寒い季節が続きますが、お体にはお気をつけて
――ナインは後ろ手に金属製の扉を閉め、その痛いほどの冷たさに顔をしかめた。
思わず両手をすりあわせながら、息を吹きかけて、かじかむ指先に血色を戻すためにその行為を繰り返す。
おお、寒い寒いと、そうぼやく。
……寒いからお暇する、彼がピュリアに先ほどそう言ったのはその場を離れる口実としてだけではない。
ヴァーミリオン領ほどの寒波は来ていないとはいえ、とうにこの地も冬を迎えているのだ。
エレクトラ殿下の面倒をみるということである程度おおらかに見られているが、城に戻ったからには元々与えられていた仕事も疎かには出来ない。
クリステラは暫しの休暇と言っていたが、他の魔族からの視線には冷たいものが混じることがある。
だからナインは、先輩方のご機嫌取りがてら、久しぶりにご馳走部屋の掃除を終えた。
思うのは、悲鳴はいつ聞いても耳に残るということ。ティアマリアで攫って来た囚人達も、何人かはまだ在庫がある。放血の最中、虚ろな目線を向ける者もいた。
まあ太り方と言うか、旬と言うものもあるし。それに食料の取れない時期だ、保存できる分は浪費すべきではないだろう。
そんな常識的な考えにのっとり、彼らの首はまだ、文字通りつながっている。
……僕と彼らに、なんの違いがあろうか。ナインは今更ながら考えた。
(ないのだ、そんなものは。僕が生きているのは、ただの結果でしかない)
結論はいつもどおり。同じところに帰着する、くだらない思索だ。
世界を自力で塗り替えるほどに突出した何がしかの才能があるでもない弱い人間だから、後悔を何度でも繰り返す。
(だけど人は死ぬものだ。いつ死ぬかを本人が決められたら、世の中余計な生き物が溢れかえろうというものさ)
……僕だって、所詮人間。例外ではない。
だから彼らの断末魔が怖いのだ。だって、明日の自分がこうならないなどと一体誰が言えるというのか。
ティア様も言っていたじゃないか、弱い人間だからこそ、生き汚さを忘れるなと。彼女くらいだ、未来を語って許されるのは。
そしてティア様はそこまで薄情な女じゃあない。抜いちゃいけないから伝家の宝刀。開けちゃいけないから、パンドラの箱。
彼女はその身の尊さに反して、鞠躬如な感じなのだ。彼女は断じて予言なんて恐ろしく薄情な真似はしない。彼女がそれを行えば、それは確定した未来になるようなもんだ。
いくらなんでも、彼女はそこまでこの世界……ホールズに絶望していないはずだ、きっと。
考えが横道に入ったが……人の手に余ることをしている自覚はある。されど復讐するは我にあり。多少多大の区別無く、犠牲が出るのもやむかたなし。
僕は間違ってない、今生きていて、このゲームを続けていられるのはその証左。
そうだろ?
ね、ティア様?
……無意識ながらナインは、そうやって思考の逃げ場を毎度蛇に求める。
大人になれない空しい男は、相も変わらず、飽きもせず。
卑小な心を誤魔化しながら、同じ後悔を繰り返す。
――全く無駄な渉猟だった。クリステラは、城の書庫でそうぼやく。
何処を見渡してみても、我々魔族が人間に劣っているところなど見受けられないじゃあないか、と。
……これも、今更な話だった。既に世界は魔族と人間を、黒と白とに措定している。魔王として思考すべき命題からは、ほど遠いもの。
それでもクリステラは、書庫に篭り、史書をあさる。考える、考える、考える……。
サリア教の言う神の善性とは、すなわち真実性は、何処にある。
この世の物は上から下に落ちる。確実なものなどそのくらいだ。神とやらが言えるのはその程度ではないのか? いいや、条件が変わればこの事実すら揺らぎかねないのでは?
だとするなら……はん、一体全体どこの誰が、魔族が邪悪で人間に劣るなどと言い出したものか。
どこにその根拠がある。論拠は? 奴らの都合で改竄され尽くした教典とやらか?
笑わせる。
どれほど自分達人間が醜悪か、自覚が無いのか。本当に?
恥と言う概念を持たないのか?
奴隷商、奴ら、自分達の同胞を高く売れたと喜ぶその顔は見るに堪えない。
全くもって、どれほど失望を繰り返したものだろう。尊敬すべき敵にすらなれない、人間、人間、人間!
……金、食、金、性、金、金、命、虚栄心、金……奴らがいきり立って声高に唱える隣人愛とやらはどこにいったものだろう。
品切れであろうか。確かに安売り押し売りの類は良く見る。
そしてそれを隣人が買いそびれたか、家主が欲しがらなかったのかは知らんが、食いっぱぐれが我々の胃袋に収まっていくという訳か。なに、人食いの我らとは相入れようがないと。馬鹿を言う、最初に間引きの話を持ってきたのはどちらであったか。痩せた土地で飢えた、我々に!
よく出来た話ではないか。出来すぎなくらいだ。
好き放題に増え、しまいに増えすぎた分を間引いて、そして減った者に対する怒りは我々に。本当に、出来すぎたサイクルだ。
神とやら、もしいるとしたら余程の傑物だ。僅かなりとも情があっては、こうも世を上手く回せまい。
……魔族は、そこまで残酷になれない。我々は、望んで『魔』族である。人間が定めた魔の定義など、蔑称など、それこそ知ったことか。貴様らこそは総じて邪悪である。
我々には目玉もある。ないものもいるが。
手足もある。ないものもいるが。
知性もある。皆持っている。
愛情もある。
……皆、持っている。
……何が違う? 何故我々を、嫌う? 余がナイル村に手を下す前、元々の争いの原因はなんだったんだ?
それともそんなもの、初めからなかったのか?
ただ憎いだけなのか、そんなに我々が憎いのか?
人間共。貴様らは、数にたのんでそこまで邪悪になれたのか?
数が全てか?
少ないから、我々は消えるべきだったのか?
祖先は、何故はじめに北にいた? 我々はどこから来た? どこから来たのだ、魔族という種は!
何故、嫌われる種として我々はこの世に現れた!?
……神とやら。
余は貴様の存在を信じるぞ。
悪意だ。お前は悪意そのものだ。
どれほど我々を嫌っている? どれほどの血を飲み干せば、お前の腹は膨れるのだ?
これまでの量では足りまい。お前は飽くことのない者だ。
知っているのだぞ、神とやら。
我々の次は、人間だろう?
何せお前は、貪欲だ!
神、神か! なるほどわかった!
森羅万象、一切合財、全てに勝る意地汚さ! それがお前だ。
人間共、覚えていろ。
せいぜいその黄金色に輝く糞便に頭を下げているが良い!
……しかし。
どれほどクリステラが自分を鼓舞し、魔族の正当性を再確認してみても、彼女はまた同じ思索を繰り返す。
自分達が正しく、人間達が間違っていると、がなりたてる。
そうせねば、その足で立っていられないとでも言うように。
それは、彼女の弱さであろうか。
それとも優しさか。
……かつてナインは評した。上に立つものに相応しくない甘さがあると。
その評は正しい。それはずっと彼女を苛んでいる。
魔王は今日も、かつてのエレクトラのように、自覚無く泣いていた。
血を好まぬ魔王。
それでも、ファースト・ロストを起点とする、人間との大戦争を引き起こした、人間から過去最悪と言われる魔王。
彼女は、魔王クリステラ。
ヴァーラ・デトラの名を継いだ、可哀想な魔王。




