弱い女
エヴァ・カルマは、過ちを犯したわけではなかった。
もし、何かのボタンの掛け違いがなければ彼女の言葉は……不幸な運命が紡がれることはきっと無く……あるいは万に一つ、人間と、魔に連なる者たちが手を取り合う未来の一助にすらなっていたのかもしれない。
もう少し優しい未来があったのかもしれない。そこに至るための方法として、彼女がナインに送った言葉は、間違ってはいなかった。
ただ、どうしようもなくすれ違っただけであり。
どうしようもなく、結果が伴わなかっただけである。
クリステラは、ナインが己の元に来る前、アロマと語らっていた。
彼女らの元に、エヴァからの報告が伝わったとき、アロマはこう言った。
「ナインのお手柄ですわね。クリス、どうか彼を褒めてあげてください」
……それほど、おかしな言葉ではない。
アロマのみならず、魔族の頂く王を害そうとした者を、始末したのだ。
だけどクリスは、アロマの目に映った光の色を正確に理解していた。
嫉妬の色が見えていた。
あたかも、ナインの働きがアロマのためでなく、クリスのためであったことが許せないように。
それが、最初のきっかけだった。
……アロマに言われずとも、褒めてやろうとは思っていたのだ。
あのこまっしゃくれが、自分の為に働いたことを、多少なりとも認めてやろうと思っていたのだ。
……もしかしたら、魔族の……いや、自分の為に、自分のことを思って行動してくれたのかと、クリスは本当に愚かながら、ナインにそんな感情を僅かに向けた。
だから確認した。人間に未練はないのだな、という意図で。
彼女は、殺人という行為を犯したナインに向けて……それは最終確認にも近いものですらあったのだが、「不審者はどうした」と問うた。
ナインは、こう言えば、クリスを誑かすことは可能だった。或いは、本当に短い間ではあろうが、幸せな夢を見続ける事が出来ただろう。
「クリス様。あなたの為に、始末しました」
彼は知らぬことだが、クリスはとある事情により、ナインに対して執着している。
……彼から、消せぬ傷を受けた故に。
そう、ナインは知らない。クリスが己に認められる事を欲していることを、その男は知らない。
哀れな魔王。
力はあれど、心が未熟。
彼女の心にある傷は、彼女の成長を阻み続けてきた。
それをナインは知らない。
クリスに問われたナインは、己の初めての殺人に対する後ろめたさ、罪悪感から……魔族を愛するという己の決意をしばし失っていた。
だから問われたそのとき俯いていたナインは、クリスの、いっそ縋るような目線に気付くことも出来ず、言葉を返すことも出来なかった。
それでクリスは、一瞬よぎったナインへの期待が裏切られたと、そう断じた。
そこからはもう、持ち上がったゆえの反動が、疑惑が溢れるのみだ。
ガロンやエルたちの態度の変化。
魔王たるクリステラを一番尊重してくれていた彼女ら、しかし彼女らの中での優先順位は今やどうなっているのか、クリスは今や問いただすことも出来ない。
自分の大切なものが、奪われていっている。
父から受け継いだ魔王の位が、軽んじられている。
友人たちが、部下が、己から離れていく。
それがなくなれば、自分には、何も残らないのに。
その原因は、言うまでもない。
……だけどクリスは、それを取り戻す方法を行使できない。
生まれつきの強者であり、また、地位もなんら外部から妨げられることもなく手に入れた彼女は、細かい心の機微を用いる術を知らない。
何よりクリスは王となるには……民衆を束ねるには、余りにも善良であった。本性からして、そういったことができないからこそ、それを知ったアロマがその役割を担ってきたのだ。
魔王としてではなく、一人の存在として感情的に、または圧倒的な暴力で、あるいは理性的な言葉で……いずれかで彼女らに問えば。
それはむしろ彼女の内面を晒すことになり、それは傍から見てむしろ分かりやすく、理解しやすいものだ。不安がって無様を晒す魔王を見て、むしろ彼女に近しい者たちはクリスをより愛することとなっただろう。そうすればクリスも、部下たちの本心を納得できる形で受け入れる土台が出来たのかもしれない。
……王としては、相応しくないかもしれないが。
だからクリスはそれができない。
己が救われる方法を知っていた。知っていたが、魔王としてできなかった。
魔族らの希望たるクリスは、その象徴である魔王と言う冠を、いざという時にどうしても脱ぐことができない。
それは、彼女の民を裏切ることとなってしまうと、そうクリスが思い込んでいるから。
幼く、しかし、わがままを言うことも出来ない子供。
尊重される立場にいても、心の傷がうずき、自分を認めることができない。
……だけど、誰かの為に無理をして、歯を食いしばって頑張り続ける。
クリステラは、そんな女だった。
アロマの、己に対する嫉妬。
ガロンの、女としての言動。
エレクトラへの、……自分が為しえなかった、癒し。
ピュリアやアリス。城でよく見かける彼女らの、ナインに対する過剰な接触。
エヴァからの報告で感じた、方向性はどうあれナインを認めるような感情。
しかしそれらも、きっかけでしかない。
クリステラは、弱いこの女は、王として限界を感じていた。
魔族や獣人、彼ら彼女らの期待を一身に背負ってきたクリステラは、その重みに既につぶされそうだった。
己が始めた人間との全面戦争だ。失敗は許されない。敗北は、無辜の民全ての死を意味する。
矢面に立つことが許されれば、まだ良かった。人間からの悪意も、暴力も、あるいは耐えることができたかもしれない。
だけど、それは民が望まなかった。
クリステラのみに責を負わせることを、魔族らは良しとしなかった。
後の世で、『我々は、自分たちの手で自由を勝ち取ったのだ』と、自信を持って言いたい。誇りを持ちたい。そんな民の思いを、誰が無碍に出来ようか。
だから繰り返し言うのだ。人間は悪辣で、どうしようもなく、滅さねばならないと。
せめて敵がいないと、そうしないと彼女は、立つことも進むことも出来ない。
――辛いのだ。
そんな彼女の心根に、甘ったれ、と発破をかける者が……いなかったのだ。
よくやった、と褒める者もいなかった。
父のように、母のように、恋人のように叱ってくれる者が、クリステラにはいなかった。実の両親すら、その役目を担うことはなかった。
そのように、拳骨を加えた後に慰めてくれる者が、魔王クリステラ・ヴァーラ・デトラにはいなかったのだ。
報われたかった。頑張っていると、褒めてほしかった。
いいや、そんなものはなくてもいい。そんな言葉を欲しがるのは、卑しい。
歴史に名前が載るとしたら、英雄として扱ってほしい。
いいや、名前など残らなくてもいい。ただ、皆が笑って暮らせる世界になれば。
誰も、自分の頭を撫でてくれない。
本当の意味で、自分の辛さを分かってくれる『誰か』が欲しかった。
……それが叶わないのなら、せめて皆が幸せになってくれれば、それで良かったのに。
それだけで良かったのに、アイツがアタシの前に現れてから、全部狂った。
忘れかけていたのに。
この城に初めてアイツが来たとき、アイツが顔を上げたとき。
アイツの……ナインの真っ黒い目を見た瞬間、思い出してしまった。
自分という存在の不安定さを、思い出してしまった。
「ぐうぅぅ……!」
そして今、友人たちから見捨てられることに怯えている。
配下を失い、王としての責務を果たせなくなることにも怯えている。
友人すら配下として見ざるを得ない自分の立ち場に怯えている。
ナインという……人間という、自分の恐怖の根源に、怯えている。
ナインを殺すのは簡単だ。
だけどそれでは、心の奥にあるこの疼きは一生消えない。それが恐ろしく、怯えている。
ナインを殴りつけても、蹴りつけても、踏みにじってもなお、あの傷が消えない……!
「う、ううぅぅぅ……!」
――『この世で最強の存在』。そんな仮面をかぶり続けることに、もう疲れてしまった。
ナインがいなくなった部屋で、涙も流さないまま。
クリステラは、呻いた。
――懊悩する魔王を、蝙蝠を介して観察していたのは、男装の麗人セルフィ・マーキュリー。
かの吸血鬼は、花のように笑った。




