旅情
エレクトラのお忍び脱走があってから、二日後。
クリスとナインは予定通り城から、魔族が内海に所有する、とある秘密兵器の元へと出発していた。
騎竜にいやがってぐずるナインの意向を渋々受け入れたクリスは、馬車での旅を選択し、目的地への中間地点たる内海際の町へと南下した。
……普段使わない移動手段による窮屈さの所為だけではなく、クリステラは不機嫌な様子を見せていた。
魔王はナインに対し、多少なりとも鷹揚な所を見せることによって……言い換えれば機嫌を損ねないことによって、目的地に着いたときの彼の素直な驚きを見ることを期待していたのだが。
どうも最初からその思惑には躓きがあったようで……。
「わぁ、海! 広いよ! ねえナインちゃん、海って大きいのね! 私初めて見た……!」
「大きいですねえ。ただ、潮の臭いがちょっと……」
「んもぅ、風情のないこと言わないでよ……あ、鳥だ。海面にお顔突っ込んでる。あれって何してるの?」
「お魚を啄ばもうとしてるんじゃないですか?」
「へえ、ああやって食べるんだ……あ、潜ったわ!」
「……おい」
「見て見て、ほら! お魚咥えてるよ、ちゃんと捕まえられたんだね」
「えらく大きいのゲットしましたね」
「なあ」
「あ、呑み込んだ」
「喉が広いんですかね。よく詰まらないもんだ」
「なあ!」
「何よお姉様。今いいところなのに」
「どうかされましたのん、クリス様?」
そろって呑気な二人に対し、苛立ちを抑えきれずに低い声で魔王は尋ねる。
「今の今まで聞きたくても聞けなかったのだが。何故エルがここにいるのだ?」
「だって、エヴァ様が一緒に行って良いって言うから」
「余は許可した覚えはないぞ」
「そんなの知らないわ。文句ならエヴァ様に言ってよ」
そんなことを、頬を可愛らしく膨らませてエレクトラは言う。
普段なら思わず目尻を下げてしまうほど愛嬌のある表情だが、今は怒りの助燃剤にしかならない。
「……ナイン!」
「はいな」
「貴様、何故エルを止めなかった! 貴様はエルが来ることを知っていたのではないのか!?」
「知りませんよ、だってほら」
そう言ってナインは、後に親指を向ける。無礼な仕草であったが、思わずそちらに釣られて目を向けた。
その方向には、冷や汗をかいている御者と、旅の荷物が詰まっている馬車。
「荷物の中に隠れられてちゃ、知りようもないでしょう」
以前エヴァ・カルマは、アリスから……正確にはその上司であるアロマからの要請を受けてエレクトラをナインの出先に同行させることを了解した。
したにはしたが、さてどうしたものか。彼女は彼女なりにその聡明な頭で考えた。
約定である以上、違えることは出来まい。しかしクリスにこのことを直接言うのは、間違いなく下策だ。先だっての彼女の様子からすれば、クリスは恐らくナインに自らの権威を見せ付けたがっているのは疑いない。
……正直、人間であるナインにそこまでクリスが拘る理由は未だに不明だが、賢くもやや直情径行な、それでいて見栄っ張りな彼女のこと、そんな自分の姿を妹に見せるのは喜ばしいと思うまい。いや、そんな大層な理由付けは必要ないのかもしれない。男と女のことである。しかしそれなら、尚更エヴァには正しい分析を行う自信がない。興味がないから。
……だからさっさと自分のサンプルにしてくれれば良かったのに。
そんな愚痴を内心で吐き出し、エヴァは結局エレクトラを無理やり、かつ強制的に内海に同行させる方法を選択した。
それが、王妹殿下を荷物扱いという結論であった。
エヴァ・カルマ、相も変わらず傍若無人である。
「エヴァめ、何を考えているのか」
「お姉様がお出かけするのを内緒にしていたのが悪いのよ。ずるいわ」
「これは公務の一環でもある。遊びではないぞエル。それに、王族としてこのような……」
「別にいいじゃない。前に戦場に行った時も私はこうしたわ」
一々ぼやきすらエレクトラに聞き咎められ、尚更魔王は機嫌を損ねた。
「その時にどれだけ余が叱ってやったか、エルよ。覚えていないのか?」
「ほら、そんな顔していないで楽しい旅にしましょうよ。私、お姉様と遠出するのは初めてなのよ?」
「……ん、むぅ」
そんな可愛いことを可愛い妹に言われてしまえば、中々これ以上の文句もこぼし辛い。
結局クリステラは、自分の鬱憤を正しく向ける相手を探すしかない。
「……この、山猿。全部貴様が悪い」
しかし正しく椅子で奴隷で玩具なナインは、黙って頭を下げるのみであった。
「ひでえ」
……いや、黙りはしなかった。
「な……何が、ひでえ、だ! 口の利き方から躾けなおしてやる!」
「うひぃ下品な。その華麗なお顔に相応しゅうなくございまする」
「貴様の口から出た言葉だろうが!」
そんな二人を胡乱な目で見た後、エレクトラは再びこっそり乗り込んだ馬車の窓から外を眺めて、口を開く。
「良い風ね。楽しい時間がすごせそう」
――現在滞在している港町、アプリアと呼ばれるこの地では、海を介して人間と僅かに交易が行われている。
ディアボロと人間との交易はインディラとのものが大半を占めているが、それ以外にも当然窓口はある。その一つがここだ。
元々内海からそう離れていない城からアプリアはあまり離れておらず、故に馬車で一日も経たずに到着したわけである。
ここから内海沿いに東進し、目的地……どうも海上にあるらしいが、そこへの連絡船を出している場所へ向かうらしい。
「ナイン、貴様の寝床はこの馬車だ……逃げたりしてはならんぞ?」
「あい、承知しました」
宿の入り口で、御者が馬車を決められた場所に置くと、クリスはそんな無体なことを言う。
しかし予想していたことではあったので、僕は特に反抗もしなかった。一人寝は城で慣れている。
というか、奴隷商時代に比べれば十分すぎる待遇なのだ。
既に時刻は昼をとうに過ぎ、西のほうに目を向ければ、真っ赤な夕日。それが空をオレンジ色に染め上げている。内海の構造上、日が沈む姿を見ることは叶わないが、それでも薄赤く染まった水面が揺らめいているのは、幻想的で美しい光景だった。
「お姉様、ナインちゃんは宿に連れて行けないの?」
「ああ、当然であろう」
「えー、一緒じゃ駄目なの?」
「駄目だ。なあエル、こんな獣が夜通し余とお前の寝所の傍にいるだなどと、おぞましい事を想像させないでくれ」
なーに言ってんだか。夜這っても、翌朝には僕が黒コゲかバラバラか、そんなオチしか見えないよ。
などと考えていると、エルちゃんはちょっと悪戯げな目でこちらをちらりと見ると、
「わかったわ」
存外素直に、姉の言葉に従ったのだった。
――そして、完全に日は沈み。
……御者も宿に入り、僕一人。
馬車を任せれていると言われれば聞こえはいいが、お忍びとは言え王族が使用する宿だ、警備体制については言うに及ばず。
馬車の停留所にすら大理石が使用されている始末だ、むしろ魔族の警備員らは、僕が馬車を盗んで逃げやしないか見張っている感すらある。
でもまあ、この空気は悪くない。
潮風は好きじゃないが、ここからでも一望できる夜の海の眺めは、悪くない。
弱弱しくも健気に宿の明かりで照らされる海、揺らめくその表面に入り混じる、混沌とした光の明滅。
見えないものの方が多い夜と言う時間が、僕は好きだった。
やはり夜は暗くあるべきだ。
だから、僕は城のねぐらである牢屋の中も、必要最低限を除いて余分な明かりが入ってこないという理由から嫌いではなかった。
波の音も悪くない。昼に鳴いていた海鳥の声ももう聞こえないのは、なお悪くない。
……馬の鼻息は、現実に立ち返らせられるから、この場ではあまり良くない。
ソプラノたんの中をちょっと覗かせてもらってから、少しばかり聴覚も鋭敏になった気がする。
目ばかりで情報を取り入れている人間と言う生き物は、こう暗くならないと五感をきちんと働かせられないというのが実感できる。
そんなことを考えさせてくれる孤独な時間は、存外有意義なもんだ。
……とはいえ、ずっとこうして突っ立っててもその内飽きる。飽きるのは駄目だ。退屈は嫌いなのだ。
ひとつ伸びをし、もう寝てしまおうかと馬車のほうに振り返ろうとすると。
ぷにゅり、とほっぺたになにかが突き刺さった。
「何黄昏てるのよ」
「……そちらこそ、何をしてらっしゃるのよ」
既に宿にいる筈のエルちゃんが、こちらに人差し指を突きつけた姿勢のままそこにいた。
思わず女口調が移ってしまった。
「少しお話したくって」
「……こういうのはおよしになさいませ、はしたないですわよ。何度も申し上げましたでしょうに」
口調が直らないのもやむなし、存外僕はびっくりしている。
いつのまに来たのか、というだけでなく、ここに来るのはクリスが許さないだろうに。
「……ねえ、エルちゃん」
「うん?」
「クリス様に了解は……」
「他の女の話はやめなさい」
女て。君の姉だろうに。
……どうしたもんだろうか。
……魔王は、楽しみにしていたのだ。
本当に、本当に、彼女の心は期待に満ちていた。
予想外なれど、妹と初めての旅。公務とは言ったものの、供もつけず(山猿は数えいれるに及ばない)、気楽な道程を行く訳であって、それはもう気分も高揚しようというものだ。
宿の廊下を進む彼女は、抑えきれぬときめきが自分の胸に湧き上がってくるのを持てあましていた。
エルと。
初めての。
お出かけ。
今までは、立場や仕事や妹の事情や諸々。
くだらないとは言えないが、家族仲を疎かにする理由になりえるかは微妙な、そんなものに縛られて、でも。
エヴァのはからい……というか謀というか、とにかく結果的にはあの娘との、今まで外に出かけることが叶わなかったあの妹との……!
「んふっ」
思わず喜びが鼻からあふれ出ても、魔王は気にしない。
……されど、眉目秀麗、怜悧冷徹として知られる魔王が漏らした気持ち悪いその笑いに、長年この高級宿で勤め上げ、陛下のおわす階の管理を任されるほどの者が怯えるのも無理からぬことだった。
即座に緘口令が敷かれた。「魔王陛下の笑い方は気持ち悪い」、その旨。
当然であった。これは秘すべき事案である。宿の情報管理体勢は万全であった。
ふんふん、とそんなことも露知らず魔王は幸せげにスキップまでしていた。
――おっと、部屋を間違えてしまった。おや、偶々……本当に偶々だ、お菓子がたんまりと懐に。
これも奇縁、少しおしゃべ……いや、話でもしないか。
何、今日はセルフィもアロマもいない。咎める者などいやしない。
水入らず、姉妹仲を深めるとしようじゃないか……ここ数年は、こんな時間も取れなかったしな。
――うむ? こんな時間になってしまった、これでは部屋を出るのも行儀が悪いか。
せ、せせ折角だ、い、一緒の部屋で寝てみるのはどうか……?
ああいや気にするな、余はソファで寝るからエルはベッドで……え?
――同じベッドで? い、いいのか?
悪いなあ、そんなつもりはこれっぽっちも無かったんだがなあ。
よいしょ、ほら、ほらほら、余の傍にもそっと寄るが良い。
うむ、エルもだいぶ大きくなったものだ……なんだ甘えん坊め、余の豊満な胸が心地よいのか?
んむ、好きなだけ甘えるがいい、お姉ちゃんはここにいるぞ……。
そんな彼女なりに完璧な夜のプランも立てていたのだ。
立てて、いたのだ。それは過去形になった。
……ぽつねんと。
明かりの消えた妹の部屋の前で、己の枕を抱えたまま、呆然と魔王は立ちすくむ。
その寝間着の胸元からは、エレクトラが好むお菓子がぽとんと落下し、ふかふかの絨毯の上で音も立てず着地を成功させた。
その表情は描写すべきではあるまい。
例え彼女が神に唾吐く魔王といえど、神すらその様には哀れを催すだろうから。




