メディエーション
きちんとお役目を果たして帰還した僕に対して、クリスは相変わらずの鉄壁な態度であった。
具体的に言えば、デレなかった。折角骨を折ってガロンさんの機嫌をとってきたというのに、相変わらずの「ご苦労」節である。
そんな言葉だけで人の苦労を労った気になっているのであれば得心がゆかぬわ。
……でもまあ、僕自身にとってガロンさんという収穫もあったし、別にそこは良いのだ。ピュリアさんはちょっと不貞腐れているけど、いたしかたなし。
ただ、かの魔王様も一応の評価はしてくれたようであり。
ちょっとばかし、正確には一週間、お暇をいただいたこともあるし、少しのんびりしようと思っている。
のんびりしようと思っているのだが、懸案事項が残っている。
アロマさん。我らがディアボロの宰相殿。
放置プレイをかましていた彼女のご機嫌取りもしなければならない。もちろんピュリアさんにそっぽを向かれたままなのは切ないが、少し時間を置くことも必要だろう。
どうも見たところ、彼女、何かガロンさんの件以外にも思うところがあるご様子だし。
……とりあえず様子見でいよう。思考を散漫にすると、結局どれも上手くいかないものだ。
目下気にするべきはそう、アロマさんだ。目先の問題は彼女のこと。
パパ、出張で少しお家を留守にしちゃっていたけど、寂しくなかったかにゃー? お土産は生憎安月給なもんで買えなかったけど、許してくれるかにゃー?
などと、そんな心持ちでアロマ・サジェスタ宰相殿の執務室へぷらりぷらりと向かっていたところ、見慣れた尻尾を発見した。
ガロンさんのではない。ピュリアさんのでもない。
そう、矢印型の、エルちゃんの可愛い小尻からにょっきりのびのびしている、その尻尾である。
「エルちゃん様ー、ただいまです」
そう声をかければ、にぱ、と花開いたような無垢な笑みで、両手を広げて迎えてくれた。
抱きつくでもなく、ただ歓待の意を表してくれている彼女。
まず距離を測る。こちらの、出方を見る。もし僕がおそるおそる抱きつこうとすれば、ひらりとかわすだろう。
万が一僕が彼女の予想以上に離れたところで足を止めれば、悲しそうな顔をその可憐なお顔に浮かべつつも今後の距離感の判断材料にするだろう。
それを……無意識にだろうがこの歳で行っている彼女は、本当に末恐ろしいと思う。
「おかえりなさい、ナインちゃん。お疲れだったね」
「ええもうまったく。とは言え、これからもっと疲れそうです」
「あら失礼ね。あなた、レディの顔を見て疲れを覚える類の性質?」
「いえいえまさか。エルちゃんの顔はむしろ癒し系だと評判です」
「あら、どこの都会の評判?」
「僕の中の、でした。ど田舎で申し訳なくござ候」
「なにそれ」
くすくす、と口元に手を当てて、上品に笑う彼女。お世辞抜きで、心が少し軽くなる気分。
そうそう、こういうのがいいんだ。
僕は、こういうほんわかした雰囲気が好きなんだよ。
イスタに行ったら、囚人さん達のピリピリした中でお仕事して。
リール・マールに行ったら、獣人さん達の不信の目の中でアレコレして。
挙句、ガロンさんのご実家では食べられちゃう恐怖の中でワタワタして。
……もう、疲れてきちゃったんだよ。正直な話さあ。
僕の目的、諦めるつもりはないけれど、心がカラカラ、乾いてきた感じがするんだよね。
……最近だけじゃない。眠りにつく前に延々と、こんなことを考えることが増えてきた。
ずっとだもんなあ。僕の人生、ずっとこんなんだったもんな。
ディアボロに来る前だってそうさ。
鞭でたたかれて。釘で引っかかれて。
ご飯は、飢えの辛さは知ってるから贅沢言うつもりはないけど、それでも食えたもんじゃなかった。
あれなら生の野菜を齧ってたほうがマシだってくらい不味かった。
……それに比べるなら、今のお食事事情はまだマシか。マシだな。
「ナインちゃん? ボーっとしてどうしたの?」
「あら失礼。エルちゃんのお姿があんまりにも可愛らしくて見とれてしまいましたわ」
……変なこと思い出すもんじゃないな。詮無い。
「……ほんとにちょっとお疲れ? 出ずっぱりだったもんね。お姉様の人づかいの荒いことったら」
「いやいやまあ、所詮僕は人間ですしね。あんまりお気になさらず」
「人間なら尚更よ。私達より弱いんだから、この調子で無茶してたら壊れちゃうわ」
お優しいねえ。
魔族。それも王族が、こんな奴隷に向ける感情としちゃあ、不自然だ。とっくに仮契約の効果も切れてるだろうに。
……本当に、不自然だ。君らの敵に対して、余りに気安すぎやしないか?
思えば初対面の時から、この子だけは根っこがあんまりブレてないんだよなあ。
余裕、老成、諦観。
そういった匂いが強かった。
ただ若すぎた。若すぎたから、肉体自身がその感性についてこれずに、あんな情緒不安定に陥っていただけだ。
愛を向けただけで、こんなに、『白痴』と呼ばれていたなんて信じられないくらい落ち着いた子になる。
……誰だ? この娘をこんな風に作り上げたのは。
クリスとあまりに違いすぎる。先天的なものじゃないんじゃないか?
誰だ? 誰がこんな化け物を作った……?
「ナインちゃん……もう、またボーっとしてる。失礼しちゃうわ」
そういってエレクトラは、未だに自分の思考に埋没している目の前の人間の襟首を引っつかみ、自分の部屋へと引きずっていった。
座右の銘は、『有無を言わさず』。エレクトラ十四歳、恐るべき少女である。
――――――――――
さて現在、エルちゃんのお部屋である。お人形のように引きずられ、気付けば椅子に座らされていた。
ここに入ったのは何度目であろうか。そんなに多くはないと思う。
少しばかりエルちゃんに対して思うところがあった所為で、思考を散漫にしないとの決意を早速自ら裏切ってしまった結果、僕はこの高貴な少女にお持ち帰りされてしまった。
前も思ったけどさ、男に対する接し方としちゃあ気安すぎやしませんかね、王妹殿下。
しかし連れ込まれてしまったからには仕方なし、阿呆のように口をぽかんと開けて天井を見上げてみれば、なんとも豪奢なシャンデリア。実用性よりも高級感重視な雰囲気……この造りは、インディラ製だろか。知らないけど。
美術に対する造詣は、別に深くない。僕が受けた印象でしかないが、所詮人間の能力なんざたかが知れてる。特に芸術なんか、分かる奴に分かれば良い、その程度の話だ。
そんなことよりゃ、自分で理解できる分だけ正直にいれば世はこともなしなのである。僕はそもそも嘘つきだし、ガロンさんの言葉に逆らっては自分にさえ嘘をつくが、無為に知ったかぶりをするほど恥知らずではない。
……そんな風に、自分の感性の低さを慰めていると、お茶を淹れてくれていたエルちゃんからお声がかかった。
「お待たせ」
目の前に優雅な手つきで机に置かれた、紅茶とお菓子のワンセット。紅茶とその下に敷かれた器は、陶器という奴だろう。前に淹れてくれたときは気にしなかったが、そのときのものと同じだと思う。
こう見ると中々味のあるカップだ。ふむん、少々教養の足りない僕であるが、先ほどの思索が後を引いているのか、ちょっと気になる。
真っ白なお皿。そこに乗った、取っ手の小さめなカップ。淵にある凹凸が光を受けて僅かに波のような陰影を表している。仰々しくもなく、下品でもない。しかし可愛げがある。
白の中に浮かぶ、暗色。黒とは言い切れず、灰色と言い張るには色味を感じる。青にも見えるし、光の具合では暖色ともなるかもしれない。
器一つで大金を動かす商人の腕も、見栄の為に相場以上で取引する貴族の考えも全く想像がつかないが、こういう心持ちで見ると芸術品に対して単純に無駄遣い、あるいは価値なしと断ずるのは乱暴かもしれない。
そんな思考を中断したのは、向かいに座って首をかしげるエルちゃんの一言だった。
「どうしたのナインちゃん。飲んでくれないの? 冷めちゃうわ」
「おっと失礼」
しかし重要なのは内実だろう。いかに大仰な器に鎧われていようと、その中身が伴っていなければ滑稽なだけだ。
およそ生きものは大体そんなもんだと思う。そして人間なんてのはおおよそ損なもんだと思う。否が応にも、見栄を張らなきゃやっていけない不恰好な生物だものね。
最低限のプライドがなきゃ、僕だってきっとこんな所にいないで、ゴミ捨て場にでも這い蹲って生きていけただろう。
村の皆の仇をとる為に、こんな風に、敵に擦り寄って。皆が生きてたら、僕のことをどう思うんだろう。
……どうだろう。僕を動かしたのは、本当にプライドだなんて高尚なもんだろうか。いやきっと……。
……詮無いなあ。こんなこと考えたって、しょうがないって言うのに。それに敵だなんて、僕は彼女らを愛して……愛さなきゃ、いけないのに。
無理に押し込めても駄目だなあ。こんな思考が何度も何度も湧き上がってくる。やっぱり疲れてるんだね。
これ以上、上目遣いでこちらを見てくるエルちゃんを焦らすのは忍びない。喉もちょうど渇いたし、頂いてみようかね。
そうっと、彼女が僕の前に置いてくれたときのように、慎重にカップを持ち上げる。
カチャ、と皿とカップが触れ合う音は耳に心地良いが、少々不躾だったかもしれない。
先ほどまで自然に浮かび上がっていた、彼女らへの不義となる思考。
ガロンさんの講義で得た付け焼刃なマナーへの意識から来る、劣等感。
そして高貴な彼女の淹れてくれた、もしかしたら僕自身の値段より高価な、お茶。
それらをまとめて、口に流し入れ、ごくりと飲み込む。
「うべっ!」
即座に吐き出してしまった。
ごっふぉごっふぉとえづいても、口の中に残り続ける違和感。
ひっでえ味。なにこれ……なにこれ!
しょっぱ辛い! お茶じゃないだろうこれ!
「あら、ほんとに飲んじゃったの……?」
思わず鼻水まで出しそうな僕の横に、いつの間にかエルちゃんが立っていた。
「残念ね、ナインちゃん。私、物覚えの悪い子はあんまり好きじゃないんだけど」
「げ、えほっ、え、エルちゃ………?」
ざ、残念ってなんだよ。
残念なもん飲まされたのはこっちの方だってのに。
「普段のあなたなら、気付いたと思うわ。匂いで。だってそれ、お風呂の残り湯とワイン酢のカクテルよ。あと、胡椒」
なんだ、なんだおい。
殺しにかかってきてるのかおい。
おかしいぞ、なあおい。僕、そこまで君に嫌われるようなことしたっけか。
さっきまでの態度との落差が激しすぎてもうわかんねえよおい。
「ちょ、ちょっと、ぼ、僕が何したって、うえ゛っ」
あんまりな仕打ちだったので、流石に腹も立つ。
せめて理由でも聞こうと思い、口をぬぐいながら顔を上げてみると、襟口を掴みあげられた。
その体格からは予想もつかないほどの力で捻られた布に圧迫され、喉がギリギリと軋む。
「何をしたって? ええ、別に何もしてないわ。でも、忘れてるみたいだから、思い出させてあげないとね」
「ぐ……ぅ……な、にを……?」
「ねえ、ナインちゃん。貴方は、一体なあに?」
「な、にって……!」
ぽいっと、軽く。いや、彼女にとっては軽くだろうが、こちらにとっては尋常ではない膂力で、放り投げられた。
背中にバサリ、と手ごたえのない感触を受けて、ボスンと柔らかな何かに受け止められる。
ぐるんぐるんと回る視界の中、未だに自分がどこに落ちたのか、いや、どんな状況にいるのかが把握できていない。
なんだ一体。僕は彼女のどんな逆鱗に触れたんだ?
なんでこんな目に遭っているのか、さっぱり分からない。
ぽふ、ぽふ、と部屋に敷かれた毛氈から、足音が近づいてくるのが分かる。少なくとも、現状僕にとって喜ばしくない相手が接近している。
優しく可憐なエルちゃんではない。『白痴』エレクトラ・ヴィラ・デトラと呼ぶべき、人間の敵たる魔族が、近づいてくる。
ようやく眩暈が治まり、自分が今エルちゃんのベッドに投げ捨てられたこと、そして天蓋から零れるレース地の布が、エレクトラと僕を遮る唯一にして心もとない遮断壁であることを理解した。
ゆらゆらと、僕にぶつかった衝撃で未だ揺らめいているその絹地に映るシルエット。その頭が右に傾く。
「答えられないでしょうね。自覚があるなら、私もこんなことしないで済んだのに」
もう一度、残念、と布地の向こう側から、声がした。
「待たないわ、私は。お姉さまなら答えを待つかもしれない。でも私は待たない。子供だから」
怖気が走るほどに優しげにそう告げると、彼女はいとも簡単に、最後の防御壁を無視して、こちらに右手を伸ばしてきた。
天蓋から降りる布地は、あたかもそれを恐れるかのように不自然に広がり、彼女の手を迎え入れる。
その手……輪をかたどる親指とその他四指の爪がこちらの喉に触れるか触れないか、そんな所でピタリと、微塵も揺らがずに留まった。
「……お戯れを。ご冗談が過ぎませんか?」
「今更そんな格好つけても駄目」
エレクトラは、この空気を変えようとする僕の提案を、足蹴にした。
爪が、僅かに進む。皮膚に食い込んだそれにより、両方の頚動脈が裂かれる様子を幻視した。
「知ってるんだからね、ナインちゃん。あなた、私に挨拶する前に、アロマの所に行こうとしたでしょ? 駄目よそんなのは」
「はい」
嘘をついたら、きっとこの爪は、躊躇なくもう一つ先に進むだろう。分かりきった痛みを受ける必要はない。
「次。私が迎えてあげたとき。私のことを考えていたのは構わないわ。でもね、私のことを無視するのは全くいただけないの」
「すみませ……」
すみませんでした。それすら、僕は最後まで言い切ることができなかった。
僅かそれだけの言葉すら待たず、彼女は言葉を継いだ。
「最後。あなたが私の部屋で気にするべきは、家具じゃない。器でもない。そして、あなた自身でもないの。私だけよ。優先順位を間違えちゃ駄目」
そして、一呼吸。
彼女は、その蝙蝠のような翼を大きく広げた。
まさしくそれは、魔族による、弱者への威嚇だった。
「お前はね」
「……」
「私の、玩具なのよ?」
そういって、最早僕にとって防衛の用を成していなかった布地を切り裂き、ふわりとこちらに飛び込んだエレクトラは。
僕の首筋に、牙を突き立てた。