ライラック・シャワーシーズン
「どうであった? 娘よ」
女神の言葉に、ミルカは首を振り涙を流した。
「人はもう、こりごりです。やはりわたしは、湖の底でおばあちゃんとともに眠りたい」
すると女神はどこか淋しそうに笑みを浮かべた。
「それがそうもいかないのだよ。そなたはこうして生きている。それにはとても意味があるのだ。それにツヴァイはそなたの幸せを願っていた。長いか短いかではない。何を手にして、満足するか。それが重要なことであるのでな。生きてみる経験を奪うわけにはいかないのだよ」
ミルカはさめざめと涙を流し、そして諦めにも似た決意で顔を上げる。
「それでは、女神様。わたしはひとつだけ、欲しいものがあります」
女神はうなずいた。
「申してみよ」
「わたしは……」
ミルカはその晩、願い事をひとつして屋敷の屋根裏部屋へと戻った。
夜明け近くに眠りにつき、短い睡眠のあと目を覚ました彼女は、いつものように屋敷の掃除をして、調理場の手伝いや洗濯をしながら1日を過ごした。
そしてその数日後、デニシャール家に大公から使者があった。
使者の届けた手紙を見たデニシャール家当主はミルカを呼んだ。
手紙には次の森守りの魔女が現れるまで、ミルカに家の管理を任せるものとする、とあった。
先代の魔女から依頼があった、と。
ミルカは次の日、森の魔女の家へと引っ越した。
彼女が望んだのは、成人するまでの間、住まう場所。
屋敷で蔑まされながら、ときに暴力を受けながら生きるのではなく。
生きるための才能を得るわけでもなく。
魔女として生きるわけでもなく。
静かに息を潜めて、地味に目立たず生きるわけでもなく。
ただ成人するまで過ごす場所、それだけがあれば良かった。
成人するまでは森で静かに暮らして、次の魔女が来たら場所を譲って、どこかの町で暮らす。
若くして死ぬなら、それはそれでいい。
ただ、森に犯罪者がやって来ないよう、デニシャール家には責任を持って管理してもらえるようにした。
大公からの指示で配置された管理人が犯罪に巻き込まれるような事があれば、デニシャール家といえどただではすまない。
復讐する気はないが、許す気にはなれなかった。
そうして10年たった頃。
森に男がやってきた。
どこか人好きのする、だが精悍な顔立ちの男だった。
季節は秋の入り口。
スズの木の実がしゃらしゃらと鳴り、木漏れ日が光とともに影を降らせるような、そんな日。
彼は新しく大公となった人物で、次の森守りの魔女が決まったため、これまでの労を労おうと供を連れて森へ寄ったのだ。
彼はずっとある人物を探していた。
夢で見ただけの相手だ。
その人物は夢の中で彼の恋人で、愛人で、身分の低さから妻にはできなかったが、子どももいて、彼女以外の女性とはいらないと決めていた相手だった。
しかし彼女は愛人であったが故に護衛も手薄で、出かけた先で暴徒の手により死んでしまう。
それまで民を虐げる事などなかった彼は、それから冷酷な領主となり、民を思う事など決してない、そんな人生を送る事になる。
そういう夢だった。
ただの夢だ。
ぼんやりとした、曖昧な部分の多いただの夢。
だが、彼女がどこかで生きている気がしてならない。
今もどこかで1人で寂しい思いをしているような。
幸薄そうな、いつも淋しげで、悲しげな女だった。幸せにしてやりたいと、そう思っていた。
だから彼は、機会があれば様々な店に顔を出しては彼女を探している。
大公の跡を継ぐまではずっと王都で探していたが、今も大公領のあちこちで仕事があるたびに自らの足で出かけて行ってはいつも探している。
出会えないはずの彼女を。
そして今日。
今日も、大公は半ば諦めながら森へとやってきた。
馬の背から、近づく小さな家を見つめ、そしてそこで庭の小さな畑の世話をする娘を見つけた。
家のそばには、満開のライラック・シャワーの木が花を風に散らしている。しゃらしゃら、とスズの実が鳴った。
娘が、一行に気がついて立ち上がり、日除けのスカーフを外す。
その視線が、まっすぐに彼に届いた。
懐かしい、その顔。
土に汚れた顔の中で、驚いたように瞳が見開かれた。
ああ、今度は無くさない。
大切に、大切にする。
妻の座を与え、誰からも蔑まれないよう、必ず守る。
彼は急いで馬から下り、彼女の元へと駆け寄った。
「やっと、会えた」
紫の花が降る。
彼女が好きだった花、見たがった花。
血に塗れ、汚れてその中に埋もれていた、あの絶望と怒り。
抱きしめると、彼女は震えた。
「汚れます、閣下」
「汚れてもいい」
土の汚れなど。
血に汚れた姿でなければなんでもいい。
彼はようやく、愛する望むものを手に入れた。
それはおそらく、彼女も。