変身
ふと顔を上げると、一人のリザードマンの男性が、スリザの大通りをのんびりと歩いているのが視界に入った。
昼もやや過ぎた時分、誰も彼も腹くちくなった頃合。
人気の減ってきた道の様子を見ながら、コボルトの男……ディアボロが以前から放っている工作員は、ボルト・クラックスと接触する為に、茶店の軒先で待機していた。
道を行くそのトカゲ男が、あくびを交えつつ、肩口の関節が鱗同士が擦れ合う所為で軋むのを偶に不愉快そうに見やる以外は、特に不自然なところもない。
コボルトは、改めて手元の湯呑みに視線を落とした。
(……それにしても)
不可解だ、と思わざるを得ない。
男は何度もこの地に任務で潜入しているが、これまでは親魔族派が常に優勢を保っていたし、そうなるように過剰にならない程度の介入も行っていた。
本当に、この一年で随分と情勢は変わってしまった。余り声高に言うのは憚られるが、正直に言うならこちら側……魔族側にとって、悪い方に、だ。
これまではサジェスタ宰相の裁量もあってか、リール・マール全体……少なくともスリザに限って言えば明らかに親魔族派が過半数を占めていたのだが。
派閥のトップに居た古老が変死を遂げた辺りから、徐々に勢力図が変わってきてしまっている。
当然、あの恐ろしい宰相はその辺りを見過ごしてはいないのだが、本当に、徐々に、徐々に変化していくばかり。
自分達工作員が無能だとは思いたくないが、そうとしか思えない程に不可解で、緩徐とした情勢の変化であったのだ。
ただ、物事の全てには原因がある。
この、親人間派の増加には、必ず何がしか、人為的な操作があるに違いないと男は見ている。
そして、ここ一月ほどで、その違和感……現場にいる者にしか分からない不自然さが、強まってきている。
あるいは、この違和感の原因を突き止めれば、この情勢の変化を止められるやも。
……彼は、几帳面で、真面目な性質であった。
少なくとも、どこぞの世間ずれしたダークエルフとは異なり、待ち合わせに遅れるなど今までにしたことがなかった。
それは彼の仕事の性質を考えれば、当然のことではあったのだけれど。
いつもどおり書類等は早めに処理し、ボルト氏に渡す分も、受け取る書類の確認も済ませた上で、この場に臨んでいた。
彼との待ち合わせ時刻は二時間ほどあるが、既に昼食も済ませ、久方ぶりの休息を味わうことも出来ていた。
だから。
気を抜いてしまったのが、運の尽きであったのだろうか。
いつの間にか、店内にも、大通りにも、人っ子一人いなくなっていたことに気付くことが出来なかった。
しかし、それでも伊達にスパイをやってはいない。
自分の首に後ろから刹那の間で絡まってきた、ゴツゴツとした物に鎧われた腕に気付いた瞬間、彼我の力量差を悟り、歯に仕込んだ毒を飲み込もうとした。
しかし、それすらも厚手の布を口の中に放り込まれ、自ら死を選ぶことも出来ない状況に至り、彼は観念した。
楽には逝けない。
彼は、既にこの時点で自分の命を諦めていた。
「甘ったれてんじゃねえよ。簡単に死なすか、馬鹿が」
――その声に次いで、口内に手を突っ込まれ、毒を奪われた後。
布を引き抜かれつつ、舌を噛めない程度の力で顎を抑えられた。
「思ってたより話は早そうだけどな。まあ、分かるだろ? とっとと俺の望むことを話せ」
――乾いた声であった。
「……死ぬまで黙ってりゃあ、上出来ってのは……まあ、お前らみたいな使い捨ての奴らの基本ではあるわな。分かるぜ」
――淡々とした、冷えた声である。
「でもよ、俺のはちょっと痛ぇぞ? 早く死にたきゃ、早めに喋れな?」
――死に触れすぎた、残酷な声である。
――痛みに堪える訓練も乗り越えた彼は、己が絶命するまでに二十三回、「殺してくれ」と口にした。
秘密は守られなかった。
死体は残らなかった。
……これは、ナインがボルト・クラックスと接触する数日前のお話。
――――――――
「おい、ニーニーナ」
一人のリザードマンが、人気のない裏通りで、虚空に向けてぼそりと呟いた。
ただし、この男の名は明らかではない。この世にいないも同然の存在であるからだ。
「ニーニぃーナ! 聞いてんだろ、返事しろや!」
気でも狂ったのか、苛立たしげに誰もいない空間に向けて、再度呼びかける。
「何さ」
すると、だれもいなかった筈の空間に、ふわり、と女が突然姿を現した。
文字通り、突然、現れたのだ。何もないところから、さも手品のように。
そして、確かにそこにいるのに印象に残らない、不可思議な空気を持つ女だった。
「呼ばれたらさっさと返事しろよ、ムカつくだろうが」
「何でアンタの都合にアタシが合わせないといけないの」
ちっ、と舌打ち一つ。トカゲ顔のその男は言葉を続けた。
「工作員の一人を締め上げたら……中々強情だったが吐きやがった。ナインって野郎、スリザに来るってよ。流石は俺様だ、見事に釣れた」
「……自分の独断専行を正当化? これだから単細胞は……」
「うるせえ。元はといえばリリィがこっちで遊びすぎた所為じゃねえか。どうせ遅かれ早かれ、ここは獣人追い出して教会の坊主共のリゾート地になるんだ。俺は狩るペースを上げただけだしよ、結局やるこたぁ変わんねえんだからいーだろが」
「はいはい、そんで?」
「イヴの奴のスケジュールよか早いが、行きがけの駄賃だ。このままスリザ奪っちまおうぜ」
「……ふうん」
「ふうん、てなんだよ。ふうんって」
「だって、私にはどうでもいいしー」
「けぇっ、お前はそういう奴だよ、ああ知ってる。知っているともよ」
「……ま、いいか。ここは勇者ちゃんの都合に合わせるスジもないし。前倒しになるのは別に問題ないと思うけど……んで? アタシに何して欲しいって?」
「俺は魔族派の頭の、なんつったか……ああそうだ、ボルトとかいう狐の坊やに接触するからよ。ナインとやらの動きはお前が見とけ」
「はぁーあ? やあよ、めんどっちい」
「いーじゃねーか。お前の能力なら大した手間でも無いだろ?」
「……イヴといい、リリィといい。どいつもこいつも、アタシのこと便利屋かなんかと勘違いしてんじゃないの?」
「そんな奇跡を授けた神様とやらに文句を言うんだな。じゃあ、頼んだ」
「……貸し一だかんね」
「わーったよ」
余人に分からぬ会話をした後、男はその場から歩き去ろうとした。
しかし、踵を返した直後、女から言葉が放られる。
「……後、アタシの前ではその面やめな、ローグ。気持ち悪いから」
「はっ、使えるもん使って何が悪いんだか」
この男、リザードマンとしてはこの世において名を持たないが、人間時の姿であれば、知る人ぞ知る、というところであろうか。
人類唯一のドラゴンライダー。
十二使徒が第四位、『白炎』ローグ・アグニス。
それが、その男の名である。
「俺の可愛い相棒の変身魔法だぜ? 教会じゃあ確かに外法扱いだが、気持ち悪いってのは心外だ、なんならお前にもかけてやろうか?」
「アタシはトカゲが嫌いなの。でかけりゃ尚更鬱陶しい。ペットと戯れたきゃ、アタシの目の届かないところでやんな」
つれない言葉を残して、小生意気な同僚は姿を消した。現れた時と同様、音もなく、気配もなく。
「つまらねえ奴だ」
まあ、仕事はこなす奴だというのは知っている。
やると言ったからには、きちんと監視程度こなしてくれるだろう。
さて、と歩き出そうとした時、肩口に違和感を覚え、眉を顰める。
人間にはない鱗の所為で関節が軋むが、この場所にいる間は我慢するしかあるまい。
改めて……さて、じゃあ俺もちょっくら遊んでくるか。
仕事も殺しも、自分にとっちゃあ遊びの一つ。
アビスをからかってくれたって奴も、俺の暇つぶしになりゃ上出来だ。
精々あがいてみやがれ。
ナインとやら、ちっとは楽しませてくれよ?




