった。
「何だね、君はずっとこんな隅っこにいたのか」
私の挨拶など無視して、文句は続いた。
「王城の夜会と言えば、社交のチャンスだろう。いつまでも甘えず少しは」
「まあ父上、彼女はこういう場に慣れていないんです。追々覚えていってもらえばいいでしょう」
つかさずフォローを入れるレイモンド様。何も知らなければかばってくださった、お優しい、と思ったかもしれない。でも冷静に見れば、レイモンド様に好印象を持たせるべく二人が飴と鞭を仕組んでいることは見え見えだった。そもそも引きこもりは承知の上での婚約。文句を言われる筋合いはないのに。
化粧室で自分の髪かざりにあの草の穂を足しておいた。それをどうやって鼻に引き寄せようかと思案していたら、レジーナさんが近づいてきた。このタイミングでレジーナさんが来るとは思わなかったようで、レイモンド様はちょっと焦っていたものの、すぐに平静を装った。
「これがレイの婚約者?」
お飾りの妻になる予定の私を見て、楽しそうに声をかけてきた。どうやら事情は把握済みらしい。
こっちは慌てず、第一印象での疑問点をつく。
「お召し物がぴったりおそろいですね。こちらは、どなた様でしょう」
レジーナさんとレイモンド様、改めて見ると見事なまでのおそろいの服。絶対同じ布を使ってる。並んだ姿だけで二人の関係は明確で、これじゃどっちが婚約者候補なのかわからない。私だけでなく周りも興味津々で、修羅場の予感に聞き耳を立てている人も。
アッカー子爵は眉間にしわを寄せてレイモンド様を睨みつけた。
「い、いや、偶然だよ、偶然。こちらは友人のレジーナ嬢だ。同じ学校に通っていてね」
「ええ、ただのクラスメートですのよ。いつも仲良くしていただいてるの」
レジーナさんのうすっぺらい笑顔の下にある企みに気が付いた私は、この機会に彼女に大役を任せることにした。
彼女の胸を飾っている生花のコサージュにはあの草の穂がつけられている。私があれに弱いことまで知っている訳ね。それならば、よろしく。恥をかかせていただきましょう。
「あら、ごみがついてましてよ」
レジーナさんは必要以上に近づいてきて、私の肩にあるらしい目に見えないごみに触れながら、あえて自分のつけているコサージュを私の顔の近くに寄せて揺り動かした。大きな胸がゆさゆさと揺れて、コサージュも揺れる。あの草の穂も…
薬を拭い取り無防備になっている鼻は、一嗅ぎしただけですぐに反応した。
「ふ、ふふふ、ふ、ふぇっくしょん! ぶぁっくしょん! ぶっしゅん!」
淑女とは言いがたい豪快なくしゃみが出て、以後くしゃみを連発。私の鼻の反応が早すぎて、避けきれなかったレジーナさんの顔に大量の鼻水の飛沫が降りかかった。
「いやあああっ!!」
レジーナさんの悲鳴で、修羅場に関心のなかった人達まで振り返った。
慌て、そして戸惑うレイモンド様。
顔を引きつらせたアッカー子爵。
遠くから騒ぎを聞きつけて、驚いて駆け寄る私の両親。
遠くで口を開いたまま驚いている兄。
万事オッケーと、モブにまぎれてそっと親指を立てて見せたお医者様。
鼻水姫の鼻水は、これだけの目撃者を前にして固まることはなかった。
「し、失礼しました。大丈夫です?」
私はハンカチを差し出し、レジーナさんの顔を拭いた。水っぽい鼻水は簡単に拭き取れたけれど、紫色の服に痕跡がキラキラ光っていて、人前で顔面に鼻水を受けた屈辱と羞恥で、レジーナさんは悲鳴を上げながら逃げるように会場を出て行った。
「レジーナ!」
彼女を心配して追いかけようとして、ここでもレイモンド様はレジーナさんを呼び捨てにした。普段呼び慣れたままに…。
この状況、いただきます。
「ああ、名前で呼び合う仲だったんですね。それで衣装もおそろいで…。そんな方がいるとも知らず私が夜会に参加するなんて言ってしまったせいで、お二人はご一緒できなかったんでしょうか。…申し訳ありません」
「あ、いや、違う、…え、」
レイモンド様はかなり慌てていたけれど、最重要事項を思い出し、想定通り確認してくれた。
「き、君、鼻、…鼻水は…、なんで…」
私は首を傾げて、「何のことでしょう?」を装った。
「このところ鼻水がひどくて。お薬が効いてずいぶん良くなっているんですけど、まだ治りきってないみたいで…。お見苦しいところをお見せしました。レジーナ様にもお詫びをお伝えいただけますか?」
自分の鼻にハンカチを当てながら、染み出てくる液体のままの鼻水をあえて見えるようにちらつかせた。
「そ、そうじゃなくて…」
「具合の悪かった鼻水も、治療の甲斐あってようやく人並みになりました」
「ひ…、人並み、治療って…、ま、まさか」
レイモンド様は私が鼻水を治療したことがお気に召さなかったようで、怒りに顔を歪めた。
「思い切って治療を受けてよかった」
「何がよかっただ!」
「どういうことだ!」
レイモンド様が私に向かって怒りの声を上げるのとほぼ同時に、アッカー子爵がレイモンド様に向かって怒鳴った。
「普通の鼻水ではないか!」
ここで繰り広げられてる会話の意味がわかっているのは、ほんの数人。
そうですとも。至って普通の鼻水。
これこそ私が望んでいたもの。鼻水が宝石になってほしいなんて思ったことないんだから。
私は更に首を傾げて、「何を言ってるのかわからなーい」アピールをしていた。そこへもう一発、むずむずがきて、
「ふ、、ふっ、ぶえっくしょん!」
あー、ハンカチを鼻に当てるのが間に合わなかったわー。レイモンド様にぶっかけちゃったー。[棒読み]
顔にも服にも鼻飛沫。普通の鼻水だとご確認いただけたかしら?
すっかり皆さんの視線を集めている今がチャンス。とどめを刺しておくか。
「ごめんなさい。引きこもりなだけでなくこんなはしたない私と結婚なんて、無理をすることはありませんわ。レジーナ様を大切にして差し上げてください。お二人は本当にお似合いですもの…。第二夫人では可哀想ですわ」
第二夫人、という言葉にレイモンド様は顔をひきつらせた。
ええ、ちゃんと聞いてましたとも。あなたと兄のたくらみは。
「第二夫人とは、どういうことかな?」
父が背中に怒りのオーラをゆらめかせながら、レイモンド様に詰め寄った。
とりあえずは後のことは父に任せた。
くしゃみで潤んだ目で悲しげに俯くと、私は鼻を抑えながら小走りで会場を後にした。
自分にこんな演技ができるなんて、思わずスキップしそう。
明日の新聞を賑わせるかもしれない。
鼻水令嬢、夜会で婚約解消!?
これでまた婚期が遅くなるかな。でもこれこそ「鼻水姫」よね。
あー、恥ずかしくてもう社交界には顔を見せられないわー。[棒読み]
さあ、明日からも引きこもるわよ!