初恋の少年
学校では今ごろ白髪に白ひげの校長先生が、夏休みの注意事項を体育館で話しているのかも。
体育館はクーラーが効きすぎて寒いから苦手。だから、出席しなくていいのは素直に嬉しい。
背の順に並ぶとわたしは後ろから二番目だから、先生がすぐ近くにいる。姿勢をよくしないと注意される。おしゃべりもダメ。夏休みの宿題を昨日まとめてもらってきた。ドリルもいっぱいあるし、休みなのに休めない。どうして宿題ってあるんだろう?
小学五年生になって、別々のクラスになった幼馴染のミサキちゃんは『宿題、一緒にやろうね』って言った。ミサキちゃんはいつも、わたしの宿題の答えを写すだけ。なんだか少し、嫌な感じ。
じじじ、じじじ……って机に置いたスマホの振動に似たセミの声。薄水色の空にうかぶ夏の硬そうな入道雲。雲に隠れてた太陽の光が、白い病室に差し込んだ。
ホコリがきらきら光を反射する様子をぼぅっと眺める。そして、あらためてぐるりと室内を観察した。保健室の匂いがする部屋。白い壁と水色のカーテン。あけっぱなしの出入り口の廊下を行き来する白い服を着た看護師さん。
スリッパの音をパタパタさせて、お母さんが部屋に戻ってきた。
「陽葵ちゃん。夕食は普通に食べれるんだって。良かったね」
「お母さんも一緒に泊まるの?」
「今日と明日ね。一週間で退院できるそうよ」
「……海、行けないね」
「そうねぇ。来年はおじいちゃんの家に行って、いっぱい泳ぎましょう」
「来年かぁ……」
夏休みの直前、お母さんと一緒に近所の銭湯に行った日。
わたしは左足の付け根がポコンと飛び出ているのを発見した。押すとへこむし痛くもない。でも、なんだか嫌な予感がしたからお母さんに見せたら、
「あら、これヘルニアかもしれないね」
と言う。お母さんは去年ヘルニアで通院したので、腰にできるのがヘルニアだと思ってた。
「それは椎間板ヘルニア。陽葵ちゃんのは脱腸。お腹の壁に隙間ができて、中にある腸が出ているのよ」
「腸が出てるの!?」
びっくりして銭湯で叫んでしまった。だって、腸がお腹から出るなんて信じられない。怖くて銭湯の帰りにジーンズを穿くのもおそるおそるだった。看護師をしていたお母さんは、固くないから大丈夫っていうけど、次の日病院に行くまでわたしはずっと気が気じゃなかった。
翌日、病院に行くと、このポコンと飛び出た部分はお母さんが言うとおりヘルニア──鼠径ヘルニア──で、入院して手術する必要があるのだとお医者さまに説明された。あと三日で夏休みになるからちょうどいいってお母さんは言ったけど、わたしはすごくがっかりした。だって夏休みはおじいちゃんの家に泊まって海に行くと決まってたから。それにミサキちゃんと遊ぶ約束もしてる。でも腸がお腹から出るなんて怖い。手術も怖い。
外科の先生の都合で、夏休み前の終業式の日に入院することになった。
わたしが入院した病室は六人部屋。この部屋には三人の先客がいた。窓側の一番端がわたしのベッド。間のベッドをひとつ空けて隣にお母さんより若そうなお姉さん。向かいに髪が真っ白で小さいおばあちゃん。その隣に、わたしと同じ年くらいの男の子。
お母さんは同室の人がお菓子を食べれるのか検温に来た看護師さんに聞いて、食べれるひとにクッキーを配った。わたしが好きなケーキ屋さんの、可愛い瓶に入った紅茶クッキー。手術前だけど、わたしは食べ物を制限されてないので、あいさつが終わったお母さんとふたりで少しだけ食べた。
お母さんはわたしのベッドの隣に簡易ベッドを準備してもらい、そこで寝る。夕食まで時間があるから、病棟をひとりで散歩することにした。
病室を出て、とりあえずナースステーションの前を歩く。大きめのスリッパを履いているから少し歩きにくい。ちゃんと靴を履いてきたら良かった。歩くとペターン、ペターンって音がなるのが恥ずかしくて、つま先に力が入る。
「なにか床にあるの?」
突然、すぐそばから声が聞こえた。びっくりして声がした方を見ると、隣に知らない男の子が立っていた。
「あ、えっと……スリッパが大きくて、脱げそうだから」
なんと返していいのか困って小さな声で言うと、その男の子はわたしの足元をチラチを流し見て、納得したように頷いた。
「俺、玖島結斗。同じ部屋だよね」
その言葉で思い出す。廊下側のベッドに座っていた男の子だ。
「長野陽葵。あの、五年生……」
「俺は六年生。……陽葵ちゃんって呼んでいい?」
そう聞かれて、反射的に首を縦にふった。なぜか言葉がでなくて顔が熱い。
くっきりした眉毛のすぐ下にある二重瞼の目。ぷっくり膨らんだ涙袋。羨ましいほど長いまつ毛がびっしり生えてる。長めの前髪がサラサラ横に流れてて、夏なのに肌が白い。キレイでかっこいい。ミサキちゃんが好きだって言ってた俳優さんにちょっと似てる気がする。背もわたしより高い。なんか──視線を向けられると恥ずかしい。
「……しようか?」
「っはい?」
あ、はなし、聞いてなかった。
「案内しようか?」
玖島くんはおかしそうに目を細めて笑いながら言いなおしてくれた。
「はい! お願いします!」
うわぁ。漫画に出てくる男の子みたいだ。初めて見た! クラスの男子はすぐ騒ぐしガサツで子供っぽいけど、玖島くんは、ぜんぜん違う気がする。
「玖島くんは、どこ小? わたしは加音小!」
「守洋学院だよ」
「もりひろ!」
守洋学院といえば、この地域では一番有名な私立学校だ。幼稚園から大学まである大きな学校。制服が、黒地に白いラインが入ったジャケットと白黒チェックのスカートの! すごく制服が似合いそう。
今はグレーの半袖パーカーとサルエルパンツを着た玖島くんを上から下まで眺めて、納得した。あの学校は玖島くんの雰囲気に合う気がしたから。
「呼び方、結斗でいいよ。あ、ここが談話室」
ひらけた空間には、母とふたりでよく入るカフェに似た、おしゃれな木の椅子とテーブルのセットが四つ。窓際にカウンターと背の高い椅子。左の壁には雑誌や漫画、絵本が入った本棚があった。入院しているらしい男の人がテーブル席でイヤホンをつけ、タブレットを見ていた。
ぼうっと眺めていると結斗くんがスタスタ歩いていく。あわててついて行くと、カウンター席の角。本棚の近くにある背の高い椅子をぽんっと結斗くんがたたいた。
「毎日、この椅子に座って本棚の漫画を読んでる。うち、親が漫画嫌いでさ。家じゃ読めないから」
ちょっと困ったように眉を下げて言う結斗くんに、ぼんっと心臓が跳ねた気がした。
「そ、そうなんだ。あ、わたしも漫画好きだよ。あの棚の本は、ほとんど家にある! 親が漫画とか小説が好きで……」
あああ……なにか言わなきゃって焦ったら、余計なこと言っちゃった。別に、いっぱい読んでるとか。親が本好きとか。変な自慢に聞こえるんじゃないかな。そんなつもりで言ったんじゃないのに!
「陽葵ちゃんのお母さん。優しそうだよね」
「え、そんなことないよ。いっつも怒ってるよ!」
わたしの変なマウント発言を無視して話題を変えてくれた結斗くんは大人だなって思った。
翌日、わたしは生まれて初めて手術をした。
手術中はドラマや映画で見たような、軽快な音楽が鳴り響くのを期待した。実際は点滴で意識を失う直前にショパンのノクターンが聞こえた気がしただけ。自分がいつ寝たのかもわからないうちに突然、
「手術が終わりましたよ」
と、声をかけられた。
その後、わたしは六人部屋ではなく、個室に移動した。しばらくして口についた酸素マスクも外される。圧迫装置というのをつけているから寝たきりだけど痛みは感じない。
そして初めて尿瓶を使った。おしっこは漏れそうだけど、ベッドの上じゃなかなか出せない。心から個室で良かったと思った。だって、六人部屋だったら絶対おしっこできない。結斗くんに、音を聞かれたらと思うと、は、恥ずかしくて死んでしまう!
夕方になるとお父さんがお見舞いに来てくれた。けど、お父さんが帰ったあと、眠くなって……目を覚ましたとき、次の日の朝になっていた。
入院三日目。圧迫装置は外され立ち上がれるようになった。お医者様に歩けるようでしたら散歩してくださいと指導を受ける。傷はなんとなく痛い気もするけど気にするほどでもない。でも、昨日から何も食べてないのに今日も何も食べれないと知って、気が遠くなった。
その日の夕方、お母さんは家に帰った。仕事を休んで毎日お見舞いにくるからねって言うけど、薬局で働くお母さんはけっこう忙しい。わたしはもう五年生だし、自分のことは自分でできるから毎日来なくていいよと伝えた。ひとりは慣れてる。それにここにはお医者さんも看護師さんもいる……結斗くんも。家でひとり留守番しているよりずっと楽しい。
「洗濯物は毎日、取りにくるからね」と、残念そうなお母さんをエスカレーターの前まで見送り、車輪のついた点滴スタンドを押しながら来た道をゆっくり戻る。
その途中で談話室の前を通った。結斗くんに会えるのを期待したけどそこにはいない。思い切って病室を訪ねたけどそこにもいない。
諦めて個室に戻り、タブレットで動画を見る。
そう云えば、結斗くんはなんの病気で入院してるのだろう。聞いてもいいのかな……いや、聞いたらわたしも教えなきゃいけない。鼠径ヘルニアってなんか、恥ずかしいきがする。だって、その……へんな場所を切るし。尿瓶でおしっこだし。やっぱり聞かないほうがいいのかな。それにしても……ああ、お腹へったなぁ。早くなにか食べたい。そう思ってるうちに、寝てしまった。
入院四日目。やっと食べ物が出された。朝食はお湯で溶いたようなお粥や、具のない味噌汁にゼリー。食べたら余計にお腹が空く。空腹を忘れるために、一心不乱で夏休みの宿題ドリルをした。
午後になると、結斗くんがお見舞いに来てくれた。お母さんが午前中に届けてくれた漫画の本を結斗くんにすすめてみる。少し前までアニメも放送されてた人気少年漫画だ。
「これ読んでみたかったんだ。陽葵ちゃんありがとう。ここで読んでもいい?」
嫌なわけない。うんうんと縦に首をふると、結斗くんは窓際の椅子に座って本を読みはじめる。わたしも、途中だったドリルの続きをしようとテーブルを引き寄せた。ときどき結斗くんの方を見ると、結斗くんもわたしを見ている。目が合うたびに「ドリルでわからないところある?」「漫画どこまで読んだ?」って少しだけ会話した。心臓がドクドクして、足の裏がむずむずするような、変な感じ。わたしは結斗くんと話すのが嬉しくて、すごく嬉しくて。ずっと話してたいと思った。
「なにを見てるの?」
夕食のあとも結斗くんは遊びにきてくれた。
「タブレットで漫画を読んでるの。新しい話が更新されたから」
「あ、これ。今日読んだ漫画の続きだ。一緒に読んでいい?」
結斗くんがタブレットを見やすいように、ベッドの端に並んで座った。肩が触れ合って鼓動がどんどん早くなる。ページをタップする指先が震えた。
次に進んでいいか、結斗くんに聞こうと横を見る。
顔がすごく近い。
さっきわたしがあげたシトラスミントの飴の香りがする。
長めの前髪。邪魔そうに頭を少しふって横に流す仕草。日焼けしてない真っ白い肌。少しだけ赤くなったほっぺたが、頭を傾けたらぶつかりそうな位置にある。
──それを意識したら、だんだんわたしの耳も頬も熱くなってくる。そして、漫画の最後のページをタップすると、主人公の少年がヒロインの女の子にキスをしている絵が!
思わずタブレットを持っている方の手がぶれた。
「あっ!」
ふたり同時に声が出る。
わたしの手から滑り落ちるタブレットを結斗くんが掴み、落ちるのを防いでくれた。
「落ちなくて良かった」
「あ、ありがとう」
あいかわらず、近すぎる距離。男の子なのにぷっくりツヤツヤした、柔らかそうな赤い唇。
「……キスシーンでびっくりしたの?」
直接、心臓を握られたみたいに胸がギュッとした。いま、唇を見てたの気づかれた!?
「や、ちがうから。そうじゃ、なくて……」
言い訳の言葉も出てこない。自分がとんでもなくやらしい女の子になった気がして逃げ出したくなった。
「陽葵ちゃんはキスしたことある?」
混乱中のわたしにかまわず結斗くんは話しかける。
「ないよ!」
「俺もない。してみる?」
「えええっ?」
「冗談だけど」
結斗くんはいたずらが成功した! みたいな顔でほほ笑む。そして、硬直したままのわたしに「そろそろ戻るね」と告げ、涼しい顔のまま部屋を出ていった。
入院五日目。 午前中にさりげなく結斗くんの病室の前を通ったけど、ベッドはカラ。談話室にもいない。
午後からはお母さんが診察の付き添いで来るから、午前中に一度、結斗くんと話がしたかったのに……。
診察の結果、わたしは明日退院しても良いと言われた。お母さんは嬉しそうに退院の支度をしている。わたしは……昨日した結斗くんとの会話をことあるごとに思い出して、ため息ばかりついていた。
部屋にお母さんがいるから、なんとなく結斗くんを探しに行くのがはばかられる。退院が嬉しくないわけじゃない。けど、結斗くんと気軽に会えなくなるのは……すごく、悲しい。もやもやする。
ようやくお母さんが、
「明日8時に向かえにくるからね!」
と、慌ただしく帰ったのは夕食のあと、消灯時間の直前だった。
コンコンと壁をノックする音がする。見ると、出入り口に結斗くんが立っていた。
「入っていい?」
遠慮がちに言う結斗くん。わたしはやっと会えて嬉しいのと、昨日の恥ずかしい気持ちが混ざって、声がでない。見てると、眉を下げて困ったような顔をする結斗くんが、
「昨日からかったの、まだ怒ってる?」
と聞く。言葉がうまく理解できなくて、少し考えてから首を小さく横にふった。そして、つばを飲み込んでから、口をひらく。
「おっ、怒ってない……よ」
わたしの言い方が悪いのか。結斗くんは部屋に入りベッドの縁に腰掛けるわたしの前まで来て、がばっと上半身ごと頭を下げた。
「ごめん。調子にのった」
「怒ってないったらっ!」
声が裏返ってしまった。頭を上げた結斗くんは少し首を傾けて前髪を横にふる。今日もツヤツヤした赤い唇に目が吸いよせられる。……女子とは違う身体のかたちをした結斗くん。なのに唇だけは女子みたいにぷっくりしてる。
「……結斗の唇がいつも赤くてツヤツヤしてるから……リップでも塗ってるのかなって思ったの」
わたしが言うと、結斗くんは目を大きくした。
「ええっ、塗ってないよ! ……触ってみる?」
腰を曲げて、結斗くんが顔が近づけた。あとには引けなくて、そっと……人差し指で唇を押す。思った通り、ふわっと柔らかい感触。リップやグロスを塗ったようなベトベトした感触はない。ぼうっと自分の人差し指と赤い唇を見比べていると、
「……陽葵ちゃんの唇は、いつもツヤツヤしてる」
と、唇が動いて、最後にきゅっと口の端が上がった。
「わ、わたしはリップ塗ってるから!」
「そうなの?」
もしかすると、すごく恥ずかしい……やらしい女子だと思われたんじゃ……。
「俺も触っていい?」
優しい声だった。だから、うなずいてしまう。
うなずいてから、触られるのが自分だと気付いて顔がとんでもなく熱くなった。顔だけじゃない。耳も首も……身体が全部熱い。目の前は真っ暗で、心臓はすごい勢いでドクドクしてる。耳の中に川が流れてるみたいな音がする。
「さわっても、よくわからないや……」
え、いつ触られたの? ええ。あ、目をつぶってた!
「もう消灯だ。部屋に、戻るね」
目をあけると、結斗くんは既に出入り口の方へ歩いていた。そして、部屋の扉が空いたままだったと気付いて、もっと恥ずかしくなる。
どうしよう。だ、誰かに今の、見られた? ど、どうしよう……。考えている間に結斗くんはどんどん先に進む。呼び止めなきゃ。なんて言って? 言わなきゃ! だってわたしは、
「明日! 明日わたし、退院するの」
後ろ姿に投げた言葉。結斗くんが立ち止まる。そして、振り返った結斗くんの顔を見て、唖然とした。だって、今まで何でもないって顔してたのに。白い顔が、真赤になってるから。
「……そう、なんだ。退院おめでとう」
少し間を空けて、困ったように眉尻が下がる。それを見て、嬉しくなった。きっと結斗くんもわたしと同じ気持ちだって……思った。また、会いたい。お別れしたくない!
「明日の朝は、会える?」
「……明日は、朝から検査があるから……」
「そっか。じゃあ、お見舞いに来るから! うち、この病院まで電車で一駅だし。自転車でも来れるよ」
「ありがとう」
「じゃあ、またね。おやすみ!」
「おやすみ。陽葵ちゃん」
退院の日。やっぱり、結斗くんには会えなかった。
その後、結斗くんのお見舞いに、何度も病院へ行った。なのに、結斗くんはどこにもいない。ナースステーションで聞いても個人情報だからと言われ、なにも教えてもらえなかった。結斗くんがいた病室には白髪の小さなおばあさんに聞いても、結斗くんを知らないと言う。
わたしの初恋は、夏休みのドリルに残された「玖島結斗」の文字だけになった。
おわり