エロが来ると思った? 残念!
荘厳なステンドグラス。
そこから差し込む日差しは、一見華美な極楽色の透明体を介して、いや、その色味の故になお柔らかであった。
そこに一人、少年といってよい年若い男が両手を組み、頭をたれている。無論、その下げた頭の先……意識の先には、サリア教のシンボルたる十字を擁する天使の像。無論神そのものの御姿は人の手で模るには余りに恐れ多いため、その侍従たる天使の耳目と口を介し、神に祈りを伝えるのが習いであった。
ここは聖堂。
この国の名は、セネカ。
サリア教の総本山たるその国家の中枢であり、首都として富める経済と宗教的権勢により、他国に対して……そして自国民に対しても多大な影響力をまさしく力として振るうこの国の、その首都の名をシュリと言った。
その土地で最も大きく、最も華厳壮麗な聖堂の奥、すなわち秘蹟たる聖地の中心、サリア教が最も権威を置く聖堂で、この少年は祈りを捧げている。
口元は、僅かに開閉を繰り返す。彼の唇に耳を触れさせねば聞こえぬほど微かに空気が震えているのは、聖句の唱えによるものである。それは自らの不明を恥じ、神に許しを乞い、許しを求めるという信徒として模範的な行為であり、聖なるこの場においては全くおかしいものではなかった。
しかし、並の地位の信徒では入り口すらくぐれないこの場でそれを行う彼は、いったい何者であるのか。無論、地位も、能力も常の人ではない。
少年の名は、ムー・ザナド。
僅か齢十五のこの少年は、使徒……人を超越したサリア教の権威そのものとして、サリア教の教えに反する者を滅する牙として生きている。
目を瞑り、神に仕える天使に対して一心に祈る、祈る……その祈りとは、一体何であるのか。
敬虔なる祈りを続ける彼に声をかける者は誰もいない。そも、この広い場には少年のほかに誰もいないのだから、それも当然であった。
既に二刻を越える時間、同じ姿勢のままで祈り続ける彼は、最早この場を形成する一部として存在し、ただ僅かに動く口元だけが生きとし生ける者としてここにあることを証明していた。
そんな、侵すべからず、という空気を壊したのは、不躾な女の一声だ。
「お久しね、ムー。調子どう?」
ニーニーナである。彼女は誰にでも、使徒に対してでも、あるいはきっと法王に対してでもこのような態度を崩しはしないだろう。
そしてそんな場違いな声に対し、少年は、これまでの落ち着いた姿が嘘のように肩をびくつかせ、慌てふためいて振り向いた。
「う、ひ、ににに、ニーニーナ、さん……? な、な、な、何か御用ですかあ!?」
声変わりは既に終えたはずだが、素っ頓狂で裏返ったその声は、たとえ女性のものだったとしても少々甲高すぎると言えるほどのもので、思わずニーニーナは耳を覆う。
「……相変わらずビビリだねえ、アンタ。男の子なんだから、しゃっきりしなさいよ」
「す、すすすす、すみ、すみ」
何度かたった五文字の……女は謝罪などそもそも求めていなかったのだが……言葉すら発するのに苦労し、そしてそれが叶わないので、頭を下げることでその意を示すことにしたらしい少年。
それを見て、ニーニーナは思わずため息を吐く。
このどもり屋の子供が、サリア教の決戦兵器の一つだと万が一にも外に知れたら、一体使徒に幻想を抱いている信徒たちはどんな顔をするのだろう。
その想像は思いのほか面白く、実際にやってみたい衝動に駆られたが、そんなことは上役の老人たちが断じて許すまい。権威とやらは、彼らにとって何よりも守るべきものであるらしいから。
未だに年若いニーニーナには、その辺りの機微に同感を示せない……年若いから。
……私まだ若いし。二十代だし。お肌ピチピチだし。セルライトないし。
そんな考えをおくびにも出さず、ニーニーナは目の前の、こちらに旋毛を向けたままの少年に再度話しかける。
「ちょっとばっかし、お出かけに付き合ってほしいんだけど。アンタ暇でしょ? 何の予定もないもんね」
「ひ、え、えっと、暇じゃ……ない。ないですよ。祈りの時間が」
「お祈りは十分やってるじゃない。だいじょぶだいじょぶ、きっと十分届いてるわよ、神様に」
ぞんざいに言うニーニーナの言葉に、ムーは暗い目で自分の意思を示す。
「……た、た、足りません。まだ足りません。もと、も、もっと祈らなきゃ、神様には」
ここで、ニーニーナは言葉を選ぶことにした。
彼の地雷を万が一にでも踏んでしまえば、この聖堂どころか、シュリが廃墟と化してしまう。
いつもの調子で、「そんなの後回しにしろ」とでも言えば、その予想は間違いなく現実となるだろう。
「……その神様に歯向かう奴がいたら。アンタはどうするんだっけ?」
「殺します」
今までのどもりが嘘のように消え、はっきりと。ムーは、今まで目線を合わせようともしなかったニーニーナの顔を真っ直ぐに視線で射抜いた。
「殺します。殺さねば。神罰を下すべき愚物は一体どこに?」
「……聖なる内海。その海上に、穢れし魔族が恥知らずにも進出してきた。ならばやることは分かるでしょう?」
「では、今すぐに」
「お待ち。上にも考えがあるのよ。一週間後。その時に」
そこで思わず、ニーニーナも言葉を切らざるを得なかった。
こちらを射殺さんとばかりに睨む、ムーの視線は、質量すら伴うように錯覚する。こんな子供に、とは欠片も思わない。正面からこの生きる兵器を押さえ込もうなどとは、たとえ使徒であっても狂気の沙汰でしかない。
「一秒。それすらも、奴らの蛮行は、存在も、許せない。許せないんです。早く。誰が、誰です、奴らの生存を許す愚かな老人は」
……曲がりなりにも教会の中心にいる使徒は、戦いのことを除いたとしても、綺麗事ばかりが目に映る訳ではない。いや、むしろ権力の中心部にいるからこそ、醜い足の引っ張り合いがあり、それが『大人の事情』という名で正当化され、結果世の中に不幸が溢れる一因となっていることはこの少年にすら知られている。
「焦らないで。必ず一週間で、この仕事は貴方に回す。貴方の働きには、他の者も期待しているんだから」
「僕が虚栄心で動いていると?」
面倒な子だわね、と、思わずニーニーナは内心疲労を覚え始めていた。
けして嫌いなわけではないのだが、使徒というものは皆、癖が強い。そんな彼らの間を取り持つ役目を与えた老人たちに、内心何度恨み言をぶつけたかはもう数え切れない。
「悪かった、ごめん。アンタの信仰心は疑ってないわよ。言ったでしょ、これは上の考えだって。アタシにどうこうできる話じゃないの」
「……考え。考えですか。どなたの?」
「アンタのお父上よ」
途端、それまでの剣幕が嘘のようにムーは、項垂れた。
「……わ、わ、は、わか、はい」
そして本当に申し訳なさそうに、失礼を働きました、とニーニーナに頭を下げるのだから、たまらない。それこそ溜飲の持って行き所がなくなるからだ。
ちょっとぽっちゃりした、このおっとりした少年が、サリア教の最強戦力であるなど、誰が思うというのか。
ニーニーナは、今度こそ大きくため息を吐いて、ムーに向かって手を振る。
気にするな、と、またね、との意をこめて。
そして彼女は、姿を消した。




