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その日のうちに父にアッカー家に私の鼻水のことが知られていること、鼻水が出るように細工されたこと、兄が賭博で借金を作り、鼻水ダイヤを持ち出してレイモンド様に渡していたことを伝えた。父はどれも知らなかったようで、兄の件は賭博を含めて調べ、レイモンド様との婚約は考え直すと言ってくれた。けれど、婚約解消の手続きは夜会が終わるまで待ってもらうことにした。
その後新しくもらった鼻水の薬はよく効いて、この一週間、垂れるほどの鼻水は出なかった。一粒のダイヤも出ていない。金庫に入れられていた鼻水ダイヤは少なくなっているのに、兄は毎日一、二個持ち出している。一個くらいならわからないと思っているんだろう。癖になった盗癖は直らないようだ。
夜会に参加するのに、レイモンド様からはエスコート以外何にもなかった。夜会に行くとなるとパートナーには大金持ちならドレス一式、大して金持ちでなくてもアクセサリの一つは送られてくるものらしい、とか聞いたことがあるけどデマだったのかな。
淡いオレンジ色のドレスの私に、濃い紫のジャケットを着たレイモンド様。…合わない。事前に打ち合わせもなかったのだからそんなものだろう。
アッカー家の用意した馬車に乗り、驚いた。
車内に例の花束が置いてある。しかもいつも以上に鼻水の元になる草の穂が多めだ。私に鼻水を出してほしいらしい。宝石狙いか、それとも夜会からの早期撤退狙いか。多分両方だ。だけど今日の私はお医者様からもらった薬を鼻の中に厚く塗って鼻水対策をしている。今帰るわけにはいかないんだから。
花束を手渡され、私は笑顔で受け取りながらもできるだけ花粉が飛ばないようにそーっと、椅子の後ろの方に置いた。
「気に入らないのかい?」
「いつもこの花ですね。お好きなんですか?」
「…」
顔を見ただけでわかった。花をもらえるだけありがたいと思え。そう思ってる顔だ。
馬車の中では世間話も続かなかった。
会場までエスコートを受けたものの、中に入ると
「私は挨拶があるので」
と早々に別行動。なるほど、婚約者の挨拶はいらないらしい。
さらに驚きの光景が。
挨拶に精を出していたレイモンド様のそばに全く同じ紫のドレスを着た令嬢が現れた。とたんに今まで見たことのないデレデレした笑みを見せ、令嬢を褒め称えている。令嬢は時々レイモンド様の腕に触れ、きゅっと腕をからませたりしてる。
そりゃ説明なしでもわかるでしょう。ただの知り合いではない。あれがレジーナさんとやらに違いない。本当なら今日は二人で参加するつもりだったのかもしれない。私が行くと言わなければ…。
料理を取りに行く振りをして近くを通りかかると、やはり「レジーナ」と呼ばれていた。おお、公の場でも呼び捨てですか。
レジーナさんの後ろをうろついている、あれが彼女の今日のパートナーのようなんだけど、お相手のことはほとんど無視している。レイモンド様がいなくなると、今度は近くにいた男性に近寄って自分から挨拶した。馴れ馴れしく触れる手、あれが社交術だろうか。私には無理だ。男性のパートナーが戻ってきても気にせず話を続け、相手が困ってる。レジーナさんのパートナーは焦り、周囲のご婦人方は眉をひそめている。あの状況でも平気とは、ずいぶん豪胆。
あのレジーナさんのパートナー、全然仲良さそうじゃないけど、あの人も兄と同類で賭博の借金のかたにレジーナさんのエスコートを強制されてたりとかしたりして…。もしそうなら学生をカモにして手広く賭博をやっているのかもしれない。
「その合鴨のロースト、いけてますよね」
知り合いなんていないはずの夜会の席で声をかけられ、ふと見上げると、見知らぬ…から五秒。
お医者様の変わり果てた姿に危うく持っていたフォークを落とす所だった。変わり果てたと言っても下落、ではなく、上向きに。
髪をオールバックにして黒の正装、紋のついた上着の留め金から王立機関の職員のようだと推測できるけれど、それ以上のことはわからない。ただの町医者じゃなかったのか。
しかし作戦参謀が直々に現場に来てくれようとは。
一人で頑張らなければいけないと思っていた私の心に不思議な安堵感が広がった。敬礼のひとつもしたいところながら場違いな行動は避け、ご令嬢っぽくにっこりと笑顔で礼をした。
「ええ、大変美味です。今日は穏やかなおはな日和ですね」
ちゃんと鼻が止まっていることをほのめかすと、
「それは何より」
と笑顔で頷いた。
二人そろって腹ごしらえしながら今日の段取りを再確認し、ダンスが一段落ついた頃がいいだろう、とアドバイスを受けた。
「後悔はしませんか? この方法では『宝石の姫』の呪いからは救われても、あなたのプライドを傷つけることになる」
心配してくれているのはわかるけど、普段を知っているだけに気取った物言いがちょっとおかしかった。
「どうせこれまでも引きこもりでしたから。はなのために引きこもるのは得意ですのよ」
お医者様は通りすがりの給仕を呼び止めると、ジュースを取って私に手渡し、自分は酒を取った。
「勇ましき我が鼻水姫に、乾杯」
軽く当たったグラスの甲高い音に、私は新たな鼻水姫としての人生を歩む覚悟を決めた。