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生命の通貨

 手始めのドキドキお弁当大作戦であった。


 成功確率は低く見積もっても八割と見ていた。

 普段からあれだけ低姿勢かつ尊敬目線の極みを体現していたのだから、クリスは涙ながらに喜び、日頃の感謝を述べて粗雑な扱いを詫び、バクバクとさながら牛のように口にしてくれると思っていた。

 好感度はうなぎ登りである、筈だった。


「貴様が食ってみろ」


 奴は、弁当を差し出した僕に対してそう言い放った。


 悔しかった。

 まったく信頼されていない、そのことが悔しかった。

 クリスの目はどこまでも冷え切っていて、あたかも僕が毒を盛ったかのような疑いを持っているようだった。


 当然僕は、お疑いになるのですか、と必死に詰め寄った。

 必死になるのは当然だ。自分が一生懸命作ったものにこんな扱いをされたら、どんな気持ちになるか考えてみれば分かるはずだ。


 しかしクリスは引かなかった。ただ拒絶するのみだった。


 こちらも今更引けない。ずい、と寄って、両手で捧げ持ちながら一言。


「お食べください」


「嫌だ」


 ずい。


「どうか一口だけでも」


「いや、貴様が食え」


 ずずい。


「そんなこと言わずに」


 鼻が触れ合うほどに近づいたところで、ビンタを食らった。


「いい加減にしろ。そこまで言うなら食ってやるが、なんにせよまず先に貴様が毒見するがいい」


 クリスは存外優しい。

 しかし、この場においては聞けない条件だ。


 クリスの為に作ったお弁当である。

 僕が食べて良い物ではないのだ。

 道具がしかるべき時にしかるべき者によって使われるべきであるように、誰かの為に作った料理というのもそうあるべきだ。


「……」


 クリスは、ヒョイと一つ自信作の卵焼きをつまみ上げて。

 そのたおやかな指ごと、それを僕の口に突っ込んだ。



 僕はその日、一日中トイレから出ることができなかった。


 人は僕のことを馬鹿だと言うだろう。

 しかしこれは全くもって予想の範疇である。誰かを騙すには、見え透いていることも必要なのである。だから、例えクリスが僕の行為(好意ではないかもしれない)を無碍にして、下剤たっぷりの弁当を自ら口に入れることが必然、いやさ運命だったとしても、あの一連の流れは必須だったのだ。


 おかげさまでクリスの指をペロペロできたからな!

 まずは、まずは一つ成功したといえよう。

 セクハラの道は厳しいが、この一歩は僕にとっても大きな一歩となるだろう。


 翌日のことである。

 僕は二回目の作戦を実行しようと、厨房に向かっていた。


 昨夜、ようやくお腹が空っぽになって寝床に戻った際には、よくよく考えれば僕は何をしているのだろうという虚無感に駆られたがもう後に引くことなどできない。僕はこれと決めたらやりきる男なのは周知の事実のはずである。僕は自分を曲げない。

 生きることは無為に耐えることでもある。ささやかな――くどいようだが今一度明らかにしよう、たまたま知ったことであるが、クリスは胸に詰め物をしている――あたかも彼女の胸のようにささやかな利得を求めるために四苦八苦するのが人間の営みである。


 PDCAサイクル、というものがある。

 計画を立て、それに則って行い、精査と評価をし、改善する。なんと生産的かつ合理的な考えであろうか。

 たとえそれがどれほど下劣な目的に対するものであっても、そこで得る経験は無駄にはならないだろう。僕はそれをこの度クリスへのいたづらに適用することにしていた。


 繰り返すが、今現在僕は復讐という大目的に関してやることがないのである。

 暇なのだ。


 いや、実のところ、ずっと魅力的な女性に囲まれ、むしろ僕自身がセクハラを受けることさえあったのに、未だに僕は童貞なのである。童貞は道程に繋がる。道半ばなのだ。

 そろそろ本格的な、成人を迎えた己に相応しい経験を迎えたい。

 さらに繰り返すが、現在その相手となる選択肢がよりによってクリスだけなのだ。おってなお繰り返すが、それは僕にとっても望むところなのである。


 何せ、クリスは、見た目だけで言うなら本当に美しい。

 散々貧乳だのがっかりパンツだのこき下ろすことはあれど、照れを除いて言うなら、彼女ほど美しい生き物は見たことがない。


 全く僕の贔屓目ではなく、彼女の外見は天使そのものだ。

 そして、現世において神に等しいといえるほどの力をも持っている。

 先だってのレヴィアタンで、彼女が初めてその力を振るう姿を目にしたが、僕は完成された暴力があれほど美しいとは知らなかった。

 目にも止まらぬ速度でクリスに襲い掛かったムーと名乗った使徒は、蝶が舞うようにゆったりとした彼女の腕の一振りで吹き飛んだ。

 即座に燕のような速さで反撃をしようとした彼は、のんびりと、確かに歩いて近づいた筈の彼女……その一歩で出合い頭の機を潰された。横に移動しようとした一瞬の硬直は、目線の一つで封殺されていた。

 使徒の持つ、ギフトと呼ばれる異能だろうか。彼が全身を光らせた直後に放った体当たり――僕は間違いなく瞬きもしなかったが、彼は少なくとも十歩は離れていた間合いを刹那に潰した――その激烈な一撃は確かに彼女に届いた。

 しかし、それは、魔王に傷一つ付けることも叶わなかった。皮膚にではなく、服にすらも。


 クリスは、汗一つかかずに、ぽそ、と唇を動かした。

「貴様も、この程度か」と。


 魔王は、間違いなく使徒の中でも屈指の戦闘能力を誇るであろうムーに対して、腕を持ち上げ、足を前に出すような、そんな日常動作と変わらぬ程度の労力で相対し、勝利した。手加減という言葉すらも、そこには無かった。彼女にとって、ムーは、倒すべき敵ですらなかった。


 退屈と失望が、クリスの目には浮かんでいた。


 結局ニーニーナによってムーは回収され、取り逃がす形になったが、あれでは何度やっても結果が変わることはないだろう。蟻が象を打倒することは万に一つあるかもしれないが、砂粒が触れるだけでは、そんな結果が得られる可能性は億に一つもないだろう。

 人間が、力をもってクリスを打倒するのはどうやっても無理だ。僕は、あの時それを再確認した。


 クリステラは、こと戦闘においては常に慢心して良い。少なくとも僕はそういう感想を抱いた。

 あれは、ありとあらゆる戦闘においてその心掛けが許される唯一の生き物だ。



 ……だけれど。


 あれほど強いクリステラは。

 何故、初めてディアボロに来た僕を見たときに、目線を揺らがせたのだろうか。

 まるで、恐ろしいものを、見たくないものを、自分の恥部を目の当たりにしたかのように。



 ……そんなことはどうでもいいか。余談だ。


 ただ、あの戦闘が、僕だけが彼女を打倒しうると再認識させてくれただけの話だったのだから。彼女が最強であるのはどうしようもなく分かりきっていて、僕の人生に余りにも関わりのない話だ。

 そして、彼女が僕にどんな印象を持っていようが、あるいは持っていなかろうが、それも関係のない話だ。


 僕は、クリステラを滅ぼすために生きてきた。それも、もうすぐで結実する。

 思わず勃起しそうだ。いや、する。わざとらしく舌なめずりをしてみても駄目だ。

 収まらない。収まらない。

 落ち着かない。これは性欲なのか、殺意なのか。いいや、愛だろう。

 セクハラしたくもなる。彼女の歪んだ表情がもっと見たい。取り繕った顔を、彼女が人生で彫り上げたその超常者たる仮面を、彼女の内面に残る幼稚さで塗りたくって、無様に堕として僕に見せてほしい。

 でもそれだけじゃ足りない。彼女には、血の一滴も流さずに、全てを失ってもらう。


 早く。早く。

 早く彼女が落ちるところが見たい。

 クリスは天使だ。天使が落ちる様子は、きっと美しい。何よりも美しい。僕は、世界で最も美しいその光景を、一番近くで見たいのだ。


 愛しているクリス。僕は君を愛している。

 僕が自分の人生で一番執着しているのは君なんだ。これが愛だ、分かるだろうクリス、君は分かってくれるだろう。

 薄情なことは言うなよ、君は分からなければいけないんだ。

 言葉に出来ねえ。愛だ、愛が溢れて止まらなくて、ああ堪らねえ。早く死ね。駄目だ、まだ駄目だぞ、落ち着けクリス、お前は僕が死なせてやる、そうだろ?

 お前も僕に殺されたいだろ?

 知ってるぞ、お前のことは分かってんだ。違うなんて言うなよ、殺すぞ? だから大人しく待ってろよ、待ってろってのに、ほら、焦りやがって馬鹿が。お前が、お前がまだ生きてるから、ほら、こんな風に……。


「見ない顔ですねえ」


 こちらに背中を向けている爬虫類系の獣人が、ぴくり、と肩を震わせる。

 振り向きはせずに、彼女は、僕の声に返事をした。


「……最近雇われたんです。貴方のこと、知っていますよ。奴隷のナインでしょう、魔王様に可愛がってもらってるって。羨ましいわ」


 見え透いた話は、僕は嫌いだ。

 既に結末の見えた話を読み返すのは、嫌いだった。だから、僕はサリア教の経典も、人より早く覚えられた。何度も読むのが苦痛だったから。

 ……優しい人間に対して、世界が優しくしなかった結末が多いその宗教書が、僕はやっぱりあんまり好きになれなかった。

 ……これも、余談だ。


「そのお食事、どちらにお運びになられるので?」

「……その、かしこまった口調はやめてくださいよ。陛下のところに、セルフィ様の代わりに運ぶんです。他の方の手が空いてないっていうから」


 ただ、見え透いた嘘をつく目の前の不審者が気に入らなかった。


「僕、嘘は嫌いですよ」

「嘘なんて……お疑いなら貴方が代わりに運んでくださいますか? 次のお仕事がありますので、それなら大歓迎です」


「……呼吸」

「え?」

「回数がね、彼ら、もうちょい少ないんです。体温が低いからでしょうね」

「何の話、ですか……?」

「体温と言えば、貴女、今大体38度を超えてますね。景気付けの興奮剤の匂い……上手く消してるみたいですけど。駄目ですよ。左腕に打って直ぐにここに来たでしょう。まだ肝臓に到達しきってないから代謝物の匂いがしないけど、体内分布が安定していないから危ないですよ。ウチにクスリをやる者はいませんから、匂いではばれなかったでしょうし……貴女はもう少し待つべきだった。それは良いとしても――爬虫類系は、そこまで体温が上がると動けません」

「…………」

「歩き方もまずいですよう。リザードマンはね、右腰に重い牛刀を下げる文化がある。だから丸腰で歩いてると、その骨盤の歪みが分かりやすい。だけど貴女には、それがない」

「…………」

「まだ説明いります? こちらとしても恥ずかしいんですけど。人の、恥部を暴くのは」


 ゆっくりとした動作で、目の前のリザードマンの女は……いや、もう勿体ぶる必要なんかない。

 人間が送り込んだスパイであろう女は、食事をこぼさぬ様に、床に置いた。


「陛下の取るお食事を地面に置くなんて、なんたることをするんざます。不敬ですよ、不敬!」


 不自然なほどに、誰も来ない。

 いわゆる魔除け……魔族らが無意識に嫌がる高周波を出す魔石が、いくつか転がっているのが見えた。

 寝坊助なクリスは、執務が立て込んでいないときは、今日みたいに一人だけ遅い朝食を取ることがある。

 そんな状況を人間が知り、そしてそこに不埒な方法――例えば魔族に化けるなどして――人間が入り込むことができたなら。

 確実に、毒を仕込むチャンスだと考える者がいてもおかしくはない。


 僕も想定したことがあるから、よく分かる。凡人がどうにかして、努力して思いつくような……クリスを殺す為の方法なら、良く分かる。


「……こんな所で、お前なんかに」


 すらり、と懐から抜いたのは、ナイフだ。

 僕はもう、この段階でこの女に見切りをつけた。


 だって下品だ。

 クリスの住まいを、エルちゃんでもあるまいに、僕の血なんかで汚そうなんて。


「奴を殺すチャンスを、お前ごときに――!」



 正確に、訓練された動きで女は首を狙ってきた。



 ……僕は、血が好きではない。


 服にべったりつくと、落ちないからだ。

 あの日、ファースト・ロストの日から、ずっと。その匂いが、鼻から取れないからだ。

 あの赤さが鮮烈で、暴力的すぎるからだ。時間を置くと、薄汚く淀むからだ。

 エルちゃんの部屋は、だから嫌いだった。

 実を言うと、ピュリアさんの足の血を舐めとった後、吐き気を催した。

 ローグの血に塗れたアリスさんは、反吐が出る美しさだった。


 総じて、うんざりする。


 僕の体に流れるものにうんざりするのだ。人生にも、うんざりしようさ。


 ……野蛮なことは、嫌いだった。だから狩りも苦手だった。血が流れることは好きじゃない。

 あんなおぞましいものを目にする度に、僕は、自分が自分でなくなってしまう恐ろしさを覚えるのだ。


 だから僕は。

















 ――ある日、セネカの大聖堂の前に、丁寧に梱包された荷物が置かれていた。


 無論爆発物などを警戒した警邏達により、中身が精査された。

 それは、緩衝材に何重にも保護されており、形が崩れないように工夫もされていて、送付元から本当に丁寧に扱われたことが良く分かった。


 即時的な危険性はないと判断した一人が、仲間に頷きかける。周りの者が、内容物を取り出すことを了解し、頷き返す。


 そうして彼は、一枚ずつ、厳重に包まれた中身をよろう布切れなどを剥がしていく。


 スムーズな手つきで、しかし送り元の主の意思を汲むかのように、傷つけないように、丁寧に彼は作業を進めた。


 最後の三枚ほどになると、内容物の予想がついた彼の手は、震え始めた。


 いいや、まさか。

 

 神のおわす座に最も近いこの大聖堂……ひいてはサリア教の権威そのものに対して、こんなことをする者がいるものか。

 そんな、サリア教全てを敵に回すと同義の、気のふれた真似をする馬鹿がいるはずがないんだ……。


 一枚。

 二枚。


 最後の一枚になったとき、彼とその同僚は最早、その中身がなんであるかを確信した。


 作業する手の動きは段々ゆっくりになり、そして、既にその中身が分かっていても確認をしなければいけない不幸な彼は。


 最後の一枚を、自ら脱ぎ捨てるようにころころと転がり落ちた――おぼつかない己の手から滑り落ちたそれ・・、中身のうちの一欠片を見て……それと目が合って、赤子のような悲鳴を上げた。






 ……『内容物』は、かつて神医と呼ばれた使徒、ロットン・ガムの元に移送された。



 以下は、この件に関して彼が残したメモの一部である。



・『内容物』の口腔内に異物あり。異物の詳細:紙片

    ⇒確認したところ、『近々御許みもとに参ります』と丁寧に書かれた手紙。

     異物の挿入は、死後、防腐処理後に行われた様子。

     死後も、意図的だろうか。恐怖に歪んだ頭部のみ、

     ローグの手によってかけられた変身魔術の効果が

     持続していた模様。


     ……彼女は、人のまま死ぬことすら許されなかった。



・死因:結論としては窒息死。先に遺体検案を行った医師は圧死と判断したが、正確ではない。


    ⇒全肋骨及び胸椎の粉砕骨折が原死因だが、これらは一切内臓の

     損傷を伴っていない。

     自然的にはあり得ないが、意図的に発生させることも不可能と

     考えられる。

     しかし、殺害がなされたのは明らかである。



・全鬱滞。傷害の発生した上半身に、過剰かつ均等な圧力が適切・・にかかった結果、血液・・れの・・一切・・停止・・せしめた・・・・ことによる。

 ……こんな症状を記録するのは初めてのことである。

 何かのメッセージ性すら――気の所為であろうか。



・遺族の質問に答えられなかったのは、初めてだった。「娘は、苦しまずに逝ったのでしょうか」。

 一瞬にして、体幹全ての骨を折られたであろう苦痛と恐怖。

 刹那にして、しかし即死も許されず、酸素を失い死んでゆく己を自覚する不明。


 ……それらの感覚の総合など、分かるわけがない。

 古今東西、人間が味わった種類のない感覚だろうから。




・神の手では、これは為されない。全能たる神は、こんな無残を望まれない。

 恐れ多くも神医と自称することさえ許された私でも、同じ現象を発生させることは困難極まる。



・これを行った者がいるとしたら。いや、間違いなくそいつは、かの北の地にいるであろう。

 今も、生きている。

 こんな残酷を犯した者が、まだ生きているのだ。

 疑う理由など一つもない。遺体が、まだ悲鳴を上げているようだ。

 これを行ったものは、命を弄び、奪うことをこの上なく楽しんだ。





・このメモを見る者がいたら、心に留め置くがいい。

 私ははっきり言っておく。

 

 これは人の所業ではない。

 これを行った者を呼ばわるならば、まさしく悪魔と言うべきだ。

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