お久しぶりの人
――ローグ・アグニスは、己の右手を軽く握った。
ゆっくりと開く。
握る。
開く。
何度か繰り返した後、く、と手のひらに爪が食い込ませる。
ぎりぎり、皮膚が悲鳴を上げるにかまわず、さらに力を込めた。
ぷつん、そんな擬音がふさわしく、皮膚は抵抗を諦めて爪の侵入を受け入れた。
しかしローグはなおも力を込める。血液という自分の手のひらからの赤い降伏旗を気にも留めず、自虐的な征服を己の右手に加え続けた。
既に、喉の傷は閉じている。イヴ・アートマンの治療により、一般的な生活を営むにはなんら支障がない程度に回復した。
ぼんやりとベッドの上で胡坐をかいたまま、自室の天井を眺めながら思う。
……身体は、大分調子を取り戻してきた。
問題は……何か。
肉にまで到達しそうな爪の侵入を、ようやく止める。
痛みに耐えかねたからではない。そんな中途半端な自虐で満足するほど、この男は殊勝な性質ではなかった。
彼は、利己的であるが故に、己の欲求、プライド、そういったものの処理にあたっては建設的な男だった。
……自分は、何を、どうするべきか。
ぐり、と最後に一つ右手の傷をもう一度抉り、空いた左手で喉をさすった。
そこには、歪な傷跡が確かにあると、指先の感触が教えてくれる。
これは……この傷は、教訓だ。
己の慢心が与えた、己に対する教訓。
油断はよくない。当たり前の話だった。
それが、自分の人生に、喉に、何より能力に傷をつけた。
傷ついた気管では、呼吸を基とする自分の魔術の精密さが損なわれたまま。雑魚を散らすに不便はないが、かつての自分よりは明らかに劣る。
どうするべきか。
決まっている。後退は死と同義だ。
衰えるくらいならば、人は早々に絶頂のときに死ぬべきだ。
自分はこの能力で今の地位を築いた。なら、なお上を目指すならば、劣ったままの自分でいることなど出来はしない。
何より。
「がりぁ……がえ゛ざねぇど」
ガマガエルのような声。これを自分の口で発するたびに、それを自分の耳で受けるたびに、あのナインとやらにやられた屈辱が蘇る。
借りを返す。百倍にして、万倍にして返す。
そうでなければ、ローグにとっては、生きている甲斐も無いのだ。
そして、今までの自分を乗り越える覚悟は決まった。
その為の方策も、既に立てている。
コンコンコンコン。
慇懃な4回のノックが部屋に響く。
己が部屋に呼んだのは、間違いなく死神などの類である。
だが、それにおじける程可愛らしい感性など捨ててしまった。
「ぁい゛れ゛」
聞こえただろうか。今の自分は、部屋に人を促すことすら満足にいかない。傷つき、焼けた声帯は、魔術を持ってしても簡単には戻らない。
そして教訓である以上、戻すつもりもない。少なくとも、あの雪辱を果たすまでは。
ドアが、ゆっくりと開いた。
そこから顔を出したのは、一人の男。
「やあやあやあ」
ピエロ。
そうとしか表現のしようのない、たわけた格好の男が大げさな動きで部屋に入ってくる。
「珍しいな? 珍しいね? 君が俺を呼ぶなんて?」
変な拍子をつけながら、歌うように、体を揺らしながら男は、ローグの座るベッドにずかずかと近寄っていった。
「まあ? とりあえずは? 快復おめでとうって言うべき?」
赤、青、緑、黄色。滅茶苦茶に塗りたくられた道化服。
真っ白な顔面に塗りたくられた、笑顔のメイク。
阿呆のように頭の上で揺れる、二股帽子。
何を目的としてそのような格好をしているかなど興味はないが、とにかく見ているだけで不快になるような格好。
気味の悪い動作。
胡散臭く、わざとらしい喋り方。
総じて、ローグは眼前の男が大嫌いだった。
その名を、ロットン・ガムという。
いかにもふざけた存在ではある。
しかし、これでもこの男、魔族の中では危険度こそ低いとみなされていながら、最優先攻撃対象とされている。
このような格好をしていても、彼の仕事の本分は断じて道化師ではない。彼は、使徒の中でも特殊な役割を担っている。
「で? それで? 何の用さ? 僕の治療を拒否しておいて、イヴに頼っておきながら? 今更僕を呼ぶなんて?」
――彼はこんな形でも、医師であった。
それも、使徒となる前は、神業を持つと称された名医であった。
そんな彼は、使徒と言う特殊な殺害集団にあって、この組織に入るときに、一つだけ条件を出した。
「自分が殺したいのは一人だけ。他は一人も殺さない」
医師として、無益な殺生を好まない。そういう話だったらしい。
上層部は当然渋ったが、ギフトと呼ばれる彼の能力、そして治療技術は捨てられたものではない。結果、彼は現在、使徒としての地位を保っている。
……それに、どうせ。
そんな条件を出す以上、おそらくは復讐の恍惚を求めて使徒となる以上。
魔族という存在そのものが憎くなるのも時間の問題であろうと、上は判断した。
――そういった事情は、ローグにとってはなんら知ったことではない。
己にとって必要なのは、このピエロが自分の要求を果たす能力を持っている、その一点だけなのだから。
ローグは、黙って手元においた資料を、ピエロに向かって放り投げた。
「お、と、と。君ね、そんなね、乱暴な」
飛んできた資料をお手玉をして受け取ったロットンは、睨みつけてくるローグの視線を受けて、仕方なしに目を通す。
「どれどれ。……ふむ、ふむ? ふむ!? あれ、これ、本気?」
「…………」
なおもローグは睨みつける。眼前の男から必要な言葉は、可能か否か、やるか否か。それだけだった。
それが分かっていたのか、ロットンは。
「いや、まあ、いいよ? この術式、できるよ? やれっていうならやるよ?」
「……」
「でもなあ、ねえ? リリィさんがさ、君の姉貴分がね、なんて言うかね」
ローグは黙ったまま指先を伸ばし、息を一吸い、道化服の端を焦がした。
「うわっち、わわわ。君ね? それがね? 人に物を頼む態度!?」
「…………」
「わかったわかった、わかったよ。ただね、寿命は縮むよ? そこまで大きな影響が無いようにはするけどさ」
「がま゛わね゛ぇ」
「……ほんっとに。なんで若いのは皆、生き急ぐもんだかね」
そのようにして、ローグ・アグニスは。
順調に、ナインを殺す算段を進めている。




