武器
お腹も満腹になったので、おねむの時間。
エヴァさんが奥の部屋に行こうとするのについて行こうとしたが、追い出されてしまった。
まあ、お布団とかは用意してくれたから別に良いのだけれど。
……さて、明日の準備して、さっさと休もう。
こんなに柔らかいとこで寝るのなんて、一体いつ振りだか検討もつかないや。ティアマリアの教会のベッドは貧相だったしね。
ウィルソンがいなくて少々物足りないが仕方ない、何か抱きしめられるものはないかな……と考えたところで、ガロンさんの餞別のことを思い出した。
頭陀袋のようなそれを使おうと思ったが、一度中身を確認しておいたほうが良いだろう。
布団の上に広げてみると、以下のようなラインナップ。
・厚手のシャツ(※)
・厚手のズボン(※)
・下着のシャツ(※)
・男物のパンツ(※)
・ハンカチ
・ティッシュ
・お小遣い
・絆創膏
・風邪薬
・おやつ
・レターセット
etc...
……一見、なんの問題も無いように見えるこの……この……。
いや、そもそもなんか遠足用のお出かけセットみたいな感じではあるけど、そこは大した問題ではないのだ。
(※)←これ。
お気付きだろうか。
気付くよね。これ見よがしだもん。
じゃあ、このマークが何を意味するかっていうと、難しいことではない。
問題は、何故付けたか、そして、これから僕がどうするべきかと言うことだ。
回りくどくて申し訳ない。僕自身戸惑っている。
予想はしていたが、まさか、と思っていた事態なのである。
……既に確認済みではあるが、検証する必要がある。真実を探求するには、再現性も重要なのだ。
自分の勘違いであって欲しい、と思いつつ、改めてシャツを手に取り、鼻を近づけてみた。
くんくん。
……ああ、やはり、と思う。
……おそるおそる、パンツも手に取ってみる。
それを掴む時、指先が震えていた僕を、笑わば笑え。
くんかくんか。
……ああ、やっぱり。
ほんのりとした、特徴のある香り。
最近嗅ぐ機会の多くなった匂いだ。優しくて、安心するガロンさんの匂い。
使用済み(※)でした。
「エヴァさーん、ちょっとディアボロ戻っていいっスか」
バタン、と彼女の寝所に繋がる扉を蹴っ飛ばし、無理やり開けた。
予想通り鍵がついていたが、そんなものは情熱に滾る今の僕を遮るになんの役にも立ちはしない。
「だ、誰だ!? 何事だ!?」
既に消灯し、布団から跳ね起きたエヴァさんが、胸元まで毛布を引き上げながら声を荒げた。
「いきなり何だ! き、君、何を考えている。まさか……夜這いか!?」
そのリアクションやめてくださいよ、なんかリアルすぎる。
ムラッと来ちゃう。
壊れて吹き飛んだ蝶番を横に蹴っ飛ばし、転移魔法陣を起動させるようお願いしてみたが、取り付く島もない。
「ちょっとばっかしやること思い出したんで、ディアボロに転移していいっスか?」
「いいわけないだろう。今更および腰になったのか? ……おい、おい待ちたまえ! そっちに行くな! 誤作動したら危険なんだぞ!」
「エヴァさん放して止めないで! あの色ボケわんこのケツを引っぱたいてやるんだ!」
かわいいけどさ! こわいんだよ!
限度ってもんがあるだろ!
「き、君が何を言っているか自分には理解できない……! いいから、分かったから! 話は明日聞いてやるから!」
「あのマーキングマシーン、一度ガツン、と言うか、ぺチン、とやらないと……」
腰元にエヴァさんが縋りついて止めてくるので、流石に乱暴に振り払うのはいけないと思い、彼女を引き剥がそうと目線を向けた。
毛布がずり落ちて、彼女の姿が露わになっている。
タンクトップに、パンツ一丁だった。
スケスケレースの黒だった。
「ねえ、いい加減にしてよ! なんであんた達はそう脱ぎたがるの! 宗教上の理由でもあんの!? 脱がなきゃ天罰でもくだるの!?」
「き、君に言われたくない! 自分はこうしないと寝られないんだ!」
「男が隣にいるって自覚しろよ! これ以上僕のピーちゃんを興奮させないでよ!」
「だから鍵をかけていただろう!」
「それはごめんなさい! でも放して! ガロンさんに一回キャン言わしたらなあかんねや!」
すったもんだの末、マウントを取られてまた顎を揺らされ、意識が暗転した。
これ以上お馬鹿になったらどうすんのさ。
……チュンチュン、と。
雀の鳴き声で目が覚める。
いつの間にか自分の寝床できちんと毛布を被っていたが、これはエヴァさんがやってくれたのだろう。
昨日のドタバタを思い出して、冷静になってしまった現状、やや恥ずかしい思いをしながら起き出すと、既に彼女が朝食の準備をしてくれていた。
「おはようございます」
「……おはよう。昨夜は、随分と早い就寝だったね」
昨日のことはなかったことにしてくれるらしい。
出来た人だ。
それでも少しばかり気まずい思いで朝食をもくもく食べていると、向かいのエヴァさんが口を開いた。
「……つい忘れてしまっていたんだが。一応、渡しておこうと思うんだ」
そう言って、エヴァさんは刃渡りが手の平ほどの長さのナイフを机の上に差し出してきた。
やや分厚く、切れ味鋭そうなそれを見て僕はやや肝が冷えた。
刃物ってやっぱり怖いよ。
だが、彼女の好意を無碍にするわけにも行かず、僕はそれを手にとった。
柄の部分に刻まれた紋様は、何がしかの魔力的要素でも組み込まれているのだろうか。
見た目以上に重く、それでいて窓から差し込む朝日を反射するナイフの銀色の刀身は、妙に艶かしく見えた。
「ありがとうございます、エヴァさん」
……これは、彼女の心遣いだ。受け取らないのは失礼だろう。
早速僕は、そのナイフで目の前のソーセージを切り分けようとしたのだが、エヴァさんに叩かれた。
この人、ちょっと気安く人に手を上げすぎじゃないかと思う。
「痛いんですけど」
「何をしている! それが何か分かっているのか!」
「ナイフじゃないですか。見りゃ分かりますよ」
「馬鹿者、それは毒殺用だ! そんなもので切り分けてみろ、口にしたら三秒でお陀仏だぞ」
うひゃあ。
「なんでこんなもん渡すんですか!」
「護身用に決まってるだろう」
「じゃあ、せめて鞘に入れてくださいよ! こんなもん抜き身で持ち歩ける訳ないでしょうに」
「あ……ああ、そうだった。いかんな、自分には毒が効かないからうっかりしていたよ」
頭をぽりぽり掻きながらそんなことを言うが、この人、結構抜けてるよ? 大丈夫かしら。
最初はクールな印象が強かったんだけど、最近はあのへっぽこ魔王の師匠ってのが説得力マシマシなんだよなあ。
こんな人にサンプル扱いされていたと思うとちょっと切ない。
「少し待っていなさい、鞘はどこにしまったかな……」
「普通、こんなごっついもんに鞘が無い訳ないでしょうよ」
「昨日慌てて作ったのでね。自分は刃物に関する心得こそないが、付与魔術は得意なのだ。一応自信作だぞ」
「毒殺用……ですよね。なんでこんな刀身が肉厚なんですか?」
「……? 良く切れたほうがいいだろう?」
「口に入れて三秒で死ぬような毒なら、軽く刺さる位ので良いんですよ」
「あっ」
あっ、じゃないよ。
「……ご厚意はありがたく頂戴します。ご厚意だけは」
「い、いらないのか? しかし、何かいざと言うときに武器でも無いと心許ないだろう」
「いりませんて。いくら治安が良くないからって、こんな大仰なの持ってたら、逆に怪しまれますよ」
「だが、身を守るためには……」
「いーりーまーせーん。僕、刃物とか嫌いなんですよ。食事用のは別ですけど」
「……無用心だな。よくそんな考えで今まで生き延びてきたものだ」
「どのみち、やることはスパイ行為じゃないですか。誰か殺さなきゃならなくなった時点で、僕の仕事は失敗ですよ。そうなったら、見捨ててやってください」
「……ふむ。まあ、君がそう言うなら仕方ないが。本当にいいんだな?」
「丸腰のほうが意外と安全かもしれませんしぃ。お気遣いなくぅ。使えない得物なんか邪魔になるだけですよう」
エヴァさんは、はあ、と溜息一つ。
「兎一匹狩れないと聞いているが……頑固なものだ。まさかとは思うが、今更血を見たくない、などという戯言は口にしないでくれよ」
「兎一匹狩れない男が、人も、獣人も。魔族だって、殺せる訳ないでしょう? 僕、臆病なもんで」
「……馬鹿が。ならもういい、渡さない。渡さないが、せめてこれだけは持って行きなさい」
そう言って、指輪を放り投げた。
「これは?」
「変化の指輪だ。一回きりの使い捨てだが、別人に化けることが出来る。まあ、体のサイズが違いすぎなければ魔族にも、獣人にも」
「……あざーっす」
「まあ、化けるといっても他人からそう見えるようになる、というだけのものだけどね」
……これは便利そうだし。貰っとこうかな。
あんまりタダで物を貰うのは、趣味じゃないんだけどなあ。
まだ、エヴァさんとは愛も契約も交わしてないしさあ。
……仕方ないか。死んだら元も子もないし、こんな所で死んでも、つまらないしね。
何より、あのわんこちゃんと約束してしまったし。生きて帰るってさ。
……マーキングの件は、仕事が終わってから追及するとしよう。
「ちなみに使い方だが、それを指にはめて、マジカル☆チェンジと叫んでくれ。その時に思い浮かべた相手に変身……」
「お前バッカじゃねえの」
目が覚めたのは昼前だった。
ただ、顎の痛みだけが確かにそこにあった。
折角僕にしては早起きできたのに。
結局、不貞腐れたエヴァさんと出かけて、スリザに着いたのは昼下がりになってしまった。
でも、あの発言に後悔はない。
僕は間違ってないと思う。
――――――――――
リール・マールの、スリザ、と呼ばれる街。
いや、この地域の慣習に倣えば、集落と言うべきなのだろうか。
サリア教によると、魔族達との戦争における最前線であった場所とも言われている。
かつて魔族はここを焼き払おうとしたが、人間に味方したエルフと獣人達が、人間と共に魔族の切り札の一つであった巨鳥「ヴクヴ」を打ち倒した伝説が残る地でもある。
そんな由緒ある場所で僕とエヴァさんは、茶屋の軒先に座り、この地の銘菓「小鳥饅頭」を頬張りながら、途方にくれていた。
「ねえ、エヴァさん」
「むぐ、なんだ」
「僕ら、こんなことしてていいんですか?」
「む、んく。良くはない、もぐもぐ」
「宿の手配は終わったって言っても、観光に来たわけじゃないんですし」
「んぐ、ごっくん。君な、人が口に物を入れているときに話しかけるものじゃないよ。自分は行儀に気を遣う性質ではないが限度がある」
「こりゃ失礼」
エヴァさんがお饅頭を食べ終わるのを待った上で、僕は再度声をかけた。
「正直、こんなことしてる場合じゃないでしょうに。もう待ち合わせ時間過ぎてますけど、ボルト君、いつになったら来るんですか」
「自分に言われても困るぞ。先に現地入りした工作員が手配してくれているはずなんだが……」
「ちゃんともう一回確認してみてくれません? 本当にこのお店なんですか?」
「なんだ、自分を疑うのか。そんなくだらんミスをこの自分がするわけないだろう。『午後四時に"いっぷく亭本店"で待ち合わせ』、間違いない」
「……このお店、店員さんの話によると南支店らしいですけど」
「……なんだって?」
エヴァさんはやおら立ち上がり、右を見て、左を見て、上を見て、また右を見て。
大きく『いっぷく亭南支店にようこそ!』と書かれたポップ広告をそこで初めて目に入れたらしく、大きく体を震わせ、再び座った。
彼女はやや俯いており、その表情は伺えない。
無言のまま、一分ほど過ぎた。
僕も、その間無言だった。それ以外に、何が出来たというのだろう。
……ぽつり、と。
その姿勢のまま、ようやく彼女は口を開いた。
「自分だって……間違えることくらい、ある……」
僕はそれに返事をせず、万が一にも周りに人間だとばれないようにフードを深く被りなおして、会計を済ませるために席を立った。
プライドの高い人種ってのは、なんでこう面倒くさいかな、と思いました、まる。
頭でっかちな人って、こういう融通がきかないというか、要領の悪い人いるよね。
おばかわいいけど。
昨日の言葉をそのまま返したい。
今までよく生きて来れたね、エヴァさん。
僕にばれない様に、必死に小さく鼻を啜るエヴァさんと一緒に地図を確認し、目的地に向かう。
本来の待ち合わせ場所の入り口では、苛立たしげに外を確認する一人の獣人少年と、その付き人らしき姿が見えた。
「やあ、遅れてすまない」
精神的動揺から復帰したらしいエヴァさんが声をかけると、その少年は黙って店内へ先導し、席に着いた。
店の奥、四人がけの席に向かい合って座り、ようやくお互いに挨拶ができることに僕は安堵した。
ボルト君のお付きの人だけは、彼の後ろに突っ立っているけど。
「それでは、まず改めて。遅れてすまなかったな、ボルト。隣がナイン。既に現地入りした者から聞いているだろうが、彼は……人間だ」
黙って頭を下げると、やや冷めた目で向かいの二人に見られる。
すぐに視線を切ったボルト君……人間で言うと十五、六歳だろうか。
魔族と違い、獣人と人間はあんまり寿命が違わないから、そんなに目測は外れていないだろう。
若いのにえらくしっかりした感じのその少年が、口を開いた。
「……お久しぶりですエヴァ様。アリスは……姉は元気にしていますか?」
「ああ、元気だよ。どうも自分は嫌われているようだがね」
よく言うよ。
アリスさんに聞いてるんだよ?
僕の監視をしてた時、いぢめられたってさ。ピーピー愚痴りまくってたさ。
貴女のこと、年増年増言ってたよ、あの子狐さん。
そりゃ、脅しなんかかけちゃ嫌われてもしょうがないよ。
「……そうですか。それでは、早速ですが。遅れた理由をお聞かせ願えますか」
「んむ」
「今回の件は、そちらから申し入れがあった事です。こちらの情勢が緊張状態にあることも知っているはずでしょう」
「ん、うん」
「理由なく遅刻した、ということは無いでしょうが、こちらとしても不安要素は排除しておきたいんです。もう一度聞きますが……何故、遅れたんです?」
はーい。君の目の前のおっちょこちょいが待ち合わせ場所を間違えて、のん気にお饅頭を頬張ってた所為でーす。
「……ディアボロの機密に関わることだ。悪いが、君らに明かすことは出来ない」
……目を泳がすこともなく、エヴァさんは真っ直ぐボルト君の目を見て言い放った。
女の人って怖い。改めてそう思った。
もちろん僕は、『よくもまあそんな事言えたもんだなこの年増』とか思ったけど、決して口には出さない。
生きていく上では、こんな事もあるよね。
智も働かさず、情も忘れて、意地も放り投げるべき家畜の身分である僕には、発言権などないと自覚しなければならない。
大人になるって しいことなの。
「そう、ですか。まあ……エヴァ様の言うことです。信用しましょう」
信用する相手、間違えてるよボルト君。
姉弟そろってお馬鹿さんだねえ。
騙される生き方だよ、それ。
うにゅう。
「では、こちらからも改めて、今後のことを……」
「待ってくれ。一応、彼からも挨拶をさせよう」
ナイン君、とエヴァさんに声をかけられ、もう一度頭を下げる。
自己紹介しようと口を開こうとした寸前、ボルト君に手で遮られた。
「結構。人間と口を利くつもりはない。名前が分かればそれでいい」
…………。
「おいおい。君の人間嫌いは承知しているが、そんな態度ではこれからの仕事に支障が出るだろう」
その言葉を受けて、ボルト君の狐耳が、ぴくり、と苛立たしげに痙攣した。
「エヴァ様。人間如きに何が出来るというんです。どうせ、そいつは釣り餌でしょう? ……アロマ様のやりそうなことだ」
…………。
まあ、可愛いアリスさんの弟君だし?
僕は大人だし?
こんな態度も大目に見てあげるっていうか?
鉄壁の笑顔は崩さなかったが、内心はチョベリバである。
エヴァさんは、ボルト君の態度が改まらないことに溜息一つつき、彼と今後コンタクトをとる方法を確認して、その場は解散することとなった。
流石に、こんな所で重要な情報のやり取りは出来ないということで、今後は僕一人で彼に会いに行くことになる。
これから何度か親人間派の情報提供を受けに、彼にお願いをしなければならないわけだけれど。
こんなんでやっていけるんでしょうかね。
なぁんて思っていたけれど……最後まで目を合わせてくれなかったボルト君。
別れ際に、こんな言葉を残していった。
「……メス臭いな。人狼の娼婦でも抱いてきたか? 下劣な人間が……恥を知れ」
…………。
…………。
……ガロンさんは、きっと、これを見越して臭い付けしてくれたんだね。
獣人は、鼻がいいから。僕のことが、人間だってばれないように。
うん、お尻ペンペンは保留にしておこう。
……まあ、それはいいとして。
……ガロンさんを。
僕の、お母さんを、娼婦呼ばわりしたね、こいつ。
…………。
死んでもらうか。
決ぃめぇたぁ。
アリスさんには悪いけど、こいつには死んでもらおっと。
……睾丸。
……耳介。
……眼球。
どこから抉ろっかな。
ど・こ・に・し・よ・う・か・な。
迷うこたぁねえ。全部にしよう。
苦しんでもらおう。苦しんで死んでもらおう。
「へへえ、ご慧眼で。不快な思いをさせてしまい、申し訳ねえでげす」
――はらわたを引きずり出してやる。
「口を開くな。情報が欲しければ、文書で持ってこい。こちらも文書で回答する」
――ケツの穴切り開いて、大腸引っ張り出して、テメエの口にぶち込んでテメエの糞食わせてやる。
「こ、これは誠にすみません、平にご容赦を……」
――貴様の神経ぶつ切りにしてやる。歯ぁ全部へし折って、ねじり切った貴様の指の爪で歯髄を弄繰り回してやる。
「口を開くな、と言うのが聞こえなかったか。度し難い屑が……」
――頚動脈に注射針ぶっ刺して、楽しげな噴水を作ってやる。お前が死ぬまでの鼓動の回数をカウントしてやる。
「…………!」
滑稽に、大げさに口を押さえて、そのまま店の机にガツンと自分の頭を叩き付けた。
これ以上ない、惨めな謝意をこれみよがしに見せ付けた。
「……はっ」
ボルト・クラックスは、そんな僕の姿を鼻で笑い、「ぺっ」と僕の額に唾を吐きかけて、お付きの者と一緒にその場から立ち去った。
――君曰く下劣な人間だって、怒るときは、怒るんだよお?
……彼らの姿が見えなくなってから、未だに頭を上げない僕に向かい、エヴァさんは申し訳なさげに口を開いた。
「……ナイン君、すまないな。彼は……と言うか、親魔族派の獣人は、得てしてああいった思想の者が大半だ」
「……まあ、予想はついていました。ここの人たちがどういう人か、早いうちから分かってむしろ良かったですよ」
「そう言ってもらえると……いや、言い訳にはならないな。すまない」
エヴァさんは大人だなあ。
貴女だって、下等な人間だって、僕に言ったじゃないですか。
本心じゃ、そんな事、欠片も思ってないんでしょ?
でも、それを表に出さない努力。それを、僕は分かってあげられますよ。
普通の人には、獣人には、魔族には。そんな物分からないでしょうけど。僕には分かっちゃいますから。
だからそれが、どんなに尊いことか、ちゃんと理解して差し上げられます。
今の謝罪、確かに受け取りましたよエヴァさん。
愛してますよエヴァさん。
だから、死体を作るのはボルト君の一人分だけにしておきますよ。
スリザの獣人には、皆死んでもらうつもりでしたけど、ね。
――危なっかしいわねえナイン。貴方、獣人も愛するって言ったじゃない。皆殺しとか、駄目に決まってるでしょ――?
ごめんなさいティア様……でも、僕だって殺すなんて一言も言ってませんよ?
死んでもらうだけですもん。
僕がやるのは、お膳立てして、死ぬのを見てるだけですぅ。
……エヴァさんはナイフなんか渡そうとしてたけど、生き物なんざ結局、死ぬ時ゃ死にますしね。爪楊枝の一本でもあれば。
――それにしたって、よ。私、絶息の後味悪さにはもう飽きたの――
……だって、ボルト君があんなこと言うんだもん。
僕だって激おこだよ。ぷんぷん丸だよ。
まあ、あんまり短慮に走るつもりもないさ。
さあて、まずはお仕事頑張ろっと。
……取りあえずは、エヴァさんが取ってくれた宿で、のんびりしよう。
先のことは、それから考えりゃ良いしね。
――全く。貴方って、ほんと昔っからおとぼけよねぇ……――
――――――――
――ナインと別れ、エルフの里の小屋に戻ってきたエヴァ・カルマは、己の魔力をゆっくりと眼球に巡らせる。
血管や神経を経由したそれら魔力は、着実に硝子体と水晶体に蓄積していき、その双眸をうっすらと輝かせる。
本来ヘーゼル色であった彼女の瞳は、暗い小屋の中で金色に発光し、周囲の物をぼんやりと照らしていた。
ゆっくりと瞬き一つ、彼女は空気中に常在するマナを伝い、サンプルに渡した指輪を介して浸透していく魔道の力を確かめた。
「――――、――」
意味が判別できないどころか、音すら聞き取れない不可解な言葉を幾らか発した瞬間。
彼女の視界は、現在自分が所在しているエルフの里の外れにある小屋の中ではなく、スリザにある宿屋の一室に切り替わった。
「……成功だな」
己の魔術が間違いなく効果を表したのに満足し、彼女は魔力を普段どおり循環させ始めた。
それに伴い、眼の発光は徐々に薄らいでいく。
――指輪の魔力探知も出来たし、居場所はこれで確認可能。
後は、彼の視界を通じて行動パターンを記録していくか。
内部へ魔力を浸透させ切るにはまだ時間がかかるが、さほど難しいことではない。
思考の調査は……距離が離れていて難しいが、彼が指輪をはめている限り指輪がその波長を記録し続ける。
解析は後でじっくりやれば良いだけの話だ。
今回の仕事をクリスから申し付けられた時、正直な話、渡りに船だと思った。
以前の賭けでは、あのサンプルの入手に失敗してしまったけれど、二度目のチャンスが回ってきたことに歓喜した。
以前あの人間に触れた時に感じた、あの違和感。
見た目は明らかに人間だし、魔力を微量に体内に伝導させた際の感覚も、人間以外の何者でもなかった。
なのに。
それなのに、今までの経験が、それを「断じて否」と否定するのだ。
あれは、人間ではない。
あんなモノが、人間であって良いはずがない、と。
こんなことは、自分の長い生の中でも初めてであった。
……自分は、魔道の探求に全てを捧げてきた。
例えば、動植物の仕組み。無機物の構成。
あるいは、何故星は空に瞬き、太陽は燃え尽きぬのか。
これらについて、分からないことは調べてきた。
興味を惹かれた物の内、大体のことは、思考、実験、考察、これらの繰り返しで解決を得てきた。
それでも分からなければ、現在のホールズを遥かに上回る利便性、汎用性を孕んだ学問……科学と呼ばれたそれら旧世界の技術資料を捜し求め、それらを用いて自分が納得できる回答を導き出してきた。
今までは出来ていたのだ。
思考に引っ掛かりがあれば、その絡まりをときほぐすだけの知識的土台は、既に自分は持っていると信じている。信じたい。
自分の人生はまさに、それだけに全てを捧げた祈りそのものといっていい。
興味のないことであればそれはそれで構わない。あるいは、魔力に関わること以外であったなら、と言い換えよう。
保留にすれば良いだけで、他に優先順位の高いものが自分には山ほどある。エルフ故の長い寿命が、それらをいつか解き明かすに違いないことが確信できる。
しかし、マナや魔力、魔石。これらは、旧世界の資料をいくつ引っ張り出しても、納得できる回答が得られなかったジャンルなのだ。
科学とやらにも頼り、調べつくしたのに。
――大気中へのナノマシンの散布による致死的傷害を受けた際の生命維持に関する研究。
――先天的に超常的能力を持つ小児に関する脳実質に関する研究。
――質量を持たず、微弱な生体電流に反応する大気中に常在する素粒子についての考察。
――ESP発現デザイナーベビーの破壊的意思がもたらす神経細胞の変質及び増殖並びに長期的に彼らに接触していた生物への影響。
――ホモ・サピエンスと定義される霊長類と同等の知性を持ちうる生物に係る民俗学的資料。
――超常現象の発生に寄与すると思料される、精霊等と呼称される存在に対する民間信仰の発祥。
……無論、理解しきれない内容もあった……その方が余程多かったが、自分にとっては門外の分野に至るまで調べつくしてなお、「魔術とは即ちこれである」といった結論を得ることは叶わなかった。
故に。
かつて自分は次のような結論を出した。
マナとは、大気中に常在する正体不明な存在。
魔力とは、生物が生まれながらに持つ、マナと深く関わる……神――滑稽だが、神だ。そうとしか言いようがない――が与えた不明な理力。
……魔術とは、そこに法則性はあれど、魔法・魔術の根源たるマナに対する明確な理論立てが不可能な技術。
例えば火炎を指先に発生させるためなら、一定の呪文、魔法陣、その他術式による手順を踏むべきもの。
……学問とは到底言いがたい、ただ「こうすればこうなる」という結果のみを求めるモノだと認めてしまった。
諦めてしまえば、その後の魔術に対するアプローチは非常に簡易なモノになった。
法則性を持つ以上、ある程度の整合性、蓋然性を満たせば、仮令マナという不可解な存在を介するにせよ、魔術は発動するのだから。
この魔術と言う分野に関しては、問題ない範囲でインディラに流した技術も含めれば自分が第一人者であるという自覚がある。人間らに至っては、魔力とマナの明確な区分すら理解できていない節がある程に、これらを厳密に研究することは難解だ。
だが無論、それだけで終わらせるつもりはない。
必ず、マナ、魔力、魔術。
これらの存在の全てを、この手で解き明かさねばならない。生あるものの根源に深くかかわるこれらを調べつくして、自分は……知らなければならないことがある。
そのために自分は、かつて白かったこの身が闇色に染まるほどに外道を働いてきたのだから。
……少なくとも、人体への魔力伝導だなどという基礎分野において、自分の中で不明な部分があってはならない。断じてだ。
――ナイン。
精霊に最も近しき場所で生まれ育った人間の、最後の生き残り。
資料が足らず、自分の理論に唯一組み込むことの出来なかった……「精霊」という存在。
その要素が加われば、あるいは。
マナ……そして、魔力と言う存在が、自分にとってより近しいものとなりうるかもしれない。
……自分は、解き明かさねばならんのだ。
少しでもいいから、役に立ってくれよ?
お前は、自分の可愛いサンプルなのだから。