険悪ムード
その日、宰相の執務室に不穏な空気が漂っていた。
力ある魔族が一同に介し、漏れ出る声からも話がこじれていることが察せられ、お茶を淹れたセルフィが涙目になって出てきた。
このことから、魔族達は一つの結論を出し、この部屋の傍には近寄ってこない。
すなわち、『触らぬなんとやらに祟りなし』。
――アロマ・サジェスタは、ここ最近回数の増えたため息をつく。
「……つまり、あのサンプルは渡さない、と?」
エヴァが、彼女にしては珍しく苛立ちを露わに。
「ああ。あれは、余のものだ。譲る気はない」
クリスが、いつも通り淡々と。
「………お姉様、あの子は私の玩具にくれたんじゃないの?」
エルちゃんが、気まぐれなのか何なのか、執着を見せて。
「おいアロマ、話が違うぜ。オレはやると決めた仕事を途中で投げ出すつもりはない」
ガロンが、嫌々受けた仕事のくせに、話を拗らせる。
――ああ、おのれ、面倒くさい。
私は忙しいと言っているのに。
「………~~んんんん、もう! 皆さん、いい加減にしてくださいまし!」
なんで、人間ごときに私がこんな苦労を背負わなければいけないと言うのか。
全てはあの家畜のせいだ!
アロマは、身の不幸と『なんとやら』を呪った。
――何故このようなことになったのか、それを知るためにはしばらく時間を巻き戻す必要がある。
朝、アロマが今日の仕事の予定に目を通していると、エヴァがいきなり執務室に飛び込んできて、開口一番こう言った。
「サンプルが欲しい。いいだろう?」
エヴァ・カルマ。
彼女は聡明だが、それ故に自分の中で話を完結させる傾向がある。
言葉足らずとも言う。
しかし彼女との付き合いもそこそこ長いため、彼女がサンプルと言うなら、それはつまり人間のことを指すことを知っていた。
「ええ、どうぞ。ただし、何に使うのか、計画表と予算案も提出してくださいな。もう私に丸投げしないでくださいね。前もそれで仕事が滞って………」
「ほら、そんなものはもう作ってきた。早く目を通して許可を出したまえ。ほら、ほら」
「……貴女ねえ。組織ってのはそういう物じゃないの。ちゃんと貴女の所の研究員にも説明して、決裁を……」
「いいからいいから。早くしたまえ。君も忙しいだろうが、自分も忙しいのだ」
カチンと来た。
彼女のディアボロへの、ひいてはアグスタ全体への貢献は十分知っているが、これほど傍若無人に振舞われる程、私の地位は軽くはないのだ。
「……それほど言うなら、それなりのメリットが見込める内容なのですわね?」
「勿論だ。任せてくれたまえ」
答えになっていない。
が、彼女の有能さは知っているし、余程のものでなければ許可を出すつもりではあった。
どれどれ、と軽い気持ちで見てみると、人体におけるマナの伝達率、より有効な人間に対する攻撃魔術開発、それらの礎になる、とのことだが。
今更こんな基礎的な内容を調べるとなると、逆に革新的な研究を進めるつもりなのだろうか。
まあ、彼女ほど魔術に精通している者など、アグスタ全体を見ても何人もいないから、彼女が言うなら間違いはないのだろうけれど、だからと言って適当に許可を出すわけにもいかない。
だがしかし、一つ気になることがあった。
「使用サンプルが限定されているんですが……」
「ああ、ナインという名らしいな。アレを使わせてほしい」
「……別に私としては構わないんですけれどね。ただ、私のみでは判断しかねますので、陛下に確認を……」
「何を言っている、このような些事に、一々クリステラの手を煩わせることなど」
「その人間は陛下のお気に入りなんですよ。それに、貴女の出した計画書どおりの概要なら、別にどんなサンプルを使っても変わらないでしょうに……」
「うるさいな、いいだろう別に。面白いデータが取れそうなんだ。そもそもこの書類にしても自分に言わせれば無駄の塊だ」
イラッと来た。
技術屋の性かも知れないが、事務屋の苦労をさっぱり分かっていない物言いは、流石にこちらとしても業腹である。
それに、あの人間が居なくなるのは都合が良いとしても、ガロンがカッとなって殺してしまった、というのと、研究材料として提供する、というのではわけが違うのだ。
主にクリスの心証的に。
であるから、態々アリスに粗探しをさせているのだし。
「なんにしても、私だけでは許可できません」
「ならばクリステラを呼びたまえ」
ムカッと来た。
いかにも、「使えない奴だ」みたいな表情でそんなことを言われたら、こちらとしても徹底抗戦の構えをとるのにやぶさかではない。
何より、いくらディアボロの古株とは言え、クリスまで軽んじるつもりであれば、こちらとしても遠慮するつもりはない。
「陛下はお忙しいんです。こんな話をいきなり持ってきて、自分を優先しろ、なんて言い分は通りませんし、通しません」
「なんだと……」
エヴァが睨みつけてきたが、上等だ。
ここでのルールを蔑ろにするなら、いくら先達だといっても、こちらだって……!
と、バン、と大きな音を立てて扉が開き、私とエヴァはそちらを向いた。
「おーい、こっちに今エヴァいるか? 図書館に行ったら朝一でこっちに来たって……お、いたいた」
一触即発のタイミングでガロンが現れた。
ドアを乱暴に開けるなと何度言っても直らないが、まあ今日は許してあげよう。
私だって、態々喧嘩などしたくないから、空気を換えてくれるのであればプラスマイナスゼロとしておく。
でも……来たのがガロンでは少し都合が悪いかもしれない。
「……なんだねガロン。今は取り込み中だ、後にしてくれ」
「そう言うなよ、すぐ終わるからさ。ナインに貸してやる本についてなんだけどよ……」
「……ああ、そう言えば君はアレの面倒を見ていたんだったか。それなら安心したまえ」
「あん?」
「アレは自分の研究サンプルとして引き取る。もう、教師の真似事などする必要はない」
あの人間にいなくなって欲しいのは山々だが、勝手に話を進められるのは、こちらとしても見過ごせない。
このままガロンに賛同されてしまうと話が拗れてしまうので、文句を言おうと口を開こうとすると、
「馬鹿言ってんじゃねえよ、これまでのオレの仕事を無駄にする気か? あいつはアロマからオレが預かったんだ。人間のサンプルが必要なら、ご馳走部屋の食糧庫から拾ってこいよ」
意外にも、ガロンから反対意見が出た。
面倒から解放されて喜ぶと思ったけれど。
「猪武者の君に一から説明するのは、自分としても時間の浪費だ。とにかく、自分の研究にはアレが必要。聞き分けたまえ」
「んだコラ、喧嘩売ってんのかぁ!? テメェ、何様のつもりだエヴァ……!」
駄目だ。
エヴァの矛先がガロンに向いただけで、結局何も変わってない……!
エヴァが引く気が無いのはもう十分分かったが、ガロンがここまで人間に執着するとも思っていなかった。
私としては、エヴァに頭を冷やしてもらってから書類仕事の重要性を説いたうえで、クリスをなだめすかして、なんとかあの人間をエヴァに引き渡す方向に持っていきたかったのに。
このままでは、ガロンにも恨まれてしまう。
この娘は直情径行な性格だからこそ、説得が大変なのに……!
失敗した。
あの人間、ガロンまでたらしこんで……!
それに、元はと言えばイゴールがあんな商品を売りつけたのが……!
仕舞いには、八つ当たりと分かってはいるものの、御用達の奴隷商に恨み節を頭の中でぶつけていると、最後に爆弾が飛び込んできた。
それも、二つ。
「おいアロマ、そろそろあの山猿を……なんだ、揃いも揃って珍しいな」
「アロマぁ、あの子に逢いたいんだけど……あら、沢山いる」
魔王姉妹のご登場である。
もうどうにでもなあれ♪
……と、言うわけにもいかないのが地位持ちの辛いところで。
給料分のお仕事はしなければならないのである。
正直投げ出したいけれど。
ああ、アリスに影武者になってもらおうかしら。
せめて、後で胃薬買ってきてもらおう。
「丁度良いところに来てくれた。アロマ、とどのつまり、クリステラの許可があれば良いのだろう?」
「……ええ。陛下のご判断にお任せしますわ」
「よし。クリステラ陛下、折り入って話がある」
「……貴女に陛下と呼ばれると少々こそばゆいが……なんだ」
「ナインと言う人間を飼っているだろう? 少し、そのことでお願いがあるのだが」
「ああ、あの山猿がどうした? 無礼でも働いたか?」
「研究のサンプルにしたくてね。自分が貰っても良いか?」
「駄目だ」
「駄目よ」
驚いたことに、即答であった。
それも、姉妹揃っての拒絶であった。
この二人は幼い時からエヴァに魔術を教わっていた、いわば師弟関係であったから、今や魔王となったクリスでさえ、エヴァの言うことなら基本的に従うのに。
「……理由を聞いてもいいか?」
この返答を予想していなかったのか、エヴァはやや面喰った表情で問い返した。
「あれは余が手元に置いて、直々に調教してやるつもりだからな」
「駄目よお姉様、あの子は私の遊び相手なのよ?」
姉妹は揃って腕を組み、仁王立ちでそう答えた。
どうもその意志は固いらしい。
本当に、面倒くさいことになった。
そして、渡せ、渡さないのやり取りの後、冒頭の状況に戻るわけだ。




