人間達
「こしゃ、くな……」
その一言を最後に、長年フォルクスを苦しめ続けていた怪物は、膝から崩れ落ちる。
それを境に、我先へと突撃していった人間達は、槍を次々に突き出し、とうとうその巨大な魔族を討ち取ることに成功した。
『恐象』ガネーシャを討ち取ったぞ!
兵士の一人が上げたその一言が、徐々に徐々に後続にまで伝わって行き、それが隅々まで行き渡った時、その戦場にいた兵士達は、勝鬨を上げた。
顔を満面の笑みに崩して、あるいは涙を流しながら。
人々は、自分達を苦しめる巨悪の一つを打ち倒したことに、大いなる満足感を覚えていた。
……そんな空気の中、二人の男女が、やっと一仕事終わった、とでも言いたげな顔で戦場に背を向けて歩き始める。
一兵士であれば許される行為ではないが、この勝利の立役者である彼らに物申すものは一人もいなかった。
勝利の充実感をかみ締めるのに、兵士達は精一杯であったのだ。
そして何より、英雄的な持ち上げられ方をその二人が好まないことも知っていたから、彼らが去り行くのに気付いた者は、黙って頭を下げるのみだ。
「あーあぁ、疲れました」
「しゃーねぇだろ、あいつ強かったもんなぁ」
「強いったって、いくらなんでもタフすぎますよ。なんで私達が二人掛かりで三ヶ月もかかるんですか」
「その価値はあったろ。これで、『ヴェーダ』の最強の一角は潰したんだ、後は弱らせるだけだろが」
「……まあ、あの一党に関してはもう他の人の管轄ですし。フォルクス西部はしばらくこれで大丈夫そうですね」
男の名は、十二使徒が第五位、『気酔』バッカス・ドランクス。
女の名は、同じく第八位、『怨音』ソプラノ・プラム。
サリア教における神の代行者にして、この世界で最も力を持つ異能力集団……使徒の一員である。
「はあ、肩こっちゃった。早くお風呂入りたいなあ」
「……ソプラノ嬢はそればっかりだな。もうちっと覇気がねえと駄目だぜ」
「うら若い乙女が、なーんでこんなキナ臭い事しなきゃいけないんですかねー。さっさと魔族、居なくなんないかな」
「ディアボロさえ落とせば、この戦も終わるだろ……いきなりあそこを潰すのは流石に無理だかんな、まずはあっこと仲良くしてる所を潰していかにゃ」
「『白痴』、『赤爪』、『黒花』、『原初』。それに『無限』のクリステラ……あんなの相手にしなきゃいけないのかぁ……」
「勇者の娘っこが覚醒したら何とかなるらしいが……それにしたってあんなガキに頼らにゃならんのは、大人としちゃ恥だな……ったく、神さんも酷なことしやがる」
「……ムーの前ではそんな事言わないでくださいよ」
「わーってるわーってる……それで、ニーニーナは?」
「ローグ先輩にまだつき合わされてるんじゃないですか?」
「おーい、ニーニーナ嬢、わりい、今大丈夫か?」
「はーい、何、なんか用?」
ふっ、と。
虚空から、音もさせずに、その女は現れた。
「おう、おひさ。あのデカブツ、ようやっと倒したぜ。休暇くれてもいいんだぞ?」
「そーですよニーニーナさん。お休みください」
「アタシに言われても困んだけど」
「ちぃ……そんで? あの小僧はどうしてる? またぞろ面白ぇことやってるって聞いたが」
「面白くないですよ! あの人の所為で、こっちは散々尻拭いさせられてんですよ!?」
キャンキャン騒ぐソプラノを宥めながら、バッカスがニーニーナに再度問いかけると、意外な答えが返ってきた。
「……面白いと言えば面白いかも。あいつの間抜け面、あんたらにも見せてやりたかったくらい」
「……あん?」
「アビスからの報告、覚えてる?」
「あー……なんかイスタで失敗したんだっけか。まああいつも若造だし、いい経験に……」
「ローグも、そのナインって奴に一杯食わされたわ。見てた限りでは、偶然の要素も大きかったけど」
「え? ニーニーナさん、ローグ先輩がしくじったんですか?」
「うん」
「ええ!? 無事ですかあの人……っていうか、タイマンでローグさんに勝てる奴なんて……」
「あーうん、死んじゃいないよ。暫く動けないだろうけど」
「……どういうこった。ちっと話してみろ……ああ、落ち着ける場所のほうがいいな、ニーニーナ嬢、頼む」
「……その前にさ。ほら、後ろ見てご覧よ」
バッカスとソプラノは、その言葉に振り返る。
気付けば、戦場にいた数千の兵士がこちらに黙って頭を下げていた。
一斉に、乱れなく。
照れくさげにバッカスは頬をかき、ソプラノは、軽く唇に当てた指を、片目を瞑りつつ兵士達に向けた。
再度の鬨の声をあげる彼らを見やり、笑みを向けた後、彼らは振り向く。
その時には、もう、油断の欠片もない眼光をそれぞれの双眸は宿していた。
「じゃ、行くよ」
ニーニーナのその言葉が終わるか終わらないかの一瞬で、彼ら三人は、本拠地であるセネカの大聖堂の一角の休憩室に移動していた。
急に現れた彼らに驚くことなく、給仕の一人が彼らに紅茶を振舞う。
豪奢な装飾のなされた椅子に腰掛け、肩に手を当て、ぐるぐると凝りをほぐすような仕草をしながら、バッカスは問いかけた。
「……それで? 何があったって?」
「……その話をする前に、一つ質問」
「……?」
首をかしげたソプラノと、懐から煙草を取り出しつつ顎でこちらに促してきたバッカスに、ニーニーナは問いかけた。
――……あんた達は、死人が生き返ったって言ったら、信じる――?
――――――――
……最近、親人間派の奴らが勢力を増しているとは良く耳にしていた。
しかし、まさかこの時勢に人間がリール・マールの……それも、治安の悪いスリザに入り込むなどとは寝耳に水の話だった。
ボルトさんの指示はたった一つだ。
「このスリザに忍び込んでいる人間を、生かしたまま捕らえろ」
是非もねえ。
生きてさえいりゃ良いってんなら、こっちとしては願ったり叶ったりだ。
折角与えてもらったチャンスなんだ。
男だって聞いてるが構わねえ、一回人間の具合を試してみたかったところだ。
骨の一本や二本折れてたって別に良いだろう、息さえしてりゃあな。
……標的を見つけた。
聞いたとおりの風貌だ。
だぼっとしたローブに、中肉中背。何より人狼の雌臭い、その男。
オレみたいによっぽど鼻が利くやつじゃなきゃ分からんだろうが、確かに人間の臭いが僅かに混じっている。
何を考えてか、標的はのっそりと裏通り……態々人気のないところに入り込んでいった。
無警戒にちんたら歩きやがって。ここがどこだか分かってんのか平和ボケが、勉強させてやらあ。
お前のこれから先の人生、全てが授業料になるけどな。
……こういう仕事は別に初めてって訳じゃねえ。
右腕を振りかぶり、首筋に一撃。
ちょっとしたコツがいるが、こっちに気付いてない相手を昏倒させるくらい、朝飯前――!
人間の様に足捌きや履物に気を遣わなくても、自然に消音の役目を果たす肉球により音もなく背後に近寄っていき。
――トン、と。
素早く、力まず、丁度良い具合に手刀が標的の首筋に吸い込まれた。
――が。
「ふぃぃぃっしゅ、おぉぉん」
そう、間延びしたふざけた声が返ってきて、その男は振り返った。
……ああ、まったく聞いていた通りのツラしてやがる。
ヘラヘラしたニヤケ面に浮かぶ、鬱陶しくて、陰気臭くて、嫌悪感しか感じないその……顔に浮かんでいる真っ黒な二つの……!
「どちら様でいらっしゃいますかねぇ。ハトポッポ? にゃんにゃん? ……それとも、コンコン?」
――失敗した。この手応え……鱗……何故、いや。
自分は失敗した。
それを理解した瞬間、振り向いて逃げようとした、筈なのに。
体が……、動かん。動け、何故。
何で動かねぇ!
「もし。もぉーし最後のだったら、ちょぉーっぴり残念だなあ。ボルトきゅん、やっぱり僕のこと裏切っちゃったのかにゃぁー?」
ウチのボスを、知ってやがるのか。
「そうみたいね。子狐さんを泣かしたくはなかったから、大人の器量で我慢しよっかなーって考えてたんだけどなあ。こりゃもう……限界かなぁ?」
何故だ。
何で、何も言っていないのに……コイツは今。
「分かるさ。君みたいな、欲望に素直な人は……良く分かる」
……さっきのは間違いだった。コイツに感じたのは、嫌悪感じゃない。
いや、それもあるが、それ以上に圧倒的なこの異物感、毛が逆立ち、ゲロを吐きたくなるようなこの感覚は――。
「さて、そんじゃちょびーっと、僕とデートしてくださいな? ね?」
「は、は……は……はぁっ! はあっ! はあっ!」
否が応にも呼吸が乱れる、この感覚は。
――聞いてくれるよねえ……ナインのお・ね・がぁああー――いぃぃひひひひひひ。
――きゃははははははは!
――ぎゃっはははははっははははは!
恐怖だ。
――――――――
ダン、と。
アジトの一室で、狐人とリザードマンが向かい合っている机が、前者の両手の平による打音を響かせる。
己の放った刺客から連絡が途絶えたとの報告を受けたボルト・クラックスは、これまでナインに関する情報提供者であった目の前の男を呼び出し、事情を聴いている最中であった。
「どういうことだスケイル! アイツはただの人間じゃなかったのか!」
「どうもこうもねえや、ボルトさんよ。お前が失敗したってだけの話じゃねえか」
「な、貴様がそもそも人間がアグスタに入り込んでいると情報を……」
「俺は最初っから、あいつの動きを見張ってろとしか言ってねえよ。先走って全部おじゃんにしやがって、使えねえ奴だ」
そう言って、スケイル――無論、ローグ・アグニスの偽名である――と名乗ったリザードマンは席を立つ。
「こんなガキに任せたのが失敗だったぜ」
そう言い捨てて、躊躇なくその場から歩み去っていく。
単純な居場所はニーニーナが把握してるだろうが……この状況で奴がどう動くかが知りたかったってのに。
……っとに使えねぇ。
そう、ぶつくさと呟きながら、部屋の外へ出て行った。
「……ボルトさん、あいつこのまま帰しちまって良いんですか?」
そう問いかけてきた部下に対して。
「良い訳ねえだろう……店の外で始末しておけ!」
――何よりも、この発言こそがボルト・クラックスの一生において最大の失敗だった。
『白炎』は、己の敵対者――まして獣人などに、一切の容赦をしない。
その日、親魔族派最大勢力の一つである『狐』は。
ボルト・クラックスだけが何らかの利用価値があるかも知れぬ、とそれだけの理由で生かされたのを例外として。
皆殺しの憂き目にあった。




