我欲他欲
……勇者がクリスに翼を当てた瞬間、辺りに充満していた彼女の魔力が、息苦しささえ感じさせたその圧力が消えた。
あの翼が、クリスを無力化したのは間違いない。だとしたら、先ほどまでクリスの攻撃を無効化していたのも……詳細は分からないが、あの翼によるものだろう。
……僕はどうしようもない馬鹿だ。
偉そうに、何が仮説だ。見当違いも甚だしい、まるっきり逆だったんだ。
完全に勘違いしてた。盾が勇者で、矛がアビスさんだったんだ。
魔王を倒しうる強者、それこそが勇者だなんて、そんな先入観で、どうしようもなく判断を誤った。
正攻法でクリスを倒す事なんか絶対に出来ない。なら、彼女の強さを奪い取る、あるいは消し去る手段を持つ者こそが勇者の条件だったんだ。
今更ながら、さっきのアビスさんの……僕の接近を警戒した態度にも得心が言った。僕の仮説は完全に間違っていた訳じゃない。
勇者はきっと、僕でも……誰でも殺せる。そしてそれを防ぐための存在が使徒アビスだ。
魔王に勇者と言う毒を届かせるための護衛であり、そこまでの障害を取り除くのが彼の役割だったんだ。
……身のこなしを見ても、勇者は大した戦闘能力なんか持っちゃいない。さっきのクリスへの接近だって、アビスさんの神がかった速度がなければ成功しなかったはずだ。
かつてティアマリアで聞いたことのある、勇者の強さについての風聞。あれは真っ赤な嘘だったんだ、あんな些細な風説すら利用したっていうのか。いや、これも考えすぎとは言い切れない。
魔族側の耳に入って、勇者の単純な戦闘能力のみに人間が頼っていると思わせ、実際の勇者を目にしたときに油断させる、そんな策。
そこまで人間達が考えていたというのなら……。
……勇者の存在は、クリスを殺すための前提条件でしかなかったんだ。不完全な、弱い勇者だからこそ僕らは皆油断して、ここまで間抜けにも迎え入れることになってしまった。
まさしく毒……あの勇者ってのは、魔王を殺害する事に特化した毒薬だったんだ。服毒を許したのは、僕らディアボロ、全員の慢心だ。
これは、英雄が悪の権化を倒すという話じゃない。そんな綺麗な話じゃない。
暗殺者の一刺し、それだけの為に人間は準備をしてきていたんだ。
……畜生、どうする。
流石にこんなの想定してない。援護も見込めない、最悪だ、クソ、向こうの前戯が上手過ぎる。
例え戦闘開始時点でガロンさん達が居たとしても、こいつらは何が何でもクリスを隔離し、追い詰め、始末する策を用意していたに違いない。
高速で思考が空転する。時間がない、ない、ない! ないんだ!
奴らは今にもクリスの首を落とす、もう一秒の余裕もない!
どうする、どうするんだ。
このままだと、ほら、あのクリスが、傲慢なあの女が……殺される。
そんなこと、認められない――!
――なんでそんなに必死になるの――?
「……っ」
未だに緊張感無くそんなことを言うティア様。
彼女の言葉に、既に色を認識しない僕の目の前は、真っ赤に染まった。
――――――――
「ふぅっ! う、上手くいきましたねアビス様!」
全力疾走の余韻で未だに息が上がっているサリー。彼女が無事であることを横目で確認し、表情に出さないよう注意しながら胸をなでおろす。
ボク達は成功した。魔王を始末するにあたり、最も困難であった『始原の翼』をぶつけることを成し遂げた。
……最初に聞いたときは半信半疑であった、魔力の消失現象。
何度実験を繰り返しても消えなかった不安が、今ようやく晴れていく。自分たちの勝利は既に確定した。水銀の魔女の……あの胡散臭い女性の理論通り、魔王がその魔力を失ったことを、しっかりと確認できた。
棒立ちとなったクリステラは、既に声も出せない様子で自分の両手を戦慄かせ、見開いた眼で己の手の平をじっと見つめている。
……怖いか、クリステラ。無力な存在となるのは、恐ろしいだろう。人間は、ずっとその恐怖に怯え続けてきたんだ。貴様の手から零れ落ちたのは力だ。貴様を魔王たらしめていた、力そのものだよ。
……信じられないだろう、クリステラ。これがボクらの、人間の奥の手だ。君から魔王としての力をたった今奪ったサリーの存在こそが、人間が、貴様を殺害する為にずっと温めてきたナイフだ。
人間は、お前という邪悪を消す為に、ずっとその刃を研いできた。
……勇者と呼ばれる素質、つまり魔力を打ち消す潜在能力があった為に故郷から攫われてきたのだとサリー自身から聞かされたときは、教団の存在意義すら疑った。事実、彼女の自由意志すら奪ったその行いは正義とはかけ離れていると今でも思う。
……しかしこの身は彼女に同情し、上層部に反発しながらも、魔王を滅するためにその方針に従った。
結局たった今、ボクら人間は……いいや、ボクは。サリーを道具として使った。使ってしまった。
それを否定することはできないし、するつもりもない。
だけど、それでも手に入れたいと思ったんだ。
夫を失った母子が、畑を守る農民が、神に必死に縋る良民達が。彼らが魔族らに怯えずに済む世の中を、何があっても手に入れたかった。
……最後の一撃、ボクは、今から魔王の息の根を止める。
サリーの手を汚させる訳にはいかない。彼女は、これまでの不遇に倍するほどの幸福を得なければならない。彼女がこれから送る素敵な人生には、ボクらのように血に汚れた手は似合わない。
すう、と、息をゆっくり吸い込む。
ようやくだ。ようやくこれで……。
「……これで、ようやく仇が討てるよ、皆……」
使徒としてではなく、ただのアビス・ヘレンとしての呟き。
今回の作戦を聞いた時から、もしクリステラが降伏を受け入れなかった場合……戦闘に移行し、そして勝利した際のトドメだけは、魔族に殺された故郷の人たちの無念を晴らすために捧げようと考えていた。
……天上高くおわす神に、邪悪を滅する際に私欲をまじえることを深く懺悔する。
(神よ、お許しください。そして、お喜びください。今、貴方の怨敵がこの世から退場します――)
魔王の生に幕を引こうと、ボクは右手を振りかぶった。




