震える子狐
――アリス・クラックスは、与えられた部屋の目の前で足を止めた。
右を見て、左を見て、もう一度、右。
誰もいないことを確認して、ゆっくりと、音が立たない様に、ドアを閉めた。
……今はもう、ナインの姿は見えない。
いつもの様に、懐のメモ帳を取り出して、机に向かう。
いつもの様に、ペンを取り出し、記録を書き連ねる。
観察対象、ナインは、危険人物である。
既にピュリアは洗脳されている模様。
アリス・クラックス自身にも詳細は不明であるものの、何らかの洗脳が施されている可能性が濃厚。
今後、私の発言は信用しないでください。
アロマ様、私を、殺してください。
殺してください。
殺して、誰でもいい、誰か早く、取り返しのつかなくなる前に、私を
そこまで書いた所で、いつもの様に自分の手は強制的にメモ帳を引きちぎり、魔術で燃やしてしまった。
次のページの、筆圧で潰れた場所も、徹底的に抹消した。
報告は出来ない。
もう、私はあの人間を裏切ることが出来ない体になってしまった。
ならば、せめてこの抵抗を続けよう。
気を抜けば、私はきっと、あの怪物にとって都合のいい事を書き連ねてしまうから。
こうして、あの人間にとって都合の悪いことを書こうとすれば、私の体は勝手に抵抗する。
そうすればアロマ様に何も伝えることが出来ない。
アロマ様ならば、それできっと気付いてくれる筈。
私が、貴女を、裏切っていることに。
私に出来る事は、怠慢だ。
怠慢を繰り返し、彼女の期待を裏切り、見捨ててもらう事。
それだけが私に残された、あの怪物に抗う唯一の方法なのだ。
そして出来ることなら、アロマ様に気付いてもらいたい。
私が報告をしないことが、出来ないことが、あの怪物の危険性を表しているのだと。
……でも、アロマ様に見捨てられるのは辛いなあ。
弟のボルトのこともお願いしているから、せめてあの子だけは独り立ちできるまで面倒見てあげてほしいな。
ああ、私、このままだと独りぼっちになっちゃう。
やだなあ。
……でも、大丈夫か。
あの怪物は、私をきっと、見捨てないから。
愛してくれるって言ったもの。
愛して、くれるんだよね。
貴方は、私のこと、最後まで見捨てないよね?
私は、一人じゃない、一人じゃない、絶対に、一人にはなりたくない……。
アロマ様。
怪物。
アロマ様。
人間、ナイン。
ナイン様。
ナイン様。助けて。
違う、アロマ様、助けて、助けて。
ナイン様が、私を、壊したの……。
助けて、アロマ様。ナイン様。
ああ、服従いたします、ナイン様……。
……駄目! そんなの駄目!
……もうやだ、こんなのいやだぁ……!
――また、アリスにとって長い夜が始まる。
ナインの掌の上に舞い戻ってしまった所為で更に勝率の低くなった、己を守る為の勝ち目の無い戦いに、彼女は埋没していった。