最後の詩
最後の詩
足下を見ながらエレベーターを降りた。
百貨店の最上階にある本屋では、文字が氾濫して流れていく。
頭が動かない。最後に何か食べたのは、何時間前だろう。
漠然と春は歩かなければいけない気がして、買い物に出た。買いたいものは別にないから本屋で何か物色しようと思った。
芸術は分からないが、文字は読める。世界屈指の複雑な言語と言われる日本語を読めるから、本屋は少しだけ居心地がいい。
そこで懐かしいタイトルの詩集を見つけた。正しくは短歌と解説。
小学校の教科書に載っていたもので、今でも朧気に思い出せる。
そういうインパクトのある日本語を作り出せるのは、やはりそれを芸術と呼ぶのだろう。
自分には、そういうセンスはない。
仕事に役立ちそうな本を買い、遅めのランチに向かう。
隣のビルのカフェでスマホを充電させながら、夜はお気に入りの店に行くと決めていたので時間潰しだ。
適当に本を置いて、コーヒーを頼んだ。
しばらくして焼きたてのトーストが運ばれてきて、猫舌に四苦八しながらを頬張った。
すると、右斜め向こうの席に目が移った。
たまたま目がいって、たまたまその人がスマホの画面ではなく、本を読んでいたから視線を止めた。
あんまり見ては悪いから、食べながらたまたま顔がそっちを向く素振り、なんて胸の中で言い訳しながらその人を盗み見た。
目が仄かに赤かった。マスクをはずしていたから、唇がかすかに震えていることに気づいた。
開いたばかりなのでは、という数ページ目に指を差し込んだ本を、その人は鞄にしまってしまう。
何でもないようにコーヒーを飲んでいた。
僕も舌が火傷しそうで飲んだ。
僕は考えた。こうして午後の会話を楽しむ人たちの行る場所で、うっかり泣いてしまわないように、その人は本を仕舞ってまったのだろうと。
自分の横にある本より、その薄い紙のカバーに包まれた、名も知れぬ本が高尚に思えた。
いいな、と思ってしまった。妙な話だ。
僕の買った本は約2000円、やや専門的な仕事に役立つ本。
だけど誰かが目を潤ませた一冊が、もう形の見えないその一冊が、今日一番魅力的に見えたアイテムだった。
気づくとその人は席を立っていて、僕は何の本だったのかだろうと夢想することで時間をつぶした。本はビニール袋の文鎮になった。
ふと思った。
人が魅力的に感じるものは、大抵誰かが魅力に感じたものだ。
それがほしいと、気になる、と人は手を伸ばすことが多い。
では魅力とは何か。
外見には良くある紙のカバーがかかった「何かの本」でしかない、それを魅力的にしたものは。
結局、誰かがそれに「感動」したからではないか。
感動、ってなんだ。
期待以上、想像以上、並以上。
思いがけない景色と光景。
感じて動く、動いて感じる。
僕の頭の中に、文字が浮かび上がって氾濫した。
久々の感覚だった。
ほとんど使っていないスケジュール帳の、用途不明の空きスペース。僕はそこに、インク溜まりを吐き出したペンで書き出した。
ペンで文字を書いたのはいつぶりだ?
何か、自分の「中」に生まれたものを、「外」へ吐き出すのはいつぶりだ。
僕に芸術は分からない。
僕は「センスがない」と言われたから。
最後に詩を書いたのは、いつぶりだ?
詩。
こんなものは詩なんて高尚なものではない。
メモだ、これはただのメモ。
自分が魅力に感じた数分間を、時間の流れから切り取るための文字の羅列。
日本語として成立しない、単語のちらばり。
何年ぶりだろう。
こんな些細なことで思い出すなんて。
ーー僕は、かつて日本語が好きだった。
今は。
いまは。
特に続きません。