王妹殿下との日々3
――そして場面はディアボロの城に戻る。
ナインは非常に慌てていた。
ちょっとちょっと。
ちょっと! 君、王族でしょ! 寝巻きがそんなところに放置されていたままだとでもいうか。そんな筈はあるまい。つまり、これは彼女なりの計算づくの行為であるのだ。
薄絹越しのストリップを、僕に見せ付けてなんとするというのか。
何度でも繰り返すが、僕は少女性愛嗜好は持っていないってのに。
――しゅるり。
わざとらしいほどに、耳に届く布の擦過音。目をそらせないままで居た僕の視界には、腕をしどけなく伸ばしたエルちゃんと、肩からはらりとカーディガンが落ちていく、そのシルエット。
僕の影ではなく、彼女の行為そのものであるその輪郭は、滑らかに動き続けていた。
胸元を上から順に降りていく動きの後、紐を解いたのか、釦をはずしたのか。はらり、ともう一枚。あああ、それ脱いじゃったら下着になっちゃうんじゃないの? 別にエルちゃんが着ていた服をじっくり見ていたわけじゃあないけど、君その下にはもう肌着しかないんじゃないの?
……僕の予想は正しかった。それまでまるで男をいかに誘うかのように、ゆっくりと、だけど倦怠を呼び起こさない速度で進んでいた動きは、大きく変化した。
大胆に両手を交差させ、お腹の下……最後の一枚に添えたかと思うと、それは勢い良く上に昇っていった。
瘡蓋をはぐかのように、いや、蛹が蝶に姿を変える際にその抜け殻を振り捨てるかのように最後の薄布を脱ぎ捨て、未練なく彼女は体のラインを露にした。
……僕は少女性愛者ではない。ないのだ。
こんな少女が、しかも身分軽んじらるるべからぬ貴人が行ってよいことではない。別にマゾ、違う違う、魔族や人間に限った話ではなく、だ。
――す。
聞こえるか聞こえないか。そんなほんの僅かな音とともに、細く長い影が、下から現れる。
それは、横を向いてベッドに座っているエルちゃんの、脚。
片方……こちらから見て近いほうの左脚は踵をお尻につけんばかりに曲げていて、膝の尖りが僅かに揺らめく天蓋に遮られ、その淵をぼやかせている。
もう片方は、それこそ天を爪先で嬲ろうとでも言うようにぴいんと伸ばされており、男であれば、いや女であっても口にくわえることを望んでしまうような、そんな魅惑と淫靡な謎に満ちていた。
……いや、ほら。もうそろそろ止めなきゃとか、思ってはいるんだよ? このままだと今後のエルちゃんの将来が心配というか、これ放置してたらクリスにも怒られそうだし。
と、止めよう。止めろ僕。声を出せ、もうからかうのはよしてくれ、と……!
されど口は動かず、喉は唾を飲み込むばかり。
エルちゃんの手は、ついにその下半身、スカートに伸びてゆく……と思ったら、更にその下。
ガーターベルトの紐を僅かに摘み上げ、そっと離す。
パチンと、再び聞こえるか聞こえないかで響く音。
それを彼女は、二度三度繰り返す。
そしてゆっくりとその指を靴下に這わせて、するすると脱がせていく。
肉付きの薄い、しかし確かな肉感を残すそれを開放していく様が、目の前で、布一枚越しに。
豪奢なレースの淵、そこでほんの少しだけ圧迫されていた太もものややはみ出した柔らかな、肉。
お肉。決して贅肉ではなく、魅力そのものの詰まった、きっと舐めれば甘く、けだし齧れば芳醇なそれ。
先日、エルちゃんに殺されかけたときには全く頼りなかったベッドの天蓋からたれる薄布は、今や絶対的な防壁としてそこにあった。下劣な妄想をこの上なく掻き立てておきながら、肝心な部分をけして見せない。敵にすると恐ろしく、味方であれば役立たず。全く世の森羅万象は僕のことが嫌いらしい。
……もうロリコンで良いかな?
そんなある種の諦観を持ち始めた僕の目の前で、彼女はとうとうその腰周りを覆うスカートにまで手をかけ……。
…………。
色気を大いに孕んだ時間が過ぎ、僕は一つの悟りを得た。
もう誤魔化すことはできない。最後まで目を離せなかったからには、間違いが無いんだろう。ナインだけに。
僕はロリコンであった。
落ち込みと興奮を行き来している僕は、開いてはいけない扉を開く元凶となったエルちゃんに、思わず恨み言をぶつける。
「ひどいですエルちゃん、僕を惑わして……これが罰だとでも言うのですか……」
なんならもう貝にでもなってしまいたい。物言わず、くぱぁくぱぁとでもしていたい。
こんな性癖を持ってしまうなら、いっそ生まれて来ない方がこの身の為にも良かった。
「罰なんかじゃないわ。ご褒美のつもりだったのよ。さっきの言葉、本当に嬉しかったから」
「は、い?」
「殿方はこういうのが好きって聞いたけど、違うの?」
「違いません大好きで……いやいや、ああ、もう!」
なんなんだよ、ここの魔族たちは!
どんだけ羞恥心に欠けているの!
「まあ、私に興味を持ってくれたなら、成功ね」
そう言って、さっきまでの色気とは対極の、健康的な笑顔をこちらに向けてくる。
やっぱり油断ならないお子ちゃまだ。切り替えが早すぎるから、怖いのだ。
思わず両手を挙げて、参りました、と敗北宣言。
ああ、畜生。
こんながきんちょに、弄ばれてしまった。
――セルフィが戻ってきて、益体も無い世間話をいくらかした後、ナインは退室した。
情けない表情を見せたナインに対して、エレクトラは思う。
……やっぱり。
ナインちゃん、貴方は、怖い人間だったね。私の見立てどおりに。
貴方は、嘘を吐いた。貴方は私を許してくれた。
口先だけで、許してくれた。
貴方の心は、どれほど深いの?
どれほど私達が憎いのかしら?
でも、いつかね?
その憎しみも忘れるくらい、私に夢中にしてあげるから。
だってナインちゃん。貴方、また忘れてるのよ。いいえ、自覚が無い。
お前はね。
私の玩具なのよ?
私の思うがままに踊ってこそ、価値があるってこと、ちゃあんと教えてあげるから。
「ねえ、セルフィ?」
「…………?」
「お姉様から、何か言われた?」
「……」
「……ふふ。やっぱり」
――全く同時に、ナインもエレクトラについて考えていた。
しかし、この男が考えているのは、既に少女の魅力についてではない。
エレクトラの中身をどう料理するか。
それに向けて、思考を回転させ始めていた。
……ねえ、エルちゃん。
さっき君が顔を青ざめさせたのは、どういう理由だい?
人間に対する恐怖を思い出したから?
それとも……まさか、僕のことを慮って?
……。
どっちでも、いいんだけれど。
できればさ。ねえ、エルちゃん。僕としてはさ。
前者のほうが、嬉しいかなあ。
だってその方がさ。
やりやすいだろうから、さ。
――――――――――
セルフィさんがいる中で脱走計画を煮詰めることなど出来るはずもなく。
エルちゃんから、今日はもう自由にしてよいとのお言葉をいただいたので、気晴らしに城の中を歩いていると、どこからか耳に心地よい音が聞こえてきた。
聞き覚えがある声である。しかし、まだ顔を合わせる時期ではないと思っていた相手の声だった。
だから本当なら踵を返すべきだったのだろうが、普段の言葉遣いとはあまりに違うその上品な響きに、思わず足を誘われてしまった。
石造りの床を、音がしないようにそっと歩いていくと、中庭に出る。
城の中に何箇所か作られているこういったスペースは、城勤めの魔族と言えど、仕事がないときには自由に使用してよいこととなっている。初めて足を踏み入れる一角では、ピュリアさんが、彼女を囲むハーピー達の前で歌っていた。
聞き覚えのある声だと思ったが、それだけではない。
その歌も、僕はよく知っていた。彼女が歌っていたのは賛美歌だ。
サリア教において、神を讃える歌。
思わず背筋に鳥肌が立つ。
これはまさか、クリス達に対する背信行為の真っ最中を目撃してしまったということだろうか。
「……あ」
その声は、僕のものか、彼女らの誰かのものか。
余りに予想外な光景を目にしてしまい、物音を立ててしまった僕のほうに、彼女らは一斉に視線を向ける。
「……人間や」
ぽつりと誰かが言い、一瞬緊張が走ったが、ピュリアさんが一言二言彼女らに話せば、途端にその空気が弛緩する。
「なんや、ご馳走部屋からの脱走者じゃないんね」
「ビビらせんといてー!」
そう言って、ケタケタ笑っている。
屈託もなく笑っている彼女らは、もしピュリアさんの一言がなかったなら、それこそ数瞬後に僕の首を掻っ切っていただろう。
そんな彼女らが、笑っている。
「皆、すまんけど、今日はここまでね」
「えー!」
と、一斉に声が上がるが、お願い、とピュリアさんが翼を合わせて拝めば、しゃーないなー、と三々五々解散していった。飛び立っていくその間際、皆が皆、こちらに興味深げな視線を向けて。
バッサバッサと飛び立っていく彼女らから、日差しの中に羽根がひらひらと舞い降りてくる。
それはとても幻想的で、美しい光景だった。
驚くほど無垢で、素直で、残酷な彼女らだからこそ、もしかしたら、こんなにも優しい光景を無意識に作り出すことが出来るのだろうか。
僕が受けた感銘など知らずに、相も変わらず笑いながら、彼女らは羽ばたき遠ざかる。
人間の宿命……地面に縋らねば生きられない無様さを、気にもかけずに、笑い声は、遠ざかっていく。
「ナイン」
僕の嫉妬じみた考えを、ただ一人その場に残ったピュリアさんの声が吹き消す。
空を飛べる彼女は、地面の上に二本足で、飛べない僕の目の前で、首を傾げた。
「……いいんですか、僕なんかの為に」
「ウチの為や、気にせんとき」
……いい女だ。素直にそう思う。
こんな相手の立て方を出来る人間を、魔族を、僕はそれほど知らない。
「最近は、エレクトラ殿下のところに入りびたりやって? 風の噂で聞いたわ」
「……」
彼女は直球で来る女だった。それを忘れていたから、僕は無様にも押し黙ることになった。
「だんまりかい、薄情なやっちゃ。釣った魚に餌くれんなんてな。前に忠告した筈やけど」
「……」
そのとおりだった。
僕は僕の都合で、彼女を放っておいたのだ。自分なりの優先順位があって、それに基づいて行動した。
これ以上時間的な余裕がないから、僕は彼女の気持ちを度外視した。そして、そのように動いたことについては罪悪感を特に抱いていない。
だけど、彼女は彼女の都合で、僕のことを糾弾する権利がある。
……正直。彼女は僕にとって一番気安い相手の一人だ。僕の人生すべてにおいて、これほど気兼ねない会話が出来る相手はほとんどいない。
そんな彼女から、罵声を浴びせられるのは、 しい。
きっと、とても しい。
たとえ彼女が、魔族であっても。
いいや、彼女が魔族だからこそか。僕の愛すべき対象だから、この感傷はきっと間違いではないはずだ。
「……ウチ、まるで道化やな。ガロン隊長とアンタのことも、噂になっとるよ? ご婚約、おめでとうとでも言っとく?」
「え?」
「ウチらは、情報が早いからな。勿論、上に命令されん限り漏らさんけど」
……まあ、この件については、色々コネ使って無理に調べた訳やけど。アリスも、網張っとったし。
そんな内心の声を、ピュリアは漏らさなかった。
「さっきの……」
「ん?」
「賛美歌……あれ」
「ああ、あれ? あれがどうかした?」
この時、この瞬間。ナインは無自覚ながら、一種の危機に陥っていた。
この時、ピュリア・ハープは覚悟を固めていたのだ。
それについて、ナインが気づくことは結局、その生涯の中で一度たりともなかったのだけれど。
ただ彼女は、ある悲壮ともいえるほどの想いで、無表情を貫きながら、どうかしたか、と聞いた。
それに対して。
ピュリアへの申し開きもなかったからこそ、単に今話せる話題として気になっていたことを口にしたナインは、掛け値なしに、珍しいと言えるほどに考えなく、正直な言葉を発した。
「素敵でした。とても」
「……あ、そう」
そして二人は沈黙する。
ナインは、ピュリアの思ったより淡白な反応に、言葉を継げず。
ピュリアは、最悪な予想と対極の答えに、放心した。
……ピュリア・ハープは、既に覚悟を決めていたのだ。ヴァーミリオン領であれだけガロンに啖呵を切りながら、それでも彼女の中には利己的な想いが残っていたからこその、自己矛盾そのものである、覚悟。
自分を一番に考えてくれていないだろうこの男の対応如何によって、全てを終わらせることに対して。
ガロンと歪な関係を保つことを選び、アロマを誑かし続けることを選び、そして恐らく、自分に対しても彼女らと同じように……利用価値を見出しているだろうこの男との関係を、終わらせることに対して。
同盟を結んだアリスには悪いが、先走ってでも、と。
自分とナインの犠牲だけで、この男の作り出そうとする地獄を完結させようと思いつめていた。
クリステラが率いるこの地……シャイターン含む同胞達の住まうアグスタを守り、そして、自分の感情を短絡的に、しかし確実に満足させる方法を取るか否か、その瀬戸際であった。
もし、ナインが。万が一にも、ナインが。
サリア教の賛美歌を歌っていた自分を、裏切り者としてアロマやクリステラに報告しようと言うなら、殺していた。
そのことをネタに脅そうとしてきても、殺していた。
ピュリアを人間側のスパイだと思い、自分と協同して人間側に阿ろうと提案したら、殺していた。ふざけてお茶を濁そうとしても、殺していた。
そして恐らく、彼の性格から一番可能性が高い選択肢だと思っていたのだが……ナインが沈黙を保ったとて、恐らく殺していた。
他にも、色々と殺す可能性を考えていた。
返す刀、いや蹴爪でもなんでも、とにかくその後を追おうとも考えていた。
魔族に共通して言える事かもしれないが、とりわけその中でもシャイターンの女は、賢しく、口が悪く、気が短く……情に厚いのだ。
考えなしに喋ったが故に、そしてそれが本音であったからこそ、ナインは死を免れた。
魔族に殺されれば、彼は生き返ることが出来ない。
ピュリアは知らぬことだが、使徒にその身の不死を疑われているナインは、彼女に殺されれば間違いなく屍と化す。
そういう契約であったから。
そんなことを知らず、ナインは日頃お喋りな筈のピュリアのだんまりに対して居心地悪げに体をさすり、耐え切れずに口を開く。
「さ、寒いんで、そろそろ失礼しますね。また明日」
そう言って、濡れた瞳のピュリアに妙な色気を感じつつも、その場を離れた。
そして、この賢しくも哀れなハーピー……ピュリア・ハープは、取り返しのつかない間違いをしていることに自分で薄々感づきながらも、猫背で遠ざかる駄目男に益々傾倒していくこととなった。
何も知らぬ同族の仲間達に、敵国の賛美歌の出来の良さを寸評してもらい続けることとなった。
……ナインは知らない。
彼がティアマリアの地で、無意識だろうが心地よさげに耳を傾けていた人間の歌。そんなナインの様子を見たピュリアが、生まれながらの音感の良さでその曲を覚えたことも。
夜毎、かの地で魘されていた彼に対して、いつか。
子守唄として歌ってあげようと、その眠りを少しでも安らかにしてあげようと、健気に必死で練習していたことも。
不実なナインが、知ることはない。




