世界
ホールズ。
この大陸は、そう呼ばれている。
というより、他の大陸は人間に知られておらず、外海より先がどのようになっているかを人々は知らないのだから、この世界、と言い換えてもいいのかもしれない。
ドーナツ状のこの大陸は、点在する島を除いて巨大な輪のごとく一繋がりとなっている。
内海及び外海に存在する島々へも大陸の随所にある港から出ている船の定期便で交流がある。
内海と大地の割合は7分3分といったところか。
その大陸の形状から、国から国へ移動するのに、陸路も海路も同じくらいの重要度である。
馬車が風を切って走り、船は風を受けて走る。
才ある者は魔力を用いて火を起こし、富無き者は大地を見ては小銭を探す。
人がいて、魔族がいて、獣人がいて、神は人を見守り、精霊は忘れられ。
弱肉強食があり、貧富の差があり、生まれ着いての差別があり、魔法があり、喜怒哀楽が人々に存在しているのであれば、運命という乱数は常どおり誰にも予測がつかなくなるもので。
安全神話は破られた。
長く続いた人間支配は破られ、今世界は魔族の手に落ちようとしている。
もう少しこの大陸の状況を噛み砕いてみるに。
まず、ホールズを時計に見立てて表してみると、主要な国々の配置は分かりやすいかもしれない。
二時から四時までの位置に経済大国インディラ。
四時から五時までの位置に世界宗教であるサリア教の総本山セネカ。
五時から八時までの位置に軍事国家フォルクス。
八時から九時までの位置に獣人部落リール・マール。
九時から十時までの位置に精霊守護域イスタ。
そして、十時から二時までの位置に、魔族領アグスタが存在する。
その他、内海の諸島や、各国家間などに小国が存在するが、ここでは割愛する。
そのうち、イスタの最北、アグスタとの境目にある「与えずの森」沿いの小さな村。
ナイル村、と呼ばれていた場所。
ホールズに住まう者は忘れまい。
この場所から全ては始まったのだから。
人々の間では、ファースト・ロスト……最初に失われた場所、と呼ばれている。
そう、既にイスタからリール・マールにかけて魔族は人間を排除し、インディラにおいては自治区の設営、経済特区化も進行している。
まあ、お互いに思惑はあるのだろうが。
……他の国の文化なり詳細なりについては、まあ、追々語ることとなろう。
ところで、世界宗教(この宗教以外を信仰するものは邪教徒と呼ばれ、迫害される傾向にある)であるサリア教の聖典によれば、この大陸、ホールズは神が創造したと言われている。
一日目、神はこの世に現れた。
二日目、足の踏み場を求め、神は大地を創った。
三日目、踵を滑らせ、大陸の中心部がへこみ、内海ができた。
四日目、自身の手足となって働く御遣いである、天使を創った。
五日目、大地に息吹を与えられ、木々が地を覆った。
六日目、己の姿に似せ、人間を創った。次いで、様々な生き物をあらわした。
七日目、疲れから休んでいた隙に、外海から悪魔が現れた。
もっとも、原典はとうに失われているので、これが正しいかどうかは誰も知らない。
ただ、周囲が信じるから信じる者もいれば、素朴な自然に対する敬愛心をこの宗教に当てはめている者もおり、金銭を得る目的で題目を唱える者もいる。
確かなのは、神の実在を疑う者はいない、ということである。
では、何をもってそれを確信するのか。
神は語らない。
超常者の例としては、イスタにおいては確かに精霊の実存があるとされているが、自然現象等の具現であると言われる精霊、それを操る術は最早失われていった技術であった。
天使を見た、という者はいる。
しかしサリア教徒の中でも余程信仰心がなければ見ることはできないといわれており、万人が信じるに足るものではない。
故に、神の実存を確信させるのは、悪魔の存在に他ならない。
「特に、現在のこの大陸では、神に祈るものの増えたこと増えたこと。死ぬ間際に祈ったって、神だって聞き流すだろうよ……人間はいつだって、追いつめられないと祈ることもできやしない。だからこんな様をさらすのさ」
「耳が痛いですね。ああいやいや、続きをどうぞ」
「……けっ、話が逸れたな。いい加減面倒だからここからは適当でいいだろ? 今更こんなことを聞くなんざ、世間知らずにも程がある」
「こりゃあ申し訳ない。育ちが悪いものでして。それに、確認したいこともあったもので」
「ふん、簡単に頭を下げやがって、性根が卑しい奴はこれだから……それにテメエは、イスタの生まれなんだろうが。精霊信仰者にとっては、神の下に精霊がいるってのも気に入らん話だろうに」
「別に僕は気にしませんが……ああいや、気を使っていただければ助かります」
「ふん? ……要は、悪魔呼ばわりされたオレら獣人や魔族たちが、世界を席巻しようって状態なわけだ。糞ったれな神様の鼻を明かしてやろうってな」
オーライ?
分かったら、さっさと皿洗いでも行ってきな!
タダ飯ぐらいの……それも人間なんか置いとくつもりはねえんだよ、ナイン!
いつだって、ここはお前にとっちゃ月のない晩なんだ。
忘れるな、オレは今すぐにでも、お前の頭に齧りついてやりたいんだからな!
人狼にして、魔王親衛隊の長であるガロンさんのそんな言葉を背中に受けて、僕はその場を逃げ出した。
魔族にもサリア聖典が伝わっていたこととか、中々興味深い話だったんだけどなあ。
僕自身はそんなに乗り気じゃなかったけど、聞いておいて損はなかったかな。
段々話に興が乗ってきてたくせに、照れ隠しで頭齧られちゃあたまったもんじゃないよ。
神様嫌いのあの方の機嫌も悪くなっちゃったし。
まあいいさ。
さあ、お勉強を兼ねた世間話も終わったし、仕事しますか。
皿洗いに、食材のお手入れ。
それが終わったら、敬愛する魔王様とお話して、それから妹様の遊び相手。
ああ、労働の喜び!
――魔族の下僕兼非常食。
それがファースト・ロストの唯一の生き残り、当年とって二十二歳。
いつでも厄年。
ナイン、と呼ばれる青年の境遇だった。