王妹殿下との日々2
トテチテ、トテチテと、長い廊下を進んでいく。
クリステラの執務室から、エルちゃん部屋への帰り道……僕は思わず頭を抱え込んでしまった。
実を言うと、クリスからは割とすんなりエルちゃんの外出についてお許しが出るものだと思い込んでいたのだ。今思えば楽観的に過ぎたのだろう。
で、あるなら。アロマさんの了解を得たとしても、またクリスに話を持っていかざるを得ない。そうなればあまりクリスもいい顔をしないだろう。
もう終わった話だ、と機嫌を損ねるのがオチだ。まったくもって失敗であった。
……それに、今我らが宰相殿と面と向かって話をするのは、正直ご遠慮願いたいところで。
上の意見を聞くとエルちゃんに言ったのは僕だし、その言葉の責任くらいは取らねばならない。覚悟を決めてアロマさんに会いに行くか?
だが、しかし、だ。気が乗らない。気が乗らないのだから、別の方策を考えなければならない。
どうしようかなあ。
……んん。んん?
なんで僕は、気が乗らないんだろう。
別に、彼女に苦手意識を持っているつもりは、もう無いのに。
ねえティア様、なんでだろ?
――分かりきったことを聞くのね。貴方は――
人間は貴女ほど賢かぁないんですよ。もったいぶらないで、教えてくれてもいいじゃない。
――聞かないほうがいいこともあるのよ? 人間は、賢くは無いのだから――
……うるせぇよ。もったいぶんなって言っただろ。
――その乱暴な言葉遣いが証拠よ、甘えん坊さん。貴方は苛立っているの。いいえ、恐れを感じている――
はあ? ……何に?
――……己の行いに。貴方は、あの子羊さんにしたことに対して……罪悪感を覚えはじめているのでは――?
……はあ。
ははは。またまたご冗談を、んふっ。ふふふふ。
罪悪感? なんで?
――さあね。私は人間じゃないから、貴方の気持ちは分かりませんわ、きっとね――
……。
――はいはい。ほら、そんな怖い顔しないで? ただの戯言なのだから――
戯言、ねえ? ……最近のティア様、妙に当たりが強くないですか? なんか気に入らないことでもあるんですか?
…………まただんまりだよ。イヤんなるね。
…………。
…………馬っ鹿らし。
なあにが……何が、ふん。ある訳無いだろ。
罪悪感なんざ。僕は絶対に恨みを晴らす。過去の清算を、収支の総括をするのさ。そう再確認したばかりだってのに。
ティア様め、語るに落ちるってえの。ちぇ、益々ケチがついた気がするよ。
まあいいさ。
普段ならガロンさんを本人に気付かれない程度にからかったりモフったりして癒されるって選択肢があるけど、彼女はまだ城に戻ってきてないし。
溜飲を下げるというか、気分転換にピュリアさんと話すにしても、彼女と戯れるには……ガロンさんの実家でのこともあるから、もうちょっと時間を置いたほうがよかろうし。
……ならいいさ。エルちゃんの計画に乗ってやろうじゃないか。大脱出作戦決行、上等上等、おもしろそうじゃないか。
うん。前向きに考えると段々わくわくしてきた。
昔は僕だって悪戯っ子でならしたもんだ、やってやろう。
雉撃ちをすませ、エルちゃんの部屋に戻る。
「エルちゃん、やりましょう。やってやりましょう! いざや反逆が好機にござる!」
僕はいざ自分の決意を語ろうとしたが、そこには部屋の主に加えてもう一人が。
男装の麗人、セルフィさんである。
「何をやるの?」
と、エルちゃんが。
「…………?」
右に同じ、と首をかしげるセルフィさんが。
それぞれこちらを不思議そうに見つめてくる。
「何をって……そりゃ……」
……大人のお馬さんごっこを。
そうやって誤魔化してみれば、突き刺さるは二対の冷ややかな視線。
やめてよ、だから癖になったらどうすんのさ。
――寛容な彼女らは僕の失言を無かったことにしてくれたようで、普通にお茶会に混ぜてくれた。今僕の前に置かれているのは、セルフィさんお手製のお茶である。伊達にエルちゃんに教えているわけではないらしく、それはとてもいい香りがした。変な刺激が無いそれはとても優しい雰囲気がして、嫌いではなかった。
「そういえば、ナインちゃん。貴方、どこから来たの?」
ふと、そんな話題になった。
どこからと申せば木の股にあらず、女から。木石なりとは言いがたくとも、朴念仁とは評判にて……なんて妄言が浮かんだが、彼女の聞いていることはそういうことではあるまい。
「はあ、そういえばエルちゃんはご存知ありませんでしたっけ」
「だって聞いてないもの」
そういやそうだった、かもしれない。この質問は厨房の先輩方とかも含めて、いい加減聞き慣れすぎていた所為で、誰が僕の出自を知っているかなんてもう把握しきれていない。
「ナイル村ってケチな所でさあ。ファースト・ロストの方が通りは良いみたいですが、聞いたことあります?」
僕が何度かディアボロに来て口にしたこの言葉。もう、今更それほど感傷を呼ぶものでもない。
ファースト・ロスト。一番最初に、人間が魔族から奪われた場所。
名前こそ有名だが、そこがどんな場所であったかなんて、人間だってさして興味を持っていない。僕の故郷は、ただの記号になってしまった。
だから一々、僕も気にしないことにした。重要なのは内実だから、口に上らせることについても、気にしないことにしたんだ。いくら恨みを忘れないにしたって、ここで生活する以上その程度のことで一々顔色変えていたらそれこそしょっぱなガロンさんに殺されてしまっていただろう。
ナイル村の空気の味。建物の配置、名産品。どんな人が居て、どんな暮らしをして、どんな言葉を交わして生きてきたのか。人間だってそれに興味が無いのなら、魔族であればなおさらだろう。気にするほどのことじゃあない。
僕が覚えているのだから、他の誰がどう思おうが、別にいい。
そう、思っていたのだが。
「……嘘」
カチャン、とエルちゃんはその手からカップを取り落とした。
呆然。そう表現するのがもっとも相応しいだろう、蒼白な顔で、エルちゃんはこちらを見る。
「貴方、あそこの生き残りだったの……?」
「えーと、ええ、まあ、はい」
意外や意外、一番そういった部分を気にしなさそうなエルちゃんがこんな反応を示すとは、全くもって慮外であった。
エルちゃん、君ってそんなに繊細だったっけ。一体何人殺したか数え切れないようなその身で、なーんでそんな五十人かそこらのちっぽけな村のことで動揺してるのさ。
「お姉様から聞いたわ。あそこがお姉様の初陣だったって。初めて……人間を殺した場所だって」
「あららん、初体験って奴で」
「そこでお姉様、凄いイヤな思いをしたって言っていたわ。暫く塞ぎ込んじゃったくらいで、やっぱり人間って怖い生き物なんだって思ったの、私、今でも覚えてる。だからね、私、ずっと怖かったの。人間が、怖かったのよ」
君のほうがよっぽど人間に怖がられてるけどね。
しかし、クリスにそんな過去があったのか。
……この情報。何かに、使えるだろうか。
「だから必死で魔術を勉強したのよ。エヴァ様に教わってね」
「エヴァさんですか。そういえば陛下も確かそう言ってましたね」
「うん。人間に殺されないようにって。だって、死ぬのって……怖かったんだもの」
「……まあ、それは誰でもそうでしょう。好き好んで死ぬのなんて、それこそどこぞの物好きな鼠の群くらいで」
そんな僕の冴えない軽口に、ふふ、とエルちゃんは笑ってくれた。
「私には才能があったみたい。でも、エヴァ様は『それが良くなかった、自分のミスだ』って言ったわ」
「え?」
「一時期ね、それにのめりこんだのよ。殺されない魔術と、殺す魔術。そればっかり。気付けば、制御できないくらいになっちゃった。特に肉体強化はね。私は寝てても起きてても、ずうっと力の加減が利かなかったの……貴方に会うまでは」
そう言ってエルちゃんは、こちらに向けて、そろっと指を伸ばしてきた。
この間とは違う、ひどく優しげ……というよりは、むしろこわごわと。僕に触れるのを、恐れるかのように。
そして実際、その手が触れるか触れないかの距離で、彼女は動きを止めた。
「私の体質は知ってるよね。その関係なのかな、疲れにも鈍かった。だから、誰よりもそんな物騒な技術を研ぎ澄ませちゃった。お馬鹿よね、不安だけで、無知だけで、私はこんな怪物になっちゃった」
「それは」
僕は、何を言おうとしたのか。それを自覚できないまま、エルちゃんは僕の言葉を遮って続ける。
「人間だけじゃない、魔族の皆さえ、私のことをなんて言ってるのかも……知ってる。私は、誰かを抱きしめることもできなかった。手に負えない化け物になっちゃったの」
「…………」
「だからね」
「え?」
「だから私、ナインちゃんには感謝してるの。ほら」
そこで、彼女は停止させていた手を、再びこちらに寄せてきた。
指先が僕の視界を通り過ぎ、頬を、さわ、と掌が撫でる。
「逃げないのね」
「まさか」
「……ふふふ」
「へへへ」
二人して何がおかしいのか、暫く笑い合った。
「……この間、セルフィと花を摘みに行ったわ。一本一本、この寒い中でも健気に咲いているのを、ごめんなさいって。押し花にして、しおりを作ったの」
「そりゃあ、いい趣味です。僕も昔はやった覚えがあります」
「前の私なら、できなかった。地面ごと抉っちゃったことがあるの。扉の取っ手だって、私の部屋のだけ特注品にしていたくらいなんだから」
「…………」
感謝しているのよ。そう、エルちゃんはもう一度繰り返す。
「ねえ、最近思うの。私が散らしちゃった花や、殺しちゃった動物だけじゃない。私が殺した人間達にも、それぞれの生や、思いがあったのかなって……」
「……」
「私には痛みが分からないわ。でも、心の痛みは貴方に教わったの。私の心は、今までもずうっと痛がってたんだって、やっと分かったの。だから、ねえ、ナインちゃん。私、もしかして今まで……」
「取り返しのつかないことをしちゃったかもって?」
「!」
なんで分かったの、と言わんばかりのエルちゃんに僕は、できる限り優しく。
彼女が少しでも落ち着いて僕の言葉を耳に入れてくれるように、優しい表情をするように努めて。
益体も無いことを言った。
心にも無いことを、言った。
そんな僕の言葉に、エルちゃんはこの上なく嬉しそうな顔で、
「ありがとう、ナインちゃん!」
そう、口にしたのだった。
……エルちゃんの笑顔が、あんまりにも素直で邪気が無かったから。
その表情があまりに眩しかったから、僕は思わず目を細めた。そらす事まではついに出来なかったが、それは逆に、僕自身の中で譲れないものが依然として残っていることを示しているのだろう。そう思えば、悪い気分ではない。
そう。後ろめたさを凌駕するものは、この胸にまだ全くもって、厳然と残っている。
「…………」
ぼんやりしていた僕の死角から、そうっと黒い何かが視界に入り込んできた。
その先にある細やかな指の行方を見れば、セルフィさんがスーツに包まれた腕を伸ばして、エルちゃんの倒れたカップを直していた。
そこで初めて気付いた。まだ中身が残っていたはずなのに、ソーサーだけじゃなく、テーブルクロスにもしみ一つついていない。こぼれた中身もどこへやら。
一体いかなる方法によるものか。地味ながらも奇跡じみた光景に、思わずセルフィさんを見上げると、思いの外近くにその顔があったもので、硬直してしまった。
「……?」
そんな僕の無様も許容するかのように、にこり、と微笑んでくれる彼女に、尚更恥じらいを覚える。
思えばここに来た当初……ここで知り合った誰よりも初めから彼女は、僕に優しくしてくれた人、いや魔族だった。
所詮は未熟な僕である。初心な少年の心のままである。ならばそれらしい反応をしてしまったとて恥ずかしい事ではないはずだ。
そんな言い訳を自分に向けてしながら、胸元をわずかにくつろげる。
ああ暑い。
「…………」
だのに、セルフィさんはそんな二十二歳男児の矜持をあざ笑うかのように、ほんの少しばかりこちらに身を寄せて、なお微笑むのだ。
ふわりと、何かが鼻をくすぐった。いや、彼女の息遣いから意識を外そうと必死になりそこではじめて気付けるほど希薄で、それでいながら一度気付いてしまえば意識をそらせなくなる、彼女の……女性の体臭。息を止めようにも、高ぶった心臓がそれを邪魔する。
かといって大袈裟に吸い込む勇気があるほど女性に慣れている訳ではない。
これがガロンさんやピュリアさんならまだしも、セルフィさんにいきなりそんな無体を働けるほど精神的距離が近いなどと勘違いしていない。
勘違いしていない。
してないってば。
やめて! 勘違いしちゃう!
「ごめんね、セルフィ。折角淹れて貰ったのに……悪いけれど、淹れ直してきてくれる?」
そんな僕を救ったのは、そんな僕のうすらみっともない姿に辟易したエルちゃんだった。
黙ってセルフィさんは一礼し、エルちゃんと僕のカップを銀盆に載せて退室した。
助かった。
いや、助かったのだろうか。エルちゃんは浮気者を許さない性質の、確固たる精神を持つ小娘だとこの間思い知らされたところだが、先ほどの僕の態度はお許しいただけるものだろうか。
よもや、自分の従者に色目を使った、と無礼打ちだろうか。
「さて、お邪魔虫はいなくなった、と」
「……あれ?」
「ねえ、ナインちゃん。覚悟は決まった?」
「い、いえそんな」
流石にこんなすっとぼけたシチュエーションで死ぬ覚悟は出来てないよ。
マジか。今度こそ物覚えの悪い玩具として処分されるのか。
「何おどおどしてるの。さっき、やってやろうって言ったじゃない。手伝ってくれるんでしょ? 私の、この箱庭からの脱走を」
「……あ、そっちですか」
「どっちの話をしてたのかしら」
あれれ、いやほら。おかしいな。先日の態度を見るに、お叱りどころじゃ済まないと思っていたのだけれど。
「ああ……別にセルフィはいいわ。あの娘は特別」
おや。
「特別、ですか?」
「うん。セルフィはずっと私の面倒をみてくれていたから。あの娘だけは、私の特別なの」
「はあ。左様ですか」
「でも、あんまりフラフラしちゃ駄目だよ? ナインちゃんが見るのは、この私」
よく分からないが、彼女なりに基準があるらしい。エルちゃんの前でセルフィさんの色気に惑うのは、セーフ、と。んん、思春期の考えることは分からない。
「……ん、ちょっと零れちゃってたのかしら、濡れちゃってる。ごめんね、着替えるから、そこで待ってて」
そう言ってエルちゃんは、椅子からぷらぷら揺らしていた足をすとん、と柔らかな毛足の毛氈が敷かれた床に落とした。
僕の膝をその小尻から生えた矢印型の尻尾で、とん、と軽く突いて、薄い絹がはためくベッドの天蓋の向こうに、ふわりと飛び込んだ。
……みたところ、どこにも濡れた跡なんか見えなかったけど。それに、あの完璧然とした男装吸血鬼さんが、あれ程完璧なフォローをしたというのに、そんなミスをそのままにしておくだろうか。
そんなことを考えていたが、しゅる、という衣擦れの音がして、思わずそちらに首を向ける。
そして、エルちゃんの意図に漸く気付いた。
これが罰ということなのだろうか。彼女はその幼い、だけど女らしさを芽生えさせている体のシルエットをあからさまに、ベッドの上で寝巻きに着替え始めていた。




