帰り道
通い慣れた駅からの帰り道だが、酔っぱらって歩く日は普段より遠く感じる。特に今夜は少々飲み過ぎたかもしれない。でも終電では運よく座ることができ、改札の混雑もさっと抜けられたので鼻唄まじりの足取りは軽かった。
家までの道を半分ほど過ぎた頃、後ろからコツコツ、足音がついてくるのに気付いた。
近頃このあたりも物騒なので、念のため振り返って様子を窺ったが、そこに見えたのは一人の男、中年、勤め帰りのややくたびれたサラリーマンといった風、つまりは僕とよく似た男という訳で、怪しい様子はなかった。
帰る方向が同じなのだろう、僕たちはそのままの距離を保ちながら坂道を上り続けた。
この街は都心からやや遠いが、一応、東京のベッドタウンと宣伝されていて、通勤客がマイホームと駅の間を黙々と往復するという風景が毎日繰り返されている。通勤ラッシュの疲労と仕事のストレスを癒してくれるのは家庭での憩いのひととき、自分を待ってくれている家族の暖かさなのだ。
もうかなり遅い時間だったが、そんな家庭の温もりを想像させる明かりがこの坂道のあちらにもこちらにも灯り、あるじの帰りを待っている……。普段はそんなことなど考えもしないのに、今夜は何故かセンチな気分。自分でも可笑しくなった。
コツコツコツ。
突然、僕の背筋をゾクッとさせるような革靴の乾いた足音が響いた。
あの男だ。家まであと数百メートルになって、まだ、さっきの男がついて来ているのだ。
わが家の周りはそれほど家も建て込んでいなくて、近所はお互い顔見知り、結構仲良く付き合っている。しかし、後ろから来る男がそのうちの誰でもないのは確かだった。
ついてくる男を待ってその顔を確かめるべきなんだろうが、僕の中にそうするのを思い止まらせる何かがあった。逆にその何かは「男のそばに近づいたり、追いつかれたらまずいことになる」と警告していた。
そんな僕の気持ちなど知らぬように黙々と歩いているその男は、さっきよりかなり近づいていた。
このあたりは街灯も少なく、この距離で顔を見分けるのは難しかった。しかし何としても相手の正体を確かめずにはいられない気持ちになっていた。僕は次の曲がり角で男をやり過ごし、道の脇に潜んで相手の顔を覗くことにした。
僕は角にきた瞬間、すばやく右に曲がり、すぐそばの家の暗がりにしゃがみ込んだ。
やがて、足音が近づいてきた。男の影はそのまま真っ直ぐ(つまり僕の家の方向へ)行きかけたが、そこで思い返したように立ち止まり、僕の曲がった方向を何かを探るように見た。そして小さく安堵のようなため息をつくと、また歩きはじめた。
ちょうどその時、僕が隠れた家の二階で明かりがついて、四つ角が明るく照らされた。
男の顔がはっきりと僕の目に飛び込んできた。
その瞬間、僕の頭の中を走ったのは電光、稲妻、パニック、その全部だった。
僕は必死で叫び声を押し殺した。
男は明らかにほっとしたような顔をしていた。間違いなく向こうも僕を怪しい奴と思っていたのだ。向こうにしてみれば、その怪しい男が別の方角に消えてくれたので、助かったという思いなんだろう。
ほっとしたその男の顔は、「僕」だった。
僕は直ぐに立ち上がり、裏道を必死で走りはじめた。出来るだけ早く、出来るだけ音を立てずに。そしてその男を確実に追い抜いたと思われるところまで来て、もとの道に戻った。今度はわざとはっきり分かる音を立てて。そして男の方を窺った。
男もこちらを見ていた。何とか奴の前に出ることに成功したのだ。明らかに相手も僕のこの行動に気付いた。と、即座にこちらに向かって走りはじめた。
僕も迷わず男に背を向けて家を目指した。相手に追いつかれては大変、でも有り難いことに二人の足の速さは同じだった。僕がくたびれてスピードが落ちてくると、向こうも同じようにバテていた。それでも少しずつ近づいてくるのは、僕がさっき裏道を全力で走った分、彼より体力を消耗しているからに違いない。
最後の1ブロックは息も絶え絶えの競争だった。しかし遂に僕は彼より先に家の門にたどり着き、鍵をあけ、中に駆け込んだ。そして鍵をしっかりと掛けた。
勝った。
女房が奥からお帰りなさいと言いながら出てきた。そしてハアハア息が上がって座り込んだままの僕を不思議そうに見た。
その時、家の前を人が行ったり来たりしているような音が聞こえ、影が映った。
「どうしたの。誰かに追いかけられたの」
「覗くんじゃない」
やっとのことで出たその声は自分でも驚くくらい大きく、刺々しいものだった。女房も僕の剣幕に驚いて黙った。しばらくそのまま息を殺すように待っていると外は静かになり、人影も何処かに去っていった。
僕は戸締りを念入りに確かめて、ようやく靴を脱いだ。家庭のぬくもりを本当に有り難く感じた。
「一体、どうしたの?」
「どこかのツイテない奴が家から締め出されたんだろう」
「あら、可哀相ね。今晩、どこでどう過ごすのかしら」
「知らないよ。どこへでも行ってしまえ」
この家庭は僕だけのものであって、僕によく似た別の誰かのものじゃあない。僕はそう自分に言い聞かせながら、奴のことを頭から追い出した。
朝はすっきり目覚めた。昨夜の変な出来事の記憶もぼんやりとは残っていたが、あまりに馬鹿馬鹿しくて女房に尋ねる気にもならなかった。きっと夢を見たのだろう。
そのままいつものように電車に揺られて出勤した。
今日はツイてなかった。
立ち詰めだった終電を下りてようやく一息ついた時、何かにつまずいて倒れてしまい、改札を抜けるのが遅れた。べつに大したことではなかったが、妙に胸騒ぎを覚えた。
出来るだけ早足でいつもの坂道の下までやってきたが、周りには誰も居なかった。何故かほっとして坂道を上がろうと前方に目をやった。
その時初めて、誰かがこちらをじっと見つめているのに気付いた。うつむき加減の、くたびれた風体のサラリーマン。奴だ。暗闇のなかでも奴がニヤリとしたのが分かった。
僕はすぐ、走りはじめた。
しかし僕は、彼には決して追いつけないということが分かっていた。