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離脱成功

 鋭い痛みが首筋に走る。けれどそれは、絶対的強者による気遣い、致命にならない程度の手加減がなされている。

 エレクトラから香る体臭は、仄かで、柔らかだった。かつて彼女の額に口付けたときは、血臭が強すぎて気付かなかった。目を舌でなぶられたときは、それどころではなかった。

 いや、それを言うなら、今もきっとそうだろう。


「ん…………」


 僕の首筋に舌を這わせる彼女。未成年どころか、女性というには幼すぎるエレクトラ。しかし、その声は婀娜あだびていて、娼婦の様に妖艶で。

 身の危険より、先ほどまでの扱いへの怒りより、後ろめたさが先に立つ。

 僕は少女性愛者ではないが、この余りに美しい少女は、理性を狂わせる。


 かり、とエレクトラは僕の襟元に爪を滑りこませ、胸元を引っかいた。ほんの少しの甘い痛み、それに意識を向ければまた、ぺちゃ、と厭らしい音を立てて肩口に舌が這い回る。


 硬軟。硬いのか、柔らかいのか。どちらとも言えない、ただ粘液を擦り付けることに特化したかのようなその器官が、纏わりつく。


 不規則に動き回っていたそれが、くるりと回る。何がしか目標を見つけたような動きに変わった。


「これ、セルフィの刻印よね。早く消えないかしら、やぁなの……」


 ……魔物避けの刻印のことだろう。ティアマリアに行く際にかの男装吸血鬼から賜ったそれは、未だに僕の肩口で、力を発揮していた。

 魔物……知性無き怪物にだけ効果を発揮するこの刻印は、もし物的価値に換算したら如何程のものとなるのだろう。きっと、性質の悪い奴らに見つかれば、皮ごと引っぺがされるんではなかろうか。


 いやいや、今はエルちゃん。エレクトラのことを考えよう。先ほどお叱りを受け、今もその延長線上にいるんだ。このままご機嫌を害したままでは冗談抜きに首が飛びそう。


 ……そもそもだ。彼女にとっての僕の存在意義は、彼女の言ったとおりだ。

 僕は、彼女の玩具としてこのディアボロに連れてこられたのだから。

 たとえ幾らかお仕事をしようが、それは少なくともエルちゃんにとっての重大事ではなかっただろう。ただ、自分の玩具が勝手に使われている不満だけが蓄積して、それをフォローせずにいた結果がこれだ。

 ガロンさんを迎えに行く前だって、彼女は不機嫌だったじゃないか。軽く流しちゃったけど。

 愛する。僕は、それを約束したのに。


 彼女だけを愛するのは、無理だけどさ。その点についちゃあ、口約束だけであって契約じゃあない。ここも法治国家であるらしいが、法律上の有効無効は論じない。

 僕にとっちゃ、契約だけが真実だ。


「エルちゃん、ごめんね」

「口だけ男は嫌いよ」


 そう言って、彼女は再び軽く、首元を噛んできた。


「僕は君の玩具だ。そのとおりだった。放っといてごめん」

「欺瞞の塊よ、お前は」


 そんな悪態をつきながら、額でこちらの鎖骨の辺りをぐりぐりと押し込んでくる。


「でもほら、魔王様の命令に否とは言えないし。それに意外と、必要とされるのって悪くないもんでさ。エルちゃんもその辺りは分かるでしょ? 省みられないのは、辛いよ」

「…………」

「僕はここに居続けるために、穀潰しじゃあいられないのさ」

「仕事と私、どっちが大事なの」


 おいおいおい。

 ガキの台詞じゃねえだろうがよ。


「……ねえ、一つ言っておきたいことがあるんだけど、聞いてくれる?」

「はいな」


 正直、答えを求められなくて助かった。しかしまた何か返答に窮する問いをぶつけられそうで怖い。


「私今、あなたの所為で泣きそうよ。分かってるの? 責任も取れない癖に、愛してるなんて気安く言わないでよ」

「気安く」


 聞き逃せない部分があったので、思わず口から出た。

 気安く。うむむ。気安く。

 気安くは、ないと思うよ? 客観的に見てみようよ。僕、君らに色んなもん奪われたんだよ? なのに愛してあげるってのにさ、何様だい君ってばさ。そりゃあ許してやるたぁ言わねえけどよ、ちっと言葉がすぎるんじゃねえの? 

 あーもう。ガキが。畜生。分かったよ。確かにお前、ないがしろにし過ぎたからな。


「……態度であらわせ、要はそれですよね」

「直截にすぎるわ。もうちょっと女を喜ばせるような言葉でお願い」


 継続中であったぐりぐりが、胸元から顎に移動した。

 クリスと似たようなこと言いやがって。変な所が姉妹らしい。

 分かった分かった分かったよ。前にも似たようなこと言ってたもんな。良いや、エルちゃん。今回は、君に焦点を当てよう。確かに君も、僕にとって大事な大事な愛すべき者だもの。

 そうさ。愛しているよ、エルちゃん。


「今から一週間、貴女だけのものになります。どうぞ、なんでもお申し付けを……お嬢様」

「……えへへ」


 途端、花開くような笑みをこちらに向けたエルちゃん。

 漸くと言おうか、僕はどうも許されたらしい。

 これにて彼女のぐりぐりタイム及びイライラタイム並びに僕の命の危機は幕となったようである。


「じゃあね、ご褒美あげる。アロマの所行っていいよ。今ならアロマも時間取れるだろうし」

「あれあれ? よろしいので?」

「物分かりの悪い子は嫌い。物分かりの良い子は好き。お姉様もやってたでしょ? プラスとマイナスよ。良い子には、ご褒美!」

「……そんなに時間はかからないかと存じます。しばしお待ちを」

「ええ。あんまり私を待たせたら、またアレ飲ませるよ。嘘じゃないわ、今からお風呂に入るからね」


 僕の上からぴょこんと飛びのき、部屋の扉を指差す彼女。

 ベッドから飛び降りた際には、相も変わらず喪服じみた闇色のドレスがふわりはためき、一瞬だけ露になったその秘すべき内腿、そこに二本ずつラインを引く黒色レースのガーターベルト。


 ほんとにびっくりさせられっぱなし。

 快活、残虐、深遠、幼稚。白痴と呼ばれる、黒一色の腹黒ガール。


 全く魅力的な少女である。






――――――――――




 ぱたんと、扉を閉める。エルちゃんから退室の許可を得たからして。


 とり急いでまあ、やるべきこととしてはアロマさんへの可愛がりだ。


 エルちゃん様の言うことにゃ、ガロンさんとのなんやかんやの時にフォローをしようとしたものの、どうも様子が変だった、と。

 ……分かりやすい堕落を見せてくれるかと思ったが、そうはいかないらしい。彼女の支えになったのは、どなたかしら。

 クリスか、アリスお姉ちゃんか、セルフィさんか。あるいは僕の知らんどちら様か。はたまたエルちゃんの思い過ごしか。

 どれでもいい。とりあえずはあたって砕けるしかない。僕の手札は元よりブタでしかない。


 最悪という場面は、僕の人生においてはもう過ぎ越したのだ。後は上がるか踏み外すかだけ。良いね、捨てるものが無いって楽だ。


 ――本当に――?


 ……あん? 何さいきなり。


 ――本当に、無いの――?


 変なこと言わないでよ。無いとも。それとも何かい、僕にはまだ吐き出させる財産があるってかい、ティア様。


 ――貴方がここで得た絆。それも貴方は、価値無きものだと――?


 ……うっさいな。余計なこと言わないで欲しいんですけど。ですけどー?


 ――……そう――



 …………。

 黙っちゃった。なんなんだい、まったくもう。


 まあいいさね……と執務室への歩みを再開しようとしたところで、ふと中庭が目に入った。正確には、そこに生えている樹。

 冬の寒い中、葉っぱを一枚残さず失った、みっともないそれ。普段ならちっとも気にならないだろうが、何故か……妙に気になった。違うな、気に障った。


 廊下からの道を逸れ、目に付いたその樹に向かって歩いていく。

 手を伸ばせば触れるところにまで近づいてみたが、なんのことはない。ただの樹だ。なんの変哲も無い、落葉樹。

 そりゃあ城に植えてあるんだ、手入れは怠ってないんだろうが、平々凡々な樹であることに変わりは無い。


 この寒い中、悠々と突っ立っている樹木。あちこちに生えてはいるが、何故かこいつが気になるのは…………地肌の一箇所が欠けているからだろうか。

 鱗の様にその芯を守っている木肌は、鳥にでも啄ばまれたか、べろりと剥けてその妙に白々とした内側をこちらに見せ付けていた。


 内面。

 ……アロマさんの内面は、先日既に見せてもらっている。それこそ傲慢な女の素顔に相応しく、傷ついて、寂しげで、恥を湛え、庇護欲をそそるものだった。


 そっと手を伸ばし、そのあからさまにされた樹皮を指でなぞる。思いの外つるつるとしていて、周囲の乾いた硬さとは裏腹に、水気を感じた。


 爪を立ててみる。

 かり、という音とあわせて、爪にかかる圧力。

 ぎり、という音を鳴らせば、もう限界だといわんばかりに、剥がれそうに震える爪。

 本能が、これ以上は駄目だと僕自身に教える。これ以上の力を加えれば、きっと痛みと、爪という大事なパートナーの喪失という制裁が僕の指にくわえられるだろう。


 指を離せば、そこには僅かにへこんだ白い木肌。僕の指には、じんじんとした痛みと、白み歪んだ爪。


 ……心というものも、おんなじだ。不用意に傷をつければ、自分にそれは返ってくる。人を傷つければ、意識的かそうでないかにかかわらず、同じだけの負担を心は受け取るのだろう。


 エルちゃんは、痛みを感じないと言っていた。でも、それは肉体的な話だ。彼女は、きちんと真っ当な心を持っているのを僕は知っている。

 アロマさんも、そう。彼女はクリスのため、自分のため、あんなしっかりした女性にならざるを得なかった。


 そして、そこに一筋、傷をつけたのが僕だ。


 彼女の地肌は広がっていく。どんどん僕が広げていく。それは快感であった。


「……許しますよ、アロマさん。僕は約束しましたから。貴女が犯した罪……それは許します」


 けどね。


「それと、僕の恨みは別問題です。ちゃんと返してもらいますからね。貴女達から、一ゴールドたりとも負からずに」


 ……腕か、頭か。

 どちらを見捨てるのか。

 普通の人は腕を選ぶ。僕は頭を選んだ。それだけ。


 頭が無くとも、蛇はのた打ち回るのだ。鞭のようにしなって、敵を打ち据える。あるいは絡みつき、互いが絶えるまで、締め付け続けるのだ。



 ティア様が僕にくれたプレゼントのおかげで、僕は決して忘れない。忘れることが出来ない。あの時の気持ちを。



 ……ナイル村の皆を失い、冬の寒さに耐え、皆を食らって生き延びたあの時の気持ちを。


 僕は、死ぬまで忘れることが出来ないのだ。あの想いだけは、何年経とうと僅かなりとも薄まらない。


 あの時、ティア様の手で僕の時間は凍った。皆と過ごした楽しい思い出は薄まっても、あの惨めな、人間でも獣でもない、同族の肉を食らって生き延びた、怪物として過ごした気持ちは、消えない。


 手段を選ぶ人も居る。選ばない人も居る。あるいは目的を捨てる人も居るかもしれない。


 しかし動機を捨てる人は居ない。だけれど僕は、僕だけはそれが出来る。


 ティア様との等価交換……それで何を忘れても、誰を忘れても。あるいは、何も思い出せなくなっても。


 この恨みだけは、決して薄まることが無いんだから。

 だから僕は、僕が何を失おうが、あるいは僕自身を失おうが、この恨みを完遂するまではのた打ち回り続けられることだろう。



 ……こんな事を思うのはこれが最後だ。

 だって僕は、僕はもう……誰かにあげちゃった父さんの名前も……母さんの顔も……。




 …………ああ。



 あー。



 ガロン母さん、料理上手だといいなあ。家庭の味、ひひ、ご馳走部屋のお肉の料理、いつか食べさせて、くれるかにゃあ。ひひひ。


 そうそう、僕の故郷の一番の料理は、それだったもんな。あれが一番美味かった。



 ひひひひひ。


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