もう一人の天使
戦闘態勢を取ったクリステラに対し、最初に動いたのは、サリーであった。
胸元に手を添え、両膝をつき何事か唱え始める。そんな、降伏じみた体制を見て、ナインは思わずぎょっとした。
(あんだけこっちの事煽っといて、命乞いかね)
しかし、すぐさま考えが切り替わる。
自分はガロンを説得する際に北方に向かったとき、似たような光景を見たのでは無かったか。
胸元。そこに、魔術が組み込まれた魔石を仕込んでいたソプラノの事を思い出す。
「やっば」
思わずナインの口をついて出た、焦りの言葉。勝算も無しに、人間がここに来るはずが無い。
余りにも当然なその前提を、一瞬でも忘れていた自身に悪態をつく。慌てて向かおうとしたが、既に彼女は何がしかの術を発動させていた。
ふわ、と自分の体を風が撫でる。
攻撃の類ではないようだが、しかし周辺の空気が明らかに変化したことは理解できた。
(……なんだこれ。いや、効果は後で判断すればいい。今必要なのは、役立たずの僕なんかじゃなくて、的確なクリスの援護……!)
ティア様が囁いた、勇者の手によってクリスが殺されるという言葉。
今まで彼女の言葉には盲目的に従ってきたが、何がしか腹に一物抱えていることに気づいてしまった。全てを鵜呑みにしてきたが、今、この時ばかりは彼女の言葉を信用できない。何より、信じたくはない――!
「ガロンさん、アロマさん! 助けて! こっち来て!」
情けないことこの上ないが、今自分に出来る最善は、彼女らに助けを求めることだった。
事実、これ以外に今自分が取り得る手立てはないように思う。
しかし。
「あっれー!? 二人ともそこいるんでしょ!? へるぷ、へるーぷ!」
「無駄だ。今、外部とこの玉座の間は外界から遮断されている。サリーの周囲にも展開されている……彼女に手を出すこともできないと心得るがいい」
完全にこちらを打倒するべき敵だと認識したアビスが、冷めた声でこちらに告げる。
「空間隔離。最近、ようやく実用化された技術だよ。……君達は、こちらの最後通牒を拒否した。ならば、僕らのやるべきことはただ一つ」
そう言って、アビスさん……いいや、僕の敵は、体の前で両腕を交差させて、拳を肩に添えて、宣言した。
「使徒第十二位、『怪力』アビス・ヘレン。神の名の元に、異端の最たる者、魔王とその家臣を討滅する」
……初めて会った時のような友好的な態度は、もう欠片も見られない。アビスさんは、こちらを殺す為に今、使徒として名乗りを上げた。
―――――――――
サリーが術を発現させた直後、玉座の間の外で待機していたアロマとガロンは、即座に異変に気付いた。
「……! なんですか、これは!」
即座に無礼を承知でガロンは、扉を蹴り開けようとした。
しかし、そこには全く手応えがない。明らかにそこにある扉を、蹴りつけた脚がすり抜けたのだ。しかし、触れることも出来ず、一定以上進むことも出来ない。
「結界……!? そんな、人間にこんなことが出来るわけがねえ! だって、だってこれは……!」
「我々の……エヴァの技術よ! ニーニーナにだって、こんなこと出来る訳がない! 一体誰がどうやって……まさか」
……決して、信じたくないことではあった。
だけど、確かに。自分はかつてディアボロの情報が不自然に漏れていることに対し、疑いを持ったことがあった。故に、出自の不確かな者に対して、一斉に調査を行ったことがある。
……結局、明らかな証拠は見つかることがなかった。
先日一人、ナインが始末したと聞いたが、あれは暗殺者の類でしかない。
「内通者……こんなときに……いいえ、この時の為に……?」
―――――――――
アビスさんの名乗りを聞いて思うのは、いたたまれなさだった。
……僕には名乗るほどのものがない。だけど、アビスさんは曲がりなりにも一度僕を助けてくれたことがある。
だからというわけではないが、最低限の礼儀を見せておくことにした。
「……ディアボロの椅子にして、パパで旦那で弟、玩具。道化も兼任、おまけに色々。『名無し』のナイン、どうぞよろしく」
――この度はお手柔らかに。貴方に無為で安らかな死が訪れますよう、と戯れてみる。
……とは言え、だ。
嫌な予感がビンビンすることに違いはない。
先ほどの件で、正直ティア様の力を借りるのは憚られるが、空間隔離なんかされちゃったら、僕なんかは逃げ場がない。死んじゃいそう。
やむを得ずお願いしてみる。
(ティア様。頼むよ、ちょっと力を貸して!)
――嫌よ――
「はあ!?」
思わず声を上げてしまった。未だに何事かぶつぶつ呟いているサリーちゃんとやらも、こっちをちらりと見てきた。
(い、嫌って何さ! 今、ふざけてられる状況じゃないんだよ!)
――まあ、見ていなさい。彼らの最優先目標は魔王の討伐。距離さえ取っていれば、暫く貴方に攻撃を仕掛けることはないでしょうから――
(だ、だからっつって)
ティア様の反抗期に、思わず大声を出しそうになっていると、クリスが軽く手を振るった。
アビスさんがそれに合わせて、というかほぼ同時に後ろに飛びのく。
直後、どんな技によるものか、床が円形に抉られた。音もせず、綺麗にぱっくりと。
アビスさんの強張った顔を見るに、少なくとも喜んで受けられるような攻撃ではないのだろう。
しかし、クリスの表情はいつもと変わらない。つまらなそうに、ただ一撫でしただけだと言うような顔。実際、彼女にとってはその程度の労力なのだろう。
何度かそれが繰り返される。クリスが手をひらひらさせ、アビスさんはひたすらにそれを避ける。偶に柱をぶん殴って削り、壁を蹴り、床を跳ね、天井を蹴って……。
(……アビスさんのこと、舐めてたな。アイツも十分人間止めてるじゃないか)
巻き込まれてはたまらないので、そそくさとクリスの後ろに引っ込む。重ねてみっともないことこの上ないが、僕はあんな人外の戦いにつき合わされたら死んでしまう。
ムーとやらがあっという間にやられたのは、クリスにいきなり真っ向勝負を挑んだからだ。逃げに徹するとなったとき、手加減しているだろうといえど、クリスと相対してまだ生きているという事実だけで化け物と呼ぶには十分値する。
……クリスは、かなり精神的にムラッ気がある。いきなり相手を全力で殺しにかかる、ということをしないのは、ムーとの戦闘で分かっていた。
きっとプライドが許さないのだろう。ガキくさいことだ。
……でも、そんなクリスの幼さは、僕には可愛げに写っていたので存外嫌いではなかった。
(……つってもさ、多分あのサリーちゃんとやらが勇者なんでしょ? 彼女、何もしてないけど、あれでクリスを倒すっての? お祈りしてたら神が助けてくれるって……? ……いや違う! やばいぞこれ!)
……重ねて、自分の馬鹿さ加減に気が付く。
アビスさんは、さっきからクリスと付かず離れずの距離を保っている。
つまり、目的はたった一つだ。
「クリス! 早くアビスを仕留めろ!」
思わず呼び捨ててしまった。
クリスが無言のままこちらの真横に一撃かましてきた。
肝を冷やしたが、謝る暇すらない。
クリスは絶対的な強者だ。だからこそ、焦る必要がない。殺そうが、逃がそうが、自分が害されることなど今まで無かったことだろうから。
だけど、この場においてだけは違う。
「今の状況は時間稼ぎだ! 勇者が何かする前に、アビスを始末しないとまずい!」
「……なに?」
……クリスからの、その返事。僕の危機感と、彼女の意識との温度差を埋める時間は、既に失われていた。
「異端共、祈るがいい。これより我らの勇者が、貴様らの邪悪な生に終止符を打つ」
酷薄なアビスさんの声。
それに応えるように、お祈りの姿勢を解いて勇者がゆっくりと立ち上がった。
その背中にはクリスとおんなじ様に天使のような、しかしクリスとは異なり半透明な、大きな翼が生えていた。




