上級無罪
ある夜。凄まじい衝撃音と破片が四方へ飛び散った。
車の衝突事故。信号を無視した一方がもう一方の車の横腹に頭から突っ込んだのである。
ぶつけた方の車の運転手は、ため息をつきながら携帯電話を取り出した。
事故直後。それも自分が起こしたというのに然程動揺はしていない。と、その頭に思い浮かぶはいつかの日の晩のこと。
「……で、何の用かな。税金のことで来たと言うが、私はキッチリと払っているんだがねぇ。なんなら払いすぎてるのではと思うくらいだよ」
応接間。男はよっこいしょと声を漏らし、ソファーに座り鼻から息を吐いた。
その夜、男の自宅のインターホンを鳴らした、ある男。彼もまたテーブルを挟み、向かい合う形でソファーに座る。スーツ姿。浮かべた笑みはどこか蛇を想起させる。しかし、それは恐らくインターホン越しに一言二言交わした会話、『税金について』のせいだろう。税金。嫌な響きだ。そう思った男はため息をついた。
「払いすぎている。ええ、ええ、ごもっともでございます。と、まずはこちらをどうぞ」
「はぁ、何か問題あるとすれば税理士のミス。そっちに……ん? なんだこれは。勲章?」
テーブルに男がずいと顔を寄せる。透明なケース。紺色の布張りの台紙に収められたそれが、ちゃちな造りでないことは一目でわかる。
「昨年度、多額の税を納めた方々に贈らせていただいております特別な褒章でございます」
「ふぅん……そう言えば親父も貰っていた気がするな。いや、あれは確か国に関係するところに多額の寄付をしたとかなんとか他にも色々と」
「おそらくそれは紺綬褒章でございましょう。何の効果もない、ね」
「ほう、ではこれは違うというのか?」
「いえ、残念ながら……」
「なんだよ。ま、そうだろうけどな」
男はそう言うとソファーに背をつけ、大きな欠伸をした。帰れのサインである。
「しかし、そこでなのです」
と、今度は彼はずいと体を前に寄せ、わざとらしく声を潜めて言った。
「さらに寄付という形でいくらかお納めいただきますと、あなた様が何らかの事故、罪を犯した際、それをなかったことにします」
「……ほう。つまり、たとえば、うっかり人を車で撥ねてしまった場合、無罪になるというわけか?」
「いえ、事件そのものに関わっていなかったことにします」
「うん? 揉み消すということか」
「いえ、身代わりを立てるのでございます。当然、税を納めなかった者からね」
それを聞いた男は部屋の窓がビリビリと震えそうなくらい大笑いした。彼は笑みを浮かべ、その笑いが収まるのを静かに待つ。
「ふぅ……考えてみれば当然だな。まったくこちらが多額すぎるくらいの税金を納めている一方で、納めるどころかその税金から金を貰って働きもせずのうのうと暮らしている連中がいる。世の中どうかしているよ」
「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を、というやつですね」
「そう! 憲法! 変えるべきだねぇ! 少なくとも我々高額納税者に特典は付けるべきだよ! 選挙の票をそうだな、千票分くれるとか、パトカーをタクシー代わりに使えるとかさぁ」
「ごもっともでございます。そして、まさにこれがその取り組みなのです。例えば、先程仰った人身事故。故意でないと立証され無罪を勝ち得たとしても経歴に傷がつくことは避けがたい。そうなれば」
「今後の付き合い。商売に、つまり納税にも悪影響が、というわけかね」
「左様でございます。しかし、なによりもあなた様、高額納税者様に、そのようなご負担を強いたくないという一心でございます。
先程、寄付金と申しましたが保険と言い換えてもいいかもしれません」
「身代わり保険というわけか。なるほど。悪くないな。それで事故を起こした時はそちらさんに連絡すればいいというわけか」
「いえ、そのまま警察をお呼びくださって構いません。国家に仕える者同士、連携が取れておりお名前を申し上げてくださればご契約者様であることはすぐに伝わりますので」
「データベースに登録してるってことか。なるほどな。よし、気に入った! 契約しようじゃないか!」
「ありがとうございます」
……やはり、親から事業を引き継いだだけのボンボンは狙い目だな。
彼の顔はその笑みで、ますます蛇染みたが、大笑いする男は気づきもしなかった。
……なのだが
「なるほど信号はこちら側が青だったと」
「当然だね」
「……はい、では今夜のところはお帰りいただいて結構でございます」
「うん。パトカーで家まで送ってくれるかい? 車があの様なんでねぇ」
「さすがにそれは……では代わりにタクシーをお呼びしましょう」
「ふん、ま、それでいいよ」
死人に口なし。被害者は衝突の際死亡し、また現場に防犯カメラの類はなかったとされる。
結果。男が罪に問われることはなかった。
あれは詐欺。ゆえに裸の王様。そのはずだが、確かにこの世の中には何らかの力が働いているようであった。