鷺とフクロウ
「ごめんね、お母さん、本当に大変なことしちゃった、ごめんね」
お袋が何度も何度も謝るせいで、さっきまで心にふつふつと湧いていた怒りは冷め切った。泣きじゃくっているようで、鼻水をすする音やら嗚咽やらでいつもの明るくあっけらかんとした母の原型はない。
さらに電話越しの声ということも相まって、別人と話しているような気にさえなる。
しかしあの底抜けに明るい母が、実家で受話器片手にぼろぼろと泣いている姿を想像すると、こっちまでいたたまれない気持ちになって、泣きたくなる。
数分前、珍しく家の電話が鳴ったために不思議に思って受話器を取ると、母からだった。
第一声は「久しぶり」でも「ご飯ちゃんと食べてる?」でもなくて、「お金、とられちゃった」だった。
俺は信じられなくて、言った。
「金って何? とられた? 強盗?」
「違うの、違うのよ。私、騙されちゃったのよお」
あまりに突然のことで、俺は一瞬頭が真っ白になった。
だけど、信じたくないが、そういうことだろう。
「もしかして、振り込め詐欺?」
俺が言い終わる前にお袋はもう一度、わあっと声を上げて泣き出した。最早会話の続行は不可能な状態だった。
俺は「ちょっと気持ち整理してからもっかい連絡する」と受話器を置いた。
まさか、こんなことが身の回りで本当に起こるなんて、思いもしなかった。
俺は一人暮らしをしているワンルームの床に仰向けに寝転がると、しみのある天井を見つめた。家を借りたときにはなかったしみが、至る所に発生している。
俺の生活やら、心やらを蝕むように、今の俺にはじわりじわりと広がっていっているように見えた。
昨日までの俺に、俺はすごくむかついていた。
振り込め詐欺なんて、引っかかるほうが馬鹿だ。
ずっとそう考えていた。
ニュースを賑わせている振り込め詐欺は「俺、俺」なんて言うだけで、名乗ったりしないし、しかも突然「事故にあった」だの「会社の金を紛失した」だの言うらしい。
突拍子もないことを鵜呑みにして、おまけに言われた通りに大金を渡すなんて、普通の人ならやらない。途中、どこかで「おかしい」と気付くだろう。
それにいくら電話とは言っても、自分の息子の声くらい分かるだろ、なんて俺はテレビを見ながら常々笑っていた。
俺は上半身を起き上がらせて、携帯を開く。
着信履歴にはびっしりと「母」の文字が並ぶ。どれも不在着信だ。
対して発信履歴に並ぶのは会社の上司やら取引先の会社名ばかり。俺は仕事だの何だの理由をつけて、お袋からの電話には出なかった。
それだけでなく、改めてかけ直すこともしなかった。
伝言メモは、保存できる容量の限界まで溜まっていた。どれも未開封のマークがついていた。
お袋が詐欺にあったのは、俺のせいだと思う。
大学を卒業して上京し、一人暮らしを始めて五年。かれこれ一年以上まともに電話していない。いや、連絡を取らなくなって、もう二年以上経つかもしれない。
定期的に送られてくる米や果物に「もういらねえよ」と短い電話をしたのはいつだったか。覚えていない。
電話帳から実家の電話番号を探し、発信ボタンを押そうとして、家の電話が鳴った。
「ごめんなさい、かかってくるのを待とうと思ったんだけど、もういてもたってもいられなくって、不安で不安で……」
「いや、遅くなって悪い、俺も今かけ直そうと思ってた。あのさ」
今までごめん、と言おうとして、喉まで上がってきた言葉は、もう少しのところで引っ込んでしまった。
「その、えっと」
一番伝えなければいけない気持ちなのに、出てくる言葉は現実的な話になる。
「か、金は? いくらとられた?」
お袋は、すぐには答えなかった。
受話器の向こうで鼻をすする音がして、口ごもる様子がうかがえる。
「ご……」
ぽそりと小さく聞こえた。俺は思わずえっと声に出して、聞き返した。
「五十万?」
「うん……五十万、渡しちゃった」
金額は、ニュースで取り上げられるような大きな額ではなかったけれど、俺やお袋にとっては大変な金額だった。
五十万も、母に貯金はなかったはずだった。
きっと生活費をかき集めて、先のことなんて考えずに渡してしまったんだろう。
ただ、俺のことだけを考えて、心配してくれて、自分たちの生活がどうなったっていいから、俺のことを助けてくれようとしたんだろう。
お袋も、もうずいぶん歳をとった。
時代柄、大学には行かず十代のうちに親父と結婚したお袋は、ずっと専業主婦として家を守ってくれていた。
俺が家を出るときも、お袋は最後まで反対した。わざわざ東京に出て行くことはないと、県外でもいいからせめて通えるところにしろと、荷物をまとめる俺にさんざん投げかけた。
親父は朝から晩まで仕事尽くしの毎日だったことで、家で俺と一緒になる時間はあまりなく、おかげでとやかく口を出されることもなかった。
だから俺は、お袋ひとりだけの反対を押し切れば良かった。最終的には「毎月仕送りすりゃあいいんだろ」と怒鳴ったら、お袋はそれ以降何も言わなくなった。
生計は親父が小さな工場で働いて出る給料のみでたてていて、それが微々たるものだというのは分かっていた。
お袋が新聞と一緒に配達された求人広告に、赤いペンで丸をつけていたのを知っていたからだ。
丁寧につけていた家計簿を夜な夜な開いては、頭を抱えていたのを知っていたからだ。
「なんて、言われた?」しばらく黙り込んで、ようやく俺は聞いた。
「電話で、どうして金が必要だって言われた?」
受話器の向こうで、うん、と飲み込むような返事が聞こえた。
「あなたが、事故を起こしたって。あなたに突っ込まれたほうの方から電話で、怪我はないし、大した事故でもないから、五十万払ってくれれば、会社とか警察にも連絡しないって言われて……」
お袋は言いながらまた泣きそうになっていた。
「私も、始めは信じられなかったの。だけど、電話を代わるから、と言われて、あなたが出て。……とても、泣いていたから。会社クビになる、人生終わりだって……」
そこまで聞いて、俺はさらに自分を責めた。
そういえば、と思い出したのだ。
上京してきたばかりの頃、お袋に心配かけたくなくて車を買ったと言った。
仕事じゃ失敗続きで怒られっぱなしだったくせに、お袋があまりに心配するものだから、苦し紛れに言ったのだった。
それだけ余裕があると思ってもらいたかった。
言ったあと、良かった、良かったわ、と心から嬉しそうな声を上げて、電話越しに泣き出したお袋の声も思い出した。
今と同じように泣いていたが、あのときの声はどこまでも明るかった。
「ねえ……本当にごめんなさい」
くぐもった声で謝られた。もう数え切れないほど聞いた言葉だ。
言われるたび、心の奥がちくちくと痛む。
「もう、謝らなくていいって。俺、金送るよ。五十万払っちゃったら、お袋、これからの生活困るだろ。……五十万全部は無理だけどさ、とりあえず二十万……、いや、三十万送るから」
「ありがとう……、本当に、ありがとね」
感謝されるのが辛かった。けれどこれで、今までの行いが相殺できれば、とも思った。
「三十万あれば、とりあえずやっていけるだろ。親父とお袋、二人で、ちょっとは暮らしていけるだろ」
うん、そうだね、という言葉を期待した。
ありがとう、という言葉も心のどこかで期待していたかもしれない。これで、丸く収まると思った。
とりあえず三十万払って、次の給料日でまた二十万払う。これからはきちんと仕送りもしよう。俺は上京するとき、仕送りをするとでかい態度で言っておいて、結局口だけだった。
最初の三ヶ月間、見栄を張って少ない給料の半分近くを送ったが、すぐにそれでは暮らしていけなくなった。「悪い今月はちょっと厳しくて。でも来月は送るから」と言って、その来月は未だきていない。
思いふけって、お袋から返事がないことを不思議に思った。どうした、と訊ねた。
俺はお袋から言われた言葉を上手く飲み込めなかった。
「え?」
お袋は引きつって泣き始めた。
俺は泣くことなんてできない。だってお袋から言われた事実は、まだ俺の周りをふわふわと漂っている。何度まばたきをしても、え、と訊き返しても、お袋は電話の向こうで、上手く呼吸ができていない様子だった。
親父が死んだ。先月、一周忌を迎えたという。
親父は酒にも煙草にも手を出さなかった。食事は昔ながらの栄養バランスの良い和食しか食べなかった。
だから大学帰りにラーメンや牛丼やファストフードばかり食べて帰宅する俺に、自分の健康体を例に出し、いかに食生活が大事かを語っていた。若いうちの食生活で、将来どんな病気になるのかが決まると、どこで仕入れたか分からない知識を披露するのが毎晩のことだった。
その、親父が死んだ。
事故だったらしい。
勤務していた小さな町工場で、積んであった荷物が親父の上になだれ込んだ。いつも通り他に従業員がいれば、すぐに荷物をどけてもらえて助かったのかもしれない。
けれどその日、親父は納期が迫っていることを理由に、普段より二時間早く仕事場へ行き、一人で作業を始めようとしたのだという。結果、死んだ。
頭の中で、親父の声がこだまする。
健康が一番だぞ、と言いながら、ずず、と緑茶をすする親父は、もういない。
「……んだよ……、」視線の先にある電話機の数字が、ぼやける。「健康も何も、関係ねえじゃねえか」
心の奥底から出た言葉だった。
対してお袋は、うん、うん、と絞り出した声で、相槌を打つだけだった。
それからは、少し話をした。
親父が死んだ後、実家の一戸建ては一人で住むには広すぎて、泣く泣く売り払ったこと。今はアパートに一人で住んでいること。寂しいから、せめて正月くらいは帰ってきてほしいこと。
俺は「やっぱり悪いから」としぶるお袋からやっと、新しい家の住所を訊き出すと、メモをして受話器を置いた。どっと疲れが押し寄せてきた。
せっかくの日曜日、ゆったり休むはずだったが、とんだ一日になってしまった。
だけど、と俺は久しぶりに聞いたお袋の声を思い出し、これからはせめて、週に一度、毎週日曜日には電話しようと決意した。
次の日。月曜日の短い昼休憩を使って、俺は会社の近くの郵便局に行った。初めて金を郵送した。
現金を送りたい、と言ったら専用の封筒でしか送れないと言われ、五百円近くする封筒を買わされ、挙句の果てに「どうして現金を送るのか」といった質問を何度もされた。近年増えている振り込め詐欺防止運動の一環だと言って、まず受付の女性、ついには責任者のような男が来てその目的を聞かれた。
俺は終始「実家にいる母親が金に困ってるから」と貫いた。
男はにっこりとした笑顔を顔面に貼り付けたまま、繰り返し「振り込め詐欺防止運動を実施しておりまして」と言った。こっちはその振り込め詐欺に引っかかって、痛い目見たあとなんだよと、何度も言ってやろうかと思った。
だけど金額もさほど大きなものではないし、何より大ごとになってこれ以上お袋が責められるのが嫌だった。お袋はもうさんざん泣いて、自分がしてしまったことを後悔し過ぎているほどだ。警察が来てまた根掘り葉掘り聞かれたら、たまったもんじゃない。
平日はやはり、変わらず会社は忙しかった。
平社員の俺は上司から回ってきた仕事をこなして、さらに自分でも仕事を取りに行かなければならない。昼休みだって、あってないようなものだった。
月曜日はなんとか抜けて郵便局へ行くことができたが、その時間はいつも、外回りの時間にあてている。
それ以外に仕事から手を離せる時間はない。会社は常に仕事で溢れているから、せっせとキーボードを叩く手を少しでも休めれば、仕事が片付いたのだと見なされ、至る所からどんどん仕事が流れてくるだろう。
そうこうしているうちに、お袋に金を郵送し終えたことを連絡するのが、次の日曜日になってしまった。
携帯を開き、電話帳から実家の番号を探した。長らく読まなかった本にはほこりが積もるのに、しばらく開きもしなかった電話番号は、そうならないんだな、と頭の隅で思った。
同時に、当たり前だな、とも思い、少し笑えた。
発信ボタンを押す親指には、ささくれがあった。他の指にもちらほら見つけた。
毎日毎日、コンビニに食事を任せているせいだな、と思った。
四回鳴ったのち、コール音が途絶えた。
「……」五秒ほど待っても、受話器の向こうから声は聞こえてこなかった。
「あの、えっと」待ちかねて、口火を切った。「母さん? 俺だけど……」
「……」
返答はない。確かに電話には出たはずだ。
テレビと思われる音が聞こえてくるからだ。
「もしもし? 俺だよ母さん。俺だって……」
「知らん」
「え」
「お前なんか知らん。うちにかけたのが運のツキだったな」
声は男のものだった。しわ枯れている。
男は咳払いをすると、強い口調で続けた。
「か弱い年寄りから金を巻き上げて、楽しいか? その金で食う飯は美味いか?」
「ん? あ、あれ」
俺はおかしいと気付いた。電話番号を確認しようとして、やはり間違えているわけがないと思った。
なぜなら、声の主は明らかに親父だったからだ。
困惑する俺に、親父は畳み掛ける。
「年寄りの金で遊んで、今は楽しいかもしれないな。だけどな、上手くいくと思うな。見せかけだぞ、そんなものは。ひとときの楽しみだ。すぐに全部ばれて、牢屋行きだ。……それにな、かけるところを間違えたな」
親父は一息ついた。ふん、と鼻で笑っている。
「わしはまだボケとらんからな、自分の息子の声くらい、きちんと聞き分けられるわ」
いや、全然聞き分けられてないよ、と言い返したかったが、親父の口調があまりにも自信に満ち満ちていたせいで、そうすることは妨げられた。
ただ何も言わないわけにもいかない。このまま犯罪者扱いは困る。
「待ってくれよ、親父、俺だよ。……俺……、あれ?」
言いながら俺は、はっとした。
先週お袋からさんざん聞いた話だ。
親父は、死んだんじゃなかったのか。
お袋は嘘をついたのだろうか。金欲しさに。
そこまで金に困っているのか。
「うるさい、振り込め詐欺師め。お前に親父と呼ばれる筋合いはない」
「ちょっと待ってくれ、親父。お袋は……、母さんは? ちょっと母さんに代わってくれないか? 先週の日曜日の電話の件で話したいんだ、頼むよ」
俺は焦っていた。口調はどんどん早口になり、鼓動が早くなる。
親父は長いため息をついた。
ちょうど俺とお袋が、上京する・しないで揉めていたとき、同じため息をついていた。
痺れを切らした俺がお袋に怒鳴ったときも、親父は分け入ることもせず、今と同じように大きく息を吐き捨てていた。
「なかなか引き下がらん奴だな。まずわしが電話に出たことが予想外だったようだな。それで母さんに代わってもらうように、そうやって口から出任せを言うのか。よし、そこまで言うなら教えてやろう」
俺の中で、嫌な考えが小さく生まれていた。
親父が電話に出た時点で、本来なら考えるべきだったことだ。
しかし俺はそうしなかった。考えることを恐れていた。
信じたくなかったからだ。
だけど親父は、俺の考えの裏づけとなる事実を、ずばり言い切った。
「母さんは今ハワイだ。一人でバカンスを楽しんでいるだろう。お前さんの言う先週の日曜日に、ちょうど出発したよ」
俺はぱちぱちと何度も何度もまばたきをした。そのうち力の入らなくなった手から携帯は落ち、ごんと床を叩いた。残念だったな、と勝ち誇った口調で言った親父の声だけが、足元の携帯から漏れてきた。
立ちすくむ俺はやっとのことで、
「俺、俺、騙された?」
という情けない声を絞り出した。
ふと、郵便局員の顔が頭に浮かんだ。
あの貼り付けたような笑顔の男が頭の中に現れて、俺を見てほくそ笑んでいた。