2.恋人は多部未華子?
ケンジのアパートは駅から十五分ほど歩いたところにある。その区画は周辺の開発から取り残されたかのような、古い建物が密集したゴミゴミしているところで、まだ昭和の雰囲気が漂っている。ケンジのアパートというのも、どちらかというと一昔前の下宿屋といった感じのところだった。
今にも壊れそうなほどオンボロな木造の建物の中に入ると、玄関で靴を脱ぐようになっている。共同トイレの横の階段を登って、ミシミシと音を立てる廊下を歩いていくと、203号室のケンジの部屋の前に着いた。
「どうしようか。もし本当に彼女が来ていて、何かその、おまえのいう童貞同盟の会員資格を喪失するような行為にでも耽っている最中だったりしたら、まずいんじゃないか」
おれはいちおう気を遣ってみたが、アキヒロは意に介さなかった。
「なあに、そんときはおれたちの大事な同志ケンジ君の貞操を守ってやるまでのことよ」
そう言うとアキヒロはドアに耳をつけて、中の様子を探っていたが、やがてドアをノックした。
「おーい、ケンジ。心配して様子を見に来てやったぞ。開けてくれ」
しばらく待ったが、中からは何の返事もない。アキヒロはおどけた声で呼びかけた。
「NHKの集金でーす。いるのわかってるんですよ。受信料払ってくれるまで、帰りませんからねー」
やはり返答はない。アキヒロは今度は女の声音を使った。
「ねえ、ケンジさん、あ・た・し。お願い、開けて。今夜はとってもさびしいの。部屋に入れてあっためて。ねえったら。ケンジさん、お・ね・が・い」
すると部屋の中からドタドタと音がしてドアが開くと、ケンジが青ざめた顔を出した。
「おい、やめろよ。まわりに聞こえるじゃないか。わかったから入ってくれ」
「やっぱりいたんだな。さあ、おまえのかわいい彼女を紹介してくれよ」
アキヒロはそう言って中に入り、おれも後に続いた。
予想していたとおり、部屋の中に女の姿はなかった。アキヒロはからかうように言った。
「おい、ケンジ、部屋で待ってるという彼女はどこにいるんだ。もうやることはすませて帰っちまったのか」
「しょうがないな。紹介してやるよ」
ケンジはそう答えると、食べ終わったカップ麺の容器や割り箸が散乱する座卓の上に置かれたパソコンの画面に向かって話しかけた。
「ねえ、ユリちゃん。悪いんだけど、おれの友だちが急に遊びに来て、紹介しろってうるさいんだ。ちょっと出てきて、挨拶してくれよ」
ケンジがマウスをクリックすると、画面に若い女の上半身の姿が現れた。ものすごくカワイイ女だ。有名人でいうと多部未華子に似ている。いや、ちょっと待てよ。よく見ると多部未華子その人じゃないか。そう思っていると、アキヒロが笑い出した。
「なーんだケンジ、おまえ多部未華子のファンだったのか。彼女が部屋で待ってるなんて言うもんだから心配、いや期待してたんだが、どうせこんなことだろうと思ったよ」
「多部未華子って誰だよ。これはおれの彼女のユリちゃんだ。本間ユリっていうんだ」
ケンジの言葉に、おれとアキヒロは顔を見合わせた。
しばらくしてアキヒロは気を取り直したように、言葉をかけた。
「ま、まあ、どんな名前で呼ぼうとおまえの自由だけどさ。しかしなあ、おまえがおれたちの神聖な童貞同盟から脱退しないでくれて、ほっとしたよ。まさかとは思ったが、ちょっとは心配してたんだぜ」
「童貞同盟って何だよ。悪いけどな、おれはもう童貞じゃないんだぜ。一ヶ月前に体験済みだ」
その言葉はまさに青天の霹靂だった。これはきっと悪い夢なのだろう。いや、ケンジの冗談だ。アキヒロにからかわれたもんだから、お返しにびっくりさせようとして冗談をいったんだ。きっとそうにちがいない。
アキヒロも一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに冷静になり、フフフと笑った。
「裏切り者のケンジ君、いったいどこの風俗の女なんだい、そのユリちゃんというのは。多部未華子似のかわいい子がいる店なら、おれも行って童貞同盟を脱退したいなー」
「ユリちゃんは風俗の女じゃない。○○女学院大学の学生で、れっきとしたお嬢様だ。おれはこの自分の部屋で童貞を卒業したんだよ。彼女ももちろん処女だったさ。大学を卒業したら、おれたち結婚するんだ」
怒ったような声でケンジが答えると、おれは気持ちを落ち着かせて尋ねた。
「で、ユリちゃんは今はどこにいるんだい。今日はもう帰っちゃったのかい」
するとケンジはパソコンの画面を指さした。
「だからユリちゃんはここにいると言ってるだろ。いつもここにいて、おれの帰りを待っててくれてるのさ。まあ、お前らも人の恋路のじゃまをしないで、はやいとこいい彼女を見つけることだな。ねえ、ユリちゃん、あいつらが帰ったら、今夜もまたエッチしようね」
おれは何が何だかわからなくなってきた。するとアキヒロは肘でおれの脇腹をつつき、顔をこわばらせたまま、帰ろうぜ、と口を動かした。
「じゃ、じゃあ、おれたちそろそろ、失礼するから。じゃまして悪かったな。ユリちゃんと楽しい夜を過ごしてくれ」
アキヒロはそう言うと、おれの背中に手を回してドアの方へ促した。こうしておれたちは混乱した頭のまま、ケンジの部屋を後にしたのだった。




