問題だー
由紀恵さん、大きな宿題を抱えてしまったようです。
久しぶりに自分の自転車に乗った気がする。
岡田の自宅に帰って玄関の扉を開けたら、弟の達樹がぬっと立っていた。
「あっ……大きい」
「へっ、何?」
「いやいやぁ、何でもない」
「変なやつ。アネキが帰ったんならちょうどいいや。母さんが帰る頃にメールしようかと思ってたんだけど、ちょうどよかった。さっき、敏子叔母ちゃんから電話があってさぁ」
「へぇ、何だって?」
「母さん、また携帯を忘れてったらしいんだよ。何べんかけても繋がらないから、伝えてくれって、言われた。なんか明日、帰る予定だったけど、急用が出来て仕事を休めなくなったんだって。だから、人が多いかもしれないけど、不動産屋へ行くのは、今週末の土曜日にして欲しいってさ。俺は今日、フミくんちに泊まるから、夜はいないんだよね」
「何しに行くのよ」
「オールでカラオケ。これも母さんに言っといて」
「あんた、中学生のくせに不良ね。受験勉強は?」
「アネキだってしてないじゃん」
「私は……わかった、伝えとく」
「やりぃ。んじゃ、行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
不動産屋か……そこまで話が進んでたんだ。
これは説得するのに急を要するな。
これから高校に行ってこよう。先生に進路を相談し直さないと駄目かも。
由紀恵は母親の会社に電話をして、敏子叔母ちゃんの都合が悪くなったことを伝えた。
「もう、敏子ったら。自分から明日がいいって言ってたのに。わかった、お母さんは土曜日のほうがいいわ。会社を休まなくていいから」
敏子叔母ちゃんも、お母さんも、仕事人間だな。
由紀恵は一つ用事が片付いたので、冷蔵庫に残っていたもので軽く昼ご飯をすませて、電車で大賀の高校へ向かった。
生徒は夏休みだけど、職員室には先生たちがいっぱいいた。
島田先生は……と、いたいた。
英語科の先生の机が集まっているブースで、由紀恵の担任をしている島田先生が机にかがみこんで書きものをしていた。
めんどくさい書類でも書いているのか、たまにペンの尻で頭を掻きながら貧乏ゆすりをしている。
由紀恵はたくさんの机をすり抜けて、先生のところまで歩いて行った。
「島田先生、お仕事中にすみません。進路のことで話があるんですけど……」
「ん、ちょっと待て」
先生は最後の行を書き終えると、やっと顔を上げた。
そばに由紀恵が立っていたことがわかると、ちょっと意外そうな顔をした。
「何だ、遠坂か。この間、個人面談をしたばかりなのに何の用だ?」
「えーと、事情が出来て、進路希望が変わりそうなんです」
「そうか。 武田先生! 面談室、空いてますか?」
「空いてますよ」
「じゃあ、ちょっと借ります。おい、じゃあ、あっちで話そう」
「はい」
面談室で向かい合うと、島田先生はすぐに言った。
「お母さんに説得されて、大学に行くことにしたのか?」
「いえ、そこはまだはっきりとはしてないんです。あのぅ、就職口ってこれから探してもあるんでしょうか?」
「どこで? 東京か?」
「いえ、大賀県内で。出来たら、家に近い会社がいいんですけど……」
「大賀でかぁー? あのなぁ、遠坂、春の進路調査と一学期の終わりの個人面談で、うちの高校が持ってる就職口はほぼ全部、就職希望者に割り振ったんだ。秋になったらすぐに、会社面接が始まるからな。だから残ってるのは、あんまり条件がいいとこじゃないぞ。それでもいいのか?」
「……はぁ、そうなんだー。じゃあ、県立短大の幼児教育科って、私が受けられると思います?」
「待てよ」
島田先生は持って来ていた分厚い閻魔帳を開けて、由紀恵の成績を確かめてくれた。
「うーん、今から頑張って数学をなんとかしたら……引っかかるかどうかってとこだな。あそこは希望者が多いから激戦だぞ。よほどの覚悟がなかったら合格は難しいと思う」
「やっぱり、そうですかー」
どっちに転んでも難しいのね。
「わかりました。家に帰ってもう一度よく考えます。また相談に来てもいいですか?」
「ああ。お盆の時期を除いて八月中は、午前中ならここにいる。午後からは研修がある日もあるから、いるとばかりは限らないぞ」
「はい、わかりました。県立大学の試験要項って、もらえますか?」
「ああ、進路指導室に置いてある。入り口のノートに名前を書いて勝手に持って帰れ。……遠坂、突然の進路変更は長峰になんか言われたからか?」
「へ、恵子?……いいえ」
「そうか、ならいい。気を付けて帰れよ」
由紀恵は先生にお礼を言いながら、そういえば恵子に相談すればいいんだと思った。
恵子なら私の結婚相手を知ってるもんね。
山岡君の提案に乗るかどうか、恵子に相談してみよう。
**********
学校の帰りに恵子のうちに寄ると、嫌な顔をされて「来たか」と言われた。
由紀恵の行動は予想済みというか、未来からの連絡済みだったらしい。
「ねえねえ、恵子、どーしたらいいと思う?」
「だからー、就職だの結婚だのそんな重要問題を私に聞くことが間違ってる」
「だって恵子は知ってるんでしょ? 私の未来」
「未来は選択次第で変わるよ。由紀恵が東京に行くんだったら、それなりに私の記憶も書き換えられるんだろうし」
「そうなのかなぁ?」
「そうそう。まぁどうするのか決まったら、また私に教えてよ。それによって、今後のことも考えるし」
「今後?」
「そう。あの袋に入れる写真を考えなきゃでしょ。たぶん私が撮影するんだろうし……」
「そっか、面倒かけちゃうね」
「なにを今更」
いつもの調子に、二人で笑い合う。
やっぱり、中三の長峰さんより、高三の恵子がいいな。話しやすい。
家に帰ってしばらくすると、お母さんがスーパーの買い物袋をたくさん持って帰って来た。
お母さんが仕事をしてるのに、そういえば私って、あんまり手伝いをしてこなかったな。
「お母さん、夕食は何にするの? 手伝うよ」
由紀恵が台所に入っていって後ろから声をかけると、お母さんは宇宙人でもやってきたかのような驚愕の様相で振り返り、由紀恵の顔をじっと見た。
「珍しい……夏に雪が降るかもよ」
雪は……降ったよ。
何日か前だけどね。
今日はメインを魚の塩焼きにするので、副菜で切干大根の煮物を作るらしい。
やったー、乾物の料理方法がわかるっ。
まずは干した紐みたいな大根を水に浸けておく。
お母さんがニンジンを千切りにしているのを見ていると「やってみる?」と聞かれた。
包丁で少しだけ切らしてもらったけど、大きさを揃えるのが難しい。
切る音も、お母さんのようにトントントンとはいかなくて、コットンコットンとゆっくりとしか切ることができない。
「まあまあね。もうちょっと細いほうがいいけど。由紀恵のはちょっと太いから、こっちを先に茹でとこう」
そう言って、お母さんは小さいほうの打ち出し鍋で、ニンジンの下茹でを始めた。
「油揚げを切っといてね」
「オッケー」
由紀恵が揚げを切っていると、お母さんは肩越しに覗いてきて、クツクツと声を殺して笑っている。
「ふふ、今日は変わった煮物が出来るかも……でも、お父さんは喜ぶかもねー」
そういえば食べる時に、食材がどのくらいの太さで切ってあるのかなんて、今まであんまり気にしてこなかった。
「でも急にこんなことを言い出すなんて、さては由紀恵、好きな人が出来たな?」
「うん。今日、プロポーズされた」
「えっ?!!」
お母さんは私のことを揶揄おうと思っていたようだったけど、まさか逆に驚かされるとは思ってなかったみたいだ。
「そうだよねー 驚くでしょう?」
「……驚くでしょう?じゃないわよっ! 由紀恵ったら、のんびりしてるわねー もぅ、誰に似たのかしら、この天然。それで、プロポーズをしたとかいう男は、どこの誰なの?」
「山岡誠二君っていって、おばあちゃんちの近くに住んでる人。おばあちゃんちを買って、私と一緒に住みたいんだって」
「買う? あの家を?! ……高三じゃ、無理でしょ」
「ううん、山岡君は23歳だよ。あっ、今年の11月にはね。今は、22歳」
「22歳ですって? いったい、いつ、どこで知り合ったのよ」
「それがねぇ……」
由紀恵は夕食を作りながら、ここ二、三日のことをお母さんに話した。
しかしお母さんは、本当の話だとは思わなかったようだ。
「それ……小説かなんかの話でしょ。話を盛らないで、本当の事を言いなさい」
こう言われると、別の意味で話を作ることになるね。
「……ええっとねぇ、本当は……ううーんと、5年前の中一の時に、私が困っていることで、山岡君が親切に助けてくれたの。それから何回か会うことがあって、今日、プローポーズされた」
嘘は言ってないよ。
でしょう?
「そう。……でも、ちょっと早すぎない? 由紀恵が大学を出てからでもいいでしょうに」
「えっ、まだ山岡君と結婚するって決めてないよ。私、本当は東京に出て役者になるつもりだったの。でもおばあちゃんちの片付けに行って、考えが変わった。おばあちゃんが植えた桜の木なんかを守りたいって思っちゃった。私が、あそこの、あの家を継ぎたいって思ったの」
「そっか、そんな風に思ってくれたのね。……できたらあの家は残しておきたいけどねぇ。これからあんた達の教育費もかかるし、固定資産税も高いでしょ? それで、売却しようと思ってたのよ。でも、由紀恵がそういう考えでいるんだったら、お父さんや敏子に相談してみるわ」
やったー、これって、一歩前進だよね。
一歩前進・・・?ですかね?




