僕の名前と、彼女の名前
とりあえずそんな経緯であった訳だから。
なあなあで済ませてしまうほかはない。
こっちだって、この男の首を飛ばして済ませられる話ならとっくにそうしているのに、クリスのお馬鹿……!
なんにせよ、とにかく目の前の人間から色々返させないと。
「……まあ、貴方だけを責めてもね。こうなってしまっては仕方ありません。とりあえず、陛下から取り上げたものを返しなさい。それで勘弁して差し上げます」
「うぇー」
「うぇー、じゃないでしょう。笑い事じゃないって、貴方だってもう分かってるでしょ? 貴方が陛下から奪った食器一つで家が建つのよ」
「あらまあ。じゃあ、このジャガイモもそんなに高いんですか? ここの物価は良く分かりませんねえ。食堂は無料ですし」
そう言って、懐からジャガイモを一つ取り出す眼前の男。
「そんな訳無いじゃない。貴方の冗談に付き合っている暇は……」
「だって、ピュリアさんとその位の相場で交換しましたが」
「なんですって?」
「『あー、それならこれ位が妥当やなー。これでもサービスしてんねんでー』『ウチも辛いんやけどなー、これ以上勉強したら破産してまうからなー』って。だからついつい、食費稼ぎに魔王様から沢山頂いちゃって」
「ちょっとピュリア呼んで来て」
「はい?」
「聞きたいことが出来たの。いいから今すぐ呼びなさい」
「はーい」
詳細は省く。
ただ、全裸で、こちらに尻を向けて四つん這いのまま痙攣するピュリアを尻目に、ナインとの話し合いが再開されたことだけが事実である。
「じゃあ、ピュリアの部屋から貴方が陛下のところに戻しておきなさい。これで話は終わりにします」
「仕方ありませんが、了解しました。僕も陛下からかっぱぐのは心苦しかったもので」
良く言うわ、この狸小僧め。
「ところで、ピュリアさんはそのままでいいんですか」
「いいのよ」
猿轡をされたままむーむー唸っているアホウドリは視線で黙らせた。
ケツの穴をこれ以上広げられたくないのなら黙っていろ、という趣旨の意図が伝わったらしく、震えがひどくなったけれど。
「できればこのまんまお持ち帰りしたいんですけど」
「正直は美徳ですが。女の前では自分の欲望を隠すのが紳士の礼儀よ」
「いやいや、まあ、確かに魅力的なお尻ではありますがね。そういう意味じゃなくって。流石に可哀想かなって」
「駄目よ。まだお仕置き……違った、お話することがあるから」
「これ以上苛めないであげてくださいよ、僕も一応詐欺の被害者でしょ? その僕がいいって言ってるんだし」
「五月蝿いわね、貴方の意見など聞いていないの。さっさと出て行きなさい」
「左様ですか。なら、陛下の持ち物は返すことが出来ません」
「なんですって」
「陛下は、僕との勝負でプライドをお賭けになりました。それを反故にしようって言うんですから、それなりの物を頂かないと、僕としても、ね」
「……それは、自分の立場を弁えた上での発言と捕えて良いのかしら」
「もちろん。奴隷で家畜で、弱い弱い人間の、ナインとしての言葉です」
「ならば、ディアボロの宰相アロマ・サジェスタとして、貴方に不敬罪を適用します」
そう口にして、アロマさんは虚空に向けて怒鳴った。
「アリス! 出てらっしゃい! こいつを拘束しろ!」
その言葉に反応し、僕には効かないからいまいち分からないが、きっと幻術を使っていたであろうアリスさんは部屋の隅から一歩前に足を踏み出した。
「アリス。この無礼者に枷を付けなさい」
アロマさんの、その言葉に。
「はい、ナイン様。アロマに枷を付けます」
「え?」
ガシャン、と。流れるような動きでアロマさんを羽交い絞めにしたアリスさんは、彼女の両手を後ろ手に拘束した。
こういうやり口は好きじゃあないけれど。
嫌いでもない。
都合が良かった、要はそういうことだ。
ティア様と契約済みの人を除いた上で、アロマさんと二人っきりになれる機会はそんなにないだろうから、賭けだの何だのこんなくだらない真似もさせてもらった。
とりあえず、いつまでも恥ずかしい格好を見せ付けられると僕も興奮しちゃうので、ピュリアさんの猿轡も解いてあげる。
今は、この女を、アロマ・サジェスタを屈服させる快感に興奮したいから。
「ありがとさんな、ナイン。お手柄やろ? な、ウチのこと、褒めて褒めて……?」
こんな下らない茶番の一角を担ってくれたピュリアさんの縛られた両手両足をほどく際には、お尻を存分に撫で上げてあげた。
「やあん」
……女性として、気安く他者に触れさせるべきではない部分に指先が近付くたびに、鼻息を荒くしてこちらにこめかみを摺り寄せるピュリアさん。
秘すべき窪みに触れた際は、尾羽をプルプルと震わせる様が愛しくて、愛しくて。
食べてしまいたいくらいに愛しかった。
濡れた眼で、男を虜にする女の眼でこちらを見やるピュリアさんから視線を切るのには多大な精神力を要したが、致し方ない。
あんまり長時間このままだと、ティア様も疲れちゃうだろうし。
ああ、でももったいないなあ。
普段のピュリアさんにこんなことしたら、殺されちゃうかもしれないのに。
もっとこのお尻、撫でたかったなあ。
自身の男性が疼くが、今はそれどころじゃあない。
ピュリアさんは、いつか食べてあげるとして。
今は、これで我慢しておこう。
ピュリアさんから分泌された何がしかによって湿り気を含んだ自分の指を咥えて、アロマさんに視線を戻した。
「さて、アロマさん。今はまだ、貴女の番じゃないんです。貴女の番じゃない。お前の番じゃない。順番さ、順番。貴様を食うのは、まだ先だ」
「な、何を訳の分からないことを……! アリス、冗談はよしなさい! 早くこいつを……もういい、殺せ、殺しなさい!」
「いいえ、ナイン様。アロマはまだ殺してはいけません」
「アリス!? 貴女、何を……!?」
会話が成り立っていない。
最も私に忠実な、私の手足であるアリス・クラックス。
その眼は…………違う、こんな、爬虫類のような眼は、あの子は、アリスはしていなかった!
「アロマ・サジェスタ。アロマ、アロマさんは、子羊さん。うん、そのくるくる角は子羊さんだな」
「せやな、子羊さんやな」
「はい、ナイン様。子羊さんです」
目の前の人間の足元に縋りついて言葉を鸚鵡返しにする自分の部下達を見て、アロマは総毛立つ。
この場にいる者は、自分を除いて、一人として正気ではない。
足元が揺らぐ感覚。
ディアボロの最高幹部の一人、アロマ・サジェスタが。
自分のホームである城の中で、身の自由を奪われて、人間に見下されているなど、正気の沙汰であるはずが無い。
「……前から気になってたんだよ。お前が僕を見る眼がさ。ゴミ屑を見るようで」
「せやな」
「はい、ナイン様。ゴミ屑です」
「大正解だよ、アロマさん。私めはゴミ屑でございます。お前の見る目は正しいよ。正しいよ。正しいよ?」
「せやろか」
「はい、ナイン様はゴミ屑です」
「人を見下すアロマさん。そんな事ができるなんて、さぞかし貴女は立派なんですよねえ? ご立派な貴女の中身、ちょっと覗かせて頂いてもよろしいでしょうかね? なあんちゃって、えっへへ」
「良い訳ないだろうが! 放せ、何を言うか、この下種が! アリス! ピュリア! お前ら、何をしているか分かっているんだろうな!?」
「…………口汚いな、いいなそれ。興奮する。そら、もっと、もっと中身を出しましょ?」
「うるさい! 貴様、人間ごときがこんな真似をして許されるとでも思っているのか!?」
「…………許されないんですか?」
「当たり前だろうが! 貴様、覚えていろよ! 楽には死なさんからな……!」
「えへへ、楽しみだなそれ。許さないってよ。ねえ、ティア様。子羊さんは、僕のこと、許してくれないんだってさ……」
そう言って、目の前の人間がへらり、と虚空に向けて笑いかけると。
「ぎゃっはははあはあああああああああはっはは! ハハ! はははあ!」
……どう表現すべきだろう。
水素と酸素の混合気体に火をつけたような。
焼けた鉄の棒を押し当てて、拷問したときの声のような。
パンパンに、これ以上の空気は僅かにも入らない、と言うほど膨らんだ風船に、針を押し当てたかのような。
……あるいは、赤ん坊が泣き喚くような。
そんな甲高い……甲高い?
いや違う、もう音のトーンすら把握できない、知性では理解し得ない狂気そのものを、笑いという形で、目の前の人間は放出した。
「許してくださいよお。許してくれなきゃ、ナイン泣いちゃう! ひっひひひ。許してくれないと、どうするって? ねえ、どうするのアロマちゃん! 僕をどうするって!? ひひっははあ!」
駄目だ。
こいつ、危険すぎる。
何が危ないのかは判然としないが、とにかく危険だ。
さっさとこいつを殺して……できれば、アリスとピュリアは殺さないよう、エヴァに引き渡すしかないか。
多分、洗脳されてる。
もしかしたら、エルちゃんもコレにやられているかもしれない。
エヴァに調べさせないと。
アロマは、風の魔術で目の前の人間の首を切り裂こうとマナを右手に収束させようとした。
はずなのに。
「な、なんで!?」
「『なんで魔法が使えないの』って? あったりまえじゃん。ここじゃあそんなもん使えないよお。もうここはティア様の場所。ティア様のテリトリー。ティア様のお腹の中。『まほう』なら、使ってもいいよーぉ?」
「な、な……」
「魔法だなんてそんな野蛮なもの、この世界には必要ないの。ほら、子羊さん。怖がらないで、僕に君の事、教えて? 君の中身、ほら、見せてよ、ね?」
「よ、よしなさいナイン」
ぴたり、と。
眼前の男は動きを止めた。
「……ナイン?」
「……!? あ、あなたは、ナインでしょう?」
「誰だっけナインって。なんですかそれ。そんな変な名前、ある訳ないじゃないですか」
なんだ。
こいつは何を言っている。
「僕、僕が、ナイン。ナイン? なんで、ナイン……?」
意味が分からない。
気持ち悪い。
両足はぶるぶる震えるし、空気が歪んで見える。
見慣れたはずのこの執務室が、いつの間にか変質していた。
皮膚は青色で、空気は黄色。
林檎は地面から空に落ち。
心臓が血液を消化する。
そして、目の前の男がこの場を全て支配する。
ここは、私の知らない世界だ。
「ああ、思い出した」
そう言って、私の目をじっと覗き込むその双眸は。
「僕の名前、もう無いんです」
中身が夜の闇で満たされた、真っ黒い、ガラス玉の様で……。
「ほら、子羊さん。貴方の目の前にいるのは、誰でもない誰か」
私は、私は。
「だから、貴女がずっと抱えてきたこと。辛かったこと。苦しかったこと」
私は。
「貴女が内緒にしていたこと。話しちゃっても、誰も咎めたりなんかしませんよ?」
私は。
「貴女の人生にずっとこびり付いていた罪悪感、ここで吐き出しちゃおう?」
私は。
私は、アルマイラ・ヴァーラ・デトラ。
「子羊さん。貴女の罪は、一体なあに?」




