レイジーダンサーズ
「なんだい、ありゃあ……」
サリーちゃんの背中から、これ見よがしに生えている羽根を見て、最初に感じたのは嫌悪感だ。
気に食わない。あの翼は……気に食わない。
ピュリアさんとか、エルちゃんとか。ああいうのは良いんだ。自然だ。しっくりくる。
人間が、そんなものを生やすな。人間が天使の真似事をするだなんて、許されてたまるもんか。
それは……クリスに対する冒涜だろうが。
獣の要素も無しに、あんなもん生やしていいのはクリスだけだ。世界で一番美しいクリスだけだ。
僕の愛しい魔王、一番大切な僕の仇のその象徴を……貴様なんかが。貴様なんかに……!
「恥知らずめ、なんだそれは! クソッタレが、引き千切ってやる……!」
自分でもなんでこんなに腹が立つのか分からない。分からないが、ムカつくものはしょうがない。
この殺し合いの場は彼らが作ったものだ。なら、ここにいる僕だってそこに混じるのはおかしいことじゃない。
我ながら愚かだが、彼我の差を弁えず、なりふり構わず勇者に向かって突っ込もうとした。
しかし、そんな間抜けな僕に向かって、待ったをかけたのはティア様だった。
――よしなさいナイン。ほら、右手の方をご覧――
「あぁン……?」
――使徒アビスの、あの目をご覧。少しでも勇者に近づこうものなら、彼にバラバラにされるわよ――?
……ティア様の言葉に従ってアビスさんの方を見てみる。
ああ、確かにありゃあ、そんな感じだ。勇者の犬を望んで演じていやがる。似合いもしないのに。
迂闊に近づいたら噛み殺されそうだ。
僕と彼がこのまま戦えば、象と蟻が喧嘩する以上に明白な結果が待っている。
何せ象は、目に留まらないような小さい存在に殺意なんか抱かないが、今のアビスさんは獅子の如くだ。全力でか弱い僕の五体を引きちぎりにかかって来るだろう。
仕方ない。奴が犬だと言うなら、僕だって犬にもなろう。クリスへの忠義の程を示しておこう。
……内心でそんな負け惜しみを呟きながら、クリスの横に下がる。
魔王と従者、勇者と従者。十歩ほどの距離を置いて、向かい合うこととなった。
「……ナイン。先の呼び捨ては後で仕置きする故、覚悟しておけ」
「うへえ」
相も変わらず僕の主人は手厳しい。そして狭量である。
しかしそんなところも可愛らしい。僕がこの手で殺すに十分に値する。
だからこそ、こんなとこで、あんなぽっと出のガキに殺らせる訳にはいかないのだ。
「さて、作戦会議ですクリス様。どうしましょう」
「貴様に何が出来るというのか」
……クリスはほんとに手厳しい。だけど、動きを止めている以上、クリスも勇者の変化を警戒……とまでは言わないが、訝しがっているのは確かだろう。
「先ほど僕が勇者の元に向かおうとしたとき、使徒アビスは僕に殺気を向けました」
「それがどうした?」
「クリス様を害し得るという自信の元、奴らはここに来ています。なのに、僕ごときを警戒しました。つまり、例え僅かな可能性であっても、僕は勇者に傷をつけられる可能性があります」
「……ふむ?」
「こんな仮説を立てました。勇者は、クリス様に届く牙を持っている。ただし、肉体自身はさほど強靭ではない」
じわりじわりと、アビスさんがこちらに飛び込んでくる機を計っているのが分かる。首の後ろ辺りがぞわぞわする。あんまり時間もなさそうだ。さっさと結論だけ言っとこう。
「おそらくアビスさんが盾の役、勇者が矛の役でしょう。であれば、僕が囮になって……」
「くだらん」
僕が必死こいて考えた案は、言い切る前に一蹴された。
クリスは全く短慮である。僕なんかに講釈を垂れられたのが気に食わないようだ。
故にやっぱり愛おしい。
折角だから、僕が囮になるなんて心配なんだと、そう、クリスがツンデレかましたもんだと勝手に喜んでおこう。
「いかなる手段によっても、余を傷つけられる者などいない」
ならばやることは一つだ、と一言。
「策と言うものはシンプルであればあるだけ優れているものだ。『見えざる指』で足りんなら、もう少し美味い一撃を喰わせてやる」
そう言って、クリスは右腕をふんわりと真上に伸ばす。
その腕を、風を切るように、まるで天上に住まう超越者に命じるかのように、傲然とそれを振り下ろした。
「潰れ散り去れ、『破神槌』」
今まで指先の動き一つで床を抉っていたクリスが、この戦いにおいて……いいや、僕の見る限り初めて、魔術の詠唱を行った。
それがどれほどの結果を生むか、僕は目の当たりにすることとなった。
彼女の詠唱と動作は、優雅だった。
しかし、その効果は優雅とは対極にある。
ぺちゃんこだ。それ以外に言いようがない。
音一つさせず、僕の立つ地面に衝撃一つさせず、だけどアビスさんたちの立っていた辺りに不可視の衝撃が叩き付けられ、いくつかの柱ごとぺちゃんこに……圧潰の極みとなった。
もうもうと舞い上がる、砕けた岩盤の末路だけが、一瞬前と今の光景の違いを明確に区切っている。衝撃がなかったその事こそが、この結果がどれほどの異常であるのかをいやでもこちらに理解させてくれる。
「……いかん、柱を巻き込んでしまった。これでは修繕に時間がかかりそうだ。またアロマに怒られるな……」
そんなことを呑気に言うクリス。気負いがない言葉。
……この非現実は、どこまでも彼女の現実に寄り添っているのだろう。
……ああ、だとするなら。
彼女には、他の者とは見える景色が違ってきてしまうんだろうなあ。
それはきっと、ちょっとばっかし、寂しい事なのかもしれないなあ……。
――あら、気を抜いていていいの――?
「っ、クリス様。まだ油断なさいませんよう」
「んむ? 何を言って……!?」
……舞い上がった、砂煙の向こう。大した距離でなくても姿を見失うほどの煙幕が少しずつ晴れ、そこには先ほどと一切姿勢を変えることなく、二人の人間がこちらを真っすぐ見据えて立っていた。
「……おいおい、おいおいおいおい。あれで生きてるってどういうこと……?」
避けたのか? いや、あり得ないだろ。彼らは一切動いていない、それは間違いない。
だとするなら、あのクリスの絶対的な破壊を、あの二人はものともしなかったこととなる。
「……無礼な!」
呆然とした僕を放って、クリスは次の魔術に取り掛かっていた。
「余が死ねと命じたなら、死ぬのが道理だ。この、不心得者どもが……!」
「神を気取るな、魔王! 貴様の命令などに人間が屈することはもうない。この先、これ以降の歴史で、そんなことは二度と起こらない!」
アビスさんの言葉に、クリスは己の美貌を怒りに歪めた。
神に等しい力を持つ彼女の右手が、その怒りのままに鉤爪の五指を形作り、今度は真横を薙いだ。
「一切合切分かたれよ、『断空界』!」
クリスが吠える。
部屋の壁にはアビスさん達による空間隔離の所為か傷がつかなかったが、彼女の指の軌跡、その延長線上を恐ろしい勢いで衝撃波が走った。
僕がその技の対象となっていたなら、間違いなく等身大のだるま落しが一つ出来上がっていただろう。
「な……馬鹿な! 何故だ、何故死なない……!?」
しかし、彼らにはそんな結果が起こらない。
まるで魔王の暴虐をあざ笑うかのように、魔王は勇者に倒されるのが予定調和だと言うかのように。
彼らは傷一つなく、身じろぎ一つすることもなく、魔王の、おそらくは全力の殺害魔術をやり過ごした。
怒りか、焦りか。
ついにわなわなと震えだしたクリスに向かって、声をかける。
……未だに僕は、クリスが負けるとは思っていない。しかし、今の状況はよろしくない。頭に血が上った状態での判断は、一つも良いことを生まないのは、さっきティア様が僕を制止した時に思い出している。
どちらかと言えば、僕は相手を動揺させてどうこうする方が得意だし、彼らの動揺を誘っておいた方が良いのは間違いないだろう。
クリスのプライドに障るだろうが、ここは少しばかり手出しさせてもらいたい。
「クリス様……今の状況は異常です。あれだけの攻撃を受けて奴らが無事であるカラクリを解かないと、このままでは……」
……力押しではちょっと対処できないかもしれないから、少しだけお邪魔させてほしい。
そう進言しようとした僕の顔に、魔王の裏拳が飛んできた。
「やかましい、鬱陶しい! 差し出がましいわ! 貴様ごときが口を出すな、人間の分際で!」
……全く相変わらずのクリスである。いい加減僕も怒りたくなってきた。
無様に尻もちをついてしまい、くらくらした頭を抑える僕を尻目に、クリスが更なる追撃を加えようとした。
……効きもしないものを、追撃と呼んでいいのなら、それは追撃のつもりだったのだろう。
しかし当然、アビスさん達はいつまでも黙って受けてくれる訳でもない。
二人がクリスの傍に向かっていくのを見て、そして、今日何度目かの悪寒が背中を走った。
……彼らの目に、明らかな狙いがあるのを見て取れたからだ。何か、クリスにとって致命的な何かをするつもりなのではないだろうか……?
何か、良くないことが起こる気がする。クリスが危険なのだ……あの魔王クリステラが。
傲岸不遜で、小心で、幼稚で、存外素直で、暴力的なクリスが。
多分、生まれて初めて戦闘で危機感を味わっているクリスが。
今までそんな状況に陥ったことがないもんだから、内心パニックに陥っているに違いないクリスが。
……僕の頭を、さっき一度だけ撫でてくれた僕のクリスが、奴らに危険な目に遭わせられるのは、許せない。
跳ね起きて、二人の足を止めようと前傾し、足に力を籠める。例え一瞬でもいい、何が何でも隙だけは作ってやる。
あんな奴らに僕のクリスを殺されてたまるか……!
そう思って、駆けだそうとしたその瞬間。
「――え?」
ぐい、と、後ろに引っ張られる感覚。
床と僕の脚との間に絡みつき、動きを阻害する何か。
……その何かとは、きっと、多分、いや、確実に蛇であった。
僕はモノクロになった視界の中で、クリスを守ろうとした自分を邪魔する、蛇の姿を幻視した。
――そして、僕に関わりなく進んだ勇者と使徒、そして魔王の一瞬の交差は、果たされた。
何より貴重で致命的なその刹那のうちに、使徒と勇者は僕の魔王に接近し、そして。
二人を止めるために集中した僕の意識は、無益ながらも、彼らの動きを余さず捕らえた。
魔王に飛びかかる使徒。それを迎え撃つクリス。
右手でクリスの視界を隠し、左手で彼女の打突を受け流し、勢いのまま前転でクリスの背後に逃がれるアビス。
それによって出来た隙で、勇者はその半透明の翼をクリスにぶつけ……透過させ、そのまま彼女の背後に駆け抜けた。
たったそれだけ。
それだけの事でしかなかった。
……そして、それこそがまさしく致命的だった。
「……え?」
呆けた、幼子のような声。それがクリスから出たことに、僕は耳を疑った。
戦闘中である。彼女は伊達に魔王をやっているわけではない。そんな気の抜けた声を発するなんてありえない。
使徒と勇者は、距離を取ったまま、油断のない目でクリスを睨みつけている。
だけどクリスは呆けたまんま、何度も何度も。え、え、と繰り返した。
今までの傲岸不遜な態度が、まるで書き割りが崩れて焦る劇の演者のように剥がれ落ちていく。
え、のトーンが段々、段々と上がっていき……嘆かわしくも悲鳴の域に近づいていった頃。
アビスさんが、冷然とした様子のまま僕のことなど無視して、クリステラに言い放った。
「……ヴァーラ・デトラ。その名前は、今こそ人間の元に返してもらおう。僭称者にして、最早ただの無力な魔族、クリステラ。お前は今、ここで死ぬ」
……敵である彼のその言葉を聞いて、間抜けな僕はようやく気付いた。
魔王たる最強の力、彼女の代名詞である無限の魔力。クリスがそれらを失ったことに、ようやく僕は気が付いた。