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⑴
誰しも人生において、苦手に思う人間が一人や二人、いるだろう。
嫌い、ではない。
しかし好き、とも興味がない、とも違う。
ただ苦手なのだ、と僕、清水崇浩は目の前に座って化学の問題演習をする生徒を、憂鬱な気分で見ていた。
彼は上月皓人君。高等部の二学年だ。
僕が上月君のことを知ったのは彼が高等部に上がってきたとき。
高校一年生向けの部活の見学会で、僕が顧問になっている科学部にやってきた生徒のうちの一人が彼だった。その時に、かなり鋭い質問をしていたので記憶に残っていたが、結局彼は美術部に入り、僕たちの接点は授業にとどまるはずだった。
僕の勤める中高一貫の私立学校では、生徒は全員なんらかの部活に所属するように決められている。そのせいか部活に興味のない生徒は文化部に固まりがちで、実質幽霊部員なる者もそれなりにいるのだが、学校はそこには目を瞑る。
僕自身は部活全員参加など阿呆らしいと思っているのだが、学校が決めたことと進学意欲の強い生徒との折り合いがついていると思えば、目くじらをたてるほどのことでもなかった。
実際は勉強と部活をうまく両立している生徒ほど、思った所に進学できているのだが、それも態々いうほどのことでもないだろう。
そして、上月君は僕から見て、うまく両立している生徒の一人だった。
どの教師が彼の話を話題に上らせても、彼に対する評価や期待が高いので、逆に僕はそれに胡散臭さを覚えるほどだった。
センセ。
そう呼ばれて、ハッと現実に戻される。
磨りガラスを嵌め込んだような視界が、彼の声で急に鮮明になった。
目の前では上月君が意味ありげに口の端を上げていた。
「どうしたんですか、清水センセ。ボンヤリして」
ノートを僕の方にスッと送り出して、腕を机の下にしまった。
「いや」
僕は軽く首を横に振ってノートに手を添えた。
そのセンセ、と僕を呼ぶ発音。それも苦手だ、とは言えるはずもない。
膝の上に置いた、時間潰しに読んでいたはずの科学雑誌は、とうにページを捲るのを辞めてしまっていた。
これではいけない。
僕は教師という職に向き合おうと、そこだけに集中した。
僕は今年で三十六歳になる。
大学の時は工学部で高分子の研究をしていたが、家庭の事情でやむなく博士課程を断念し、奈良県にある実家に戻ってきた。
そしてこの学校の教師になって約十年。
最近では結婚のことを親戚からうるさく言われるくらいで、それは上手くあしらいつつ過ごしている。
僕には結婚できない理由があって、それは近しい家族は知っていることだ。ただその理由を広められるのは、僕が図太い性格をしていても流石に傷つく。それだったら、適当な言い訳をしてのらりくらりと躱している方が楽なのだ。
僕は生徒に特別好かれるような性格でも、授業スタイルでもない。そんなことはとうに承知している。ただ、分かりやすく興味を持って化学という教科に向かってもらいたい。そういう思いで授業を行なっていた。
今までに、生徒に問題が起こらなかったこともないが、できることはやってきたという自負はある。
ただ、この教師生活、といってもまだまだ短いが、その中で上月君のような生徒を受け持つのは初めてだった。
僕との距離感が、今までに経験した教師と生徒という一般的なものから外れている気がする。杞憂なのだろうが、気持ちのいいものではない。彼が卒業するであろうここから二年に満たない期間、僕は彼との距離を正常に保てるのだろうか。
上月君は高校一年生の秋頃から、放課後、美術部に行く前やその後で、化学準備室に訪れるようになっていた。本人の言を信じるなら、希望の学部に進学するために勉強したい、ということらしい。
今日彼が開いているのは化学の参考書だが、これが数学や物理であることもしばしば。物理教師の山村先生はサッカー部の顧問で放課後は殆どグラウンドに出ている。そして彼が質問にきたら見てやってくれ、と頼まれ、僕はそれを引き受けていた。
数学教師の島田先生はあと数年で定年という少し気難しい人で、慣れれば丁寧でいい先生だとわかるのだが、高校生にはとっつきにくいところがあるらしい。本来なら担当外の勉強をその教師に確認もせずに見るのはあまりいいことではないが、上月君には僕の方が聞きやすいというようなことを言われて、少しならいいだろう、と勉強を見るようになった。その時はまだ僕が彼に苦手意識を持ってはいなかったから。
上月君の解いた問題の記述回答に対して幾つか指摘を入れる。
彼は頷きながらノートを見ているが、どことなく居心地の悪さが付きまとう。そんなことを感じている僕のそばにいて、彼は何ともないのだろうか。いや、それを生徒に悟らせるのは良くないだろう。
「清水先生、できましたーってあれ、皓人。今日は部活前に来たん?」
僕の悩みをかき消すように、化学準備室のドアがガラッと開いて、科学部所属で上月君と同じ二年の山田遼太郎君の声が飛んできた。それを聞いて、僕は正直なところ助かったと思ったが、勿論そんなことは相手に気取られるわけには行かない。少し視線を上げると、山田君は軽く会釈して僕にレポート用紙を手渡した。そんな山田君に上月君が遠慮なく話しかける。
「遼、夏休みの計画?」
「そうそう、文化祭で発表するやつな。夏の間に合宿もあるし、時間かけてやりたかった事まとめてきた」
二人のそういうクラスメートらしい気軽な会話を聞き流しながら、僕は山田君の持ってきた文化祭に向けた研究計画にざっと目を通す。
それは微生物に関するもので、彼の希望進路にも合った内容で学祭のパネル展示までにもなんらかの結果は出そうだ、と思う。
もうすぐ夏休みがくる。そうなれば上月君にもそんなに会わずに済むだろう。そんなことを頭のどこかで考えるくらいには、僕の中で彼に対する苦手意識が、夏の空に手を伸ばす植物のように着々と育っていた。