決闘の終わり
……アビスは、ふ、と一息、気取られない様に吐く。
この任務は遊びではない。それどころか、これからの人類の命運すら左右し得るもの。自分の立場を弁えなければならない、自分は昔のような……破落戸ではないのだから。
――余計な事を考えるべきではないが……昔の事を思い出す。故郷を失い、自暴自棄になって好き放題していた頃を。
今でこそ品行方正、使徒の鑑だなどと言われてはいるが、昔の自分が、いつか自身がその様な存在になるなどと言われたらどんな反応をしたものだろう。
きっと、そう告げた者を殴り倒していただろう。つまり、自分はそういう人格であった訳だ。
だけれども。
バッカスさんに拾われ、教育を受けさせてもらい、神の教えを賜り。自分の居場所を与えられ、戦う意味も、自分の存在意義も与えられた。
そんな中、神の啓示が、この卑小な身に下された。
『その拳により、他を守れ』
……なんと有り難い言葉であっただろうか。人を散々傷つけてきた自分でも、神は誰かを救い得る者になれると、そう仰ってくださった。
その日から自分は、一信徒としてのみならず、使徒としてもこの世に尽くすことが出来るようになった。
そして、サリーとも出会った。
勇者という役割……重責を、己の希望によらず押し付けられた彼女は、どれほどの不幸をその身に感じた事だろう。
だけど、いつかきっと。世の中が平和になったときに、自分の力がその一助になったという事実が、彼女を支える力となるだろう。……万が一そうならなかったとしても、傲慢であろうが……構わない。この勇者としての自身が全くただの重荷でしかなかったというなら、それは仕方がない。神は超えられる試練のみを与えるが、越えられないこともままある。
だとしたら、自分が彼女を支えるだけだ。
神は、人が互いに支え合うことも喜ばれる。たとえおせっかいだとしても、押し付けであったとしても……いいや、だとしたら尚更、自分は彼女の人生に責任を取る覚悟でやってきた。
そう、彼女のこれから先の人生に平穏を。
神の懐にある人々に、理不尽な恐れや死の無い世界を。
その為に、自分は拳を振るう――!
―――――――――
――アビスさんが、再び距離を詰めてくる。
当然だろう、こちらは腕一つ、向こうは腕二つ。近接で、それも全てが一撃必殺の威力を持つ以上、回転の速さこそが勝負を決める。彼にとっては当然の選択だ。
逆に言えば、自分がされたくないことを向こうは理解しているという事になる。
距離を取って、安全に、どうにか傷を受けず、考える時間と共に……そういった考えは、この条件下ではアビスさんにとって愚策であり、僕にとっては望ましい展開であるが、そう上手くいくはずが無い。
右の逆突き、払って肘で胸を撃つが躱される。即座にしゃがめば、頭の上を二撃目が走る。
一瞬の、空気の流れの違和感……左腕の尖った骨を真上に突き出せば、皮一枚がそこに触れる感触。おそらくは、頭を狙った鉄槌打ち。
立ち上がり様、背中を相手に触れさせての震脚。この衝撃で僅かな距離でも稼げればと思ったが、跳び退きと同時の蹴りを避けた所為で、姿勢が崩れてイーブン。
そして、再度の接近――駄目だ、引きはがせない……!
――向こうは純粋な戦闘特化、その上百戦錬磨。
こっちは、与えられた強化と工夫で、足りない経験を補わざるを得ない立場。
追い詰められるのは当然だけれど……実際必死な訳だけど、なんだろう、この充実感。
いろんな殺し方が、頭に浮かび上がる。どう動けば、どう向こうが対応するか。
向こうが僕をどんな風に痛めつけようとして、それをどう捌くか。それらが自然と手足に伝わって、僕の体を動かす。
……ずっと考えてたんだ。殺し方の色々な方法。誰かを殺すのを、僕はずっと我慢してた。
軽蔑の目で見られるのは嫌い。
一生恨む、と言われるのが嫌い。
そんな事ばかりされてきたから、僕は鏡のように彼らに殺意を向けてしまう。
どちらが恨みが深いか、比べられるものならやってみたい。
どう痛めつけてやろうか、どんな殺し方をしようか……考えちゃいけないって分かっていたけど、自分が悪いんだからしょうがない……っていう風には、どうしても納得できなかった。自分がこんな目に遭うのも、自分が悪いことしてるからだ、したからだって、何度も何度も考えたけど。
……それじゃあ、心がもたなかった。
気が付くと、自分で自分の首を絞めようとする手。顔を掻き毟る指と爪。足の甲を踏みにじる、もう一方の足。息を止めて……目の前が真っ白になるまで耐えてみたりもした。
気が付いた。自虐だけでは耐えられない。他人からの悪意は、とてもとてもそれだけでは……。
自分をごまかすやり方は、一つじゃ足りない。自虐や内罰で足りないなら、それは外に向けなければならない。
だから鏡になった。
しまいには、それ以上に悪意を返すことで、何とか正気を保っていた。
そうさ。僕はいくらでも他人を恨める、誰かを憎める。
いろんな……死体も見てきた。ああ、こういう風に死んだのか、殺されたのか。成程、こういう風にやられたんだな。いいや、僕だったらこうする……なんて、考えた。
殺される様子も見てきた。あのくらい体格が良くても、成程、あそこを殴られたら死ぬのか。あれだけ技術があっても、足元が疎かなら不意を打たれるのか。ならこういう風にすれば良かったんじゃないかな……? なんて、考えた。
何せ、ヒトを解体した経験だけは……その行為の際の真剣さと切実さは、僕は誰にも劣っていない自信があったから。多分この分野では、そんじょそこらの町医者が裸足で逃げ出すくらいに精密なイメージを持つことが出来た。
殺されないようにするためのイメージ。殺すためのイメージ。
隙を突く方法。腕力で勝る場合、劣る場合。正面から行っても、目線で騙す技術も存在する。
重心の位置は、前後上下左右、骨格上どこが適正か。正道、邪道、場合によっては、どちらが有効か。
……人を殺さないのは当たり前だ。でも僕が生きてきた世界では、結構簡単に人は死んだし、殺された。
殺されない為には、殺してもいいんじゃないだろうか。
殺したい。でも、殺しちゃいけない。
倫理が邪魔をして、だけど溜まった悪意は殺意に代わる。
……結局それは、魔族に向けることにした訳だけれど。
今この場に至って、僕はアビスさんだけに向けている、訳だけど。
……殺しちゃいけない、彼を殺したら勇者ちゃんも結局殺すことになってしまうと分かっているから、だけど、チャンスが見つかるまでは殺す気でいかないと、やられてしまうから、全力でこちらも殺しにかかっている訳だけど。
何故か……自分のあらゆる殺害手段が受け止めてもらえるのが、楽しかった。
今までの自分を受け入れてもらえているようで、ほんの少しだけ……嬉しかった。
でも、こんな時間ももう終わりだ。
結局、地力では負けている僕が、彼を追い詰めることはできなかった。それどころか。
……弱い方が、強い方に追い詰められるのは、当たり前の話だ。
――今みたいに。
――アビスさんが放った、失った左目の死角から来る裏拳、喉への指突、次いで鎖骨への肘、それを隠れ蓑にした更なる一撃。避けて、避けて、そして。
腕を失った為に防御手段が少ない僕にとっては、この回転の速さにはついていけなくなるのは当然で。
大技を使ってくれない以上は、机上遊戯の詰めのように、僕は目に見えた敗北に向かって進んでいくこととなる。
ほら……避けきれない。
左側の、見にくく、防御しづらい所へ。絶妙なタイミングで放たれた、貫手の一撃。
……肋骨の隙間を縫って、肉を抉って突き込まれたその一撃によって、肺に衝撃が走る。
「……勝負ありだ、ナイン」
そのまま、アビスさんは。
――僕の肋骨一本を握り、それを抉り取りながら、引き抜いた。
だらだらと流れる、脇腹の穴からの血。やっぱりこの液体は大嫌いだ。だけど、今は色もよく分からない、黒い水でしかない。気にしている余裕もない。
だから僕は、彼の足元に膝を付き項垂れて、彼に向かって、正直に敗北宣言をする。
「……お、見事。この勝負は……貴方の、勝ち、です」
……一対一の戦い、生まれて初めての、本気の本気での、全力の殺し合い。
楽しくて、それが本当に楽しくて、だからそれを汚すのは僕自身とても残念であったけれど。
僕は弱いから。
誰かに助けてもらわないと、何もできないような弱虫だから。
……だけど、僕より弱虫な奴を、守ってやるって約束しちゃったから。
「……でも、……け、決闘の結果は、……引き分けだ。何せ……」
――だから、誰かの手を借りる。
「……今回は、僕の反則で終わる。貴方の命は……僕が預かる。戦利品は無しだ、申し訳、ないけれどもね……」
「――っ!」
アビスさんは、一息で僕の頭蓋を破壊にかかるが、もう遅い。その体勢、右足が使えない貴方では間に合わない。
脇を抉られ、血も足りず、手足ももう動かない。
人間が人間として、動作できる限界を超えたからこそ発生した、一瞬の油断。
そして、アビスさんが逃げきれないこの距離。
全て……僕の、計算どおり。
本当にごめんねアビスさん。なんか恥ずかしいんだけど、殺し合ってるときの貴方の表情は……結構僕さ、嫌いじゃなかった。
だから……こんな結果で終わらせて、ごめん。
……息も絶え絶え、僕はアビスさんの顔を見上げ、囁く。
僕の中に残った、最後の欠片。僕が僕として生まれ、僕として生きることとなった根源。
――最後の『記憶』を、吐き出す。
「――『グリーンヒル家の三代刃』」
……僕だけの、古今東西において僕だけが使える『まほう』。その一言と同時に。
僕の左の空いた眼窩から、小さく一本。トニーのもの。
失った左腕、その突端から、継ぎ足されたように太く一本。トニーの爺ちゃんの奴。
……最後に僕の、先ほど抉られてぽっかりと穴が開いたわき腹から、細く一本。トニーのお母さんであるフィナさん……ティナさんの双子のお姉さんの、骨。
それらを、ティナさんの記憶を依代に呼び出す。
一人分たりとも無駄にせず、僕は、彼らがこの世に存在していたその証左……残滓を喰らい尽くした。
都合三人分の鋭利に尖った骨が刹那に飛び出し、アビスさんの左上腕部、残った左大腿部、そして僕を絶命せしめる為に振るわれた右手に突き刺さり、彼に押し殺した悲鳴を上げさせて。
……それのみに留まらず……アビスさんの肉の中で……海栗か毬栗のように先端を弾けさせて、食い込み。
彼の口から、聞くに堪えない絶叫を発生させた。




