轟音
高く、高く、乱れ響く。そしてそれは、遠くまで。
洞窟の中から轟くのは、野生そのものの咆哮。
腹の芯にまで響く迫力、無駄のない発声、荒削りでありながらも、それすらもが完全性を包含しているその叫び。
力ある声だった。
恐ろしい声だった。
ソプラノは思う。
……もし自分がこんな状況でなければ、思わず聞き惚れてしまいそうなほど、その声は美しかったと。
解き放たれた人狼の女の叫びは、美しかったのだ。
しかしそれに心を奪われていられるほど、自分には余裕などない。
地に押し付けた手のひらに、尖った石が食い込むのも気にならなかった。
体をよじり、捩じり、それでもびくともしないこの大地は、それほど私に恨みがあるのかと呪いたくなるほど、がっちりと私の下半身を包み込み、捕まえたまま離さない。
最初は左に、今度は右に。
捩じっても掌を押し込んでも、凍った地面はがっちりと私の体を加えこんだまま、逃がしてくれない。
清潔に保ち、手入れをしていた爪の間に汚れが入り込もうが、構わない。構っている暇などない。
一刻も早く、ただそれだけを考えていた。
みしり、と肩甲骨が肋骨の背部に潜り込むほど、体を捻る。普段使いもしない筋肉が押しつぶされ、自分の商売道具である肺すら圧迫されるが、それでも私は大地への抵抗を続けた。
ずるっと、手が滑り、肘をつく。その拍子に顔を打った。冷たい、そう、もう寒気を感じられるどころか、寒さで筋肉が勝手に緊張し、一部が痙攣をはじめるほど、体温維持の術は効果を失ってきている。
時間がない。
時間がないのだ。
私はまだ、死にたくない、死ぬべき人間じゃない。おかしい。こんなはずじゃなかった。
もう、私の仕事は終わっていたはずだったんだ。ちゃんとヴァーミリオンは捕えたじゃない。私はやるべきことをやっただけ。
なんで、なんで、なんで。
――オオオ、と遠吠えが低音を伴いはじめ、それがあたかも時間切れだとでも言いたげに耳に届く。
こんなの嘘だ。
まだ、私は何もなしていない。
私、まだ恋だってしてない。
聖歌隊の後輩にだって、大事な歌唱の技法を伝えきれていない、し。
食べたいお菓子、フォルクスに出来た新しいお店、新発売の奴、まだ食べてない。行ってない。
い、一緒に行こうって約束した。ニーニーナ先輩と約束したの。
この仕事が終わったら、一緒に……。
――オオオォン。
……。
人狼の声が、途絶えた。
……。
吠え声の消失に伴って、マナの収束が急速に進んでいるのが、否が応にも分かる。可視化するほどの周囲の魔力が、洞窟の中に吸い込まれていくかのような様子が見える。
膨大な量のそれが、ただ単一……肉体能力の強化に用いられたときに、どのような結果が起きるのか、私は知っていた。
洞窟は、私の、正面。
『赤爪』ガロン・ヴァーミリオンが、死の具現が、来る。
私は、嘘よ、私は、私は。
自分の『死』が正面から、耐えきることなど絶対できない。あああ、嫌だ、嫌だ、アレが来る……!
……。
やだ。
来るな。
来ないで。
来ないでください。
……まだ?
もう来る?
来るならさっさと……いっそひと思いに……。
……もうやだ。
これ以上私をいじめないで。
来ないで。
来ないで。
まだなの?
ああ、あああああ。
……あ、来る、と。
何故か、その瞬間が、手に取るように分かった。予感があった。
これが、死に際の集中力って奴……?
――ふわり、と洞窟から風を感じた気がして、そして一瞬だった。
音より早い、その絶技。私を殺すためだけに、それが振るわれる……。
かつてのイスタ防衛戦で、私の前任者を骨も残さず葬り去った一撃。
かの地のパワーバランスを魔族側に傾けた、その一撃が。
瞬きもできない極限の緊張の中で、私に向かって殺意をぶつけに来た人狼の姿が、霞んで見え……。
し、ぬ。
「た、たすけてせんぱ」
――――。
――。
衝撃、轟音。
凍りついた大地、ヴァーミリオン領の一角が、その日、その瞬間。
一人の人狼によって、震えた。
――土埃。
気温の所為で霜にまみれたそれらが舞いあがり、最早死に際の夕明かりを反射しながら、輝いていた。
そして、一種幻想的であったその景色が晴れてゆくにつれ、徐々に物騒さを醸し出していく。
洞窟から一直線に走る、抉れた地面。
ずうっと向こうまで続くそれは、途中で、この寒さの中健気に春の訪れを待っていた森の木々に不自然な空白を作りだした。
ガロンさん……魔王親衛隊長ガロン・ヴァーミリオンの一撃は、地形図の書き換えを要するほどの悪夢的な威力をもって振るわれたのだ。
もちろん、使徒が埋まっていた……というか僕が彼女を地面に引きずりこんだんだけど、その場所も最早跡形もなかった。
かつてのイスタ……と言ってもまあ、三年前かそこらかな。
今唯一残っているティアマリアと並び、堅固な防衛都市として名をはせていた場所があった。確か、チグリスといったと思う。
今、魔族達がどんな呼び名をしているかは知らないけれど。
とにかくその場所では、人間側が上手いこと防衛戦で勝利を重ねてたもんで、中々魔族としては攻めあぐねていたわけだ。味方の数が減る一方、得るものもなく、食べ物も減り。
そんな中、若干十五歳かそこらの小娘が、ディアボロの魔王親衛隊から派遣されてきた、とのこと。
魔族の兵士たちは当然憤った。ディアボロはオレ達を見捨てやがったのか、と。
そんなこんなで、なおさら士気は下がっていたらしい。
こんなことを僕なんかが知っているのも、イスタの戦況が有利だったもんで、大手の新聞からカストリ誌まで、こぞってこんな情報を取り上げていたからだけど。
ともあれ、その小娘。戦意高揚のためか、あるいはまさか兵の慰み者にするわけでもあるまいに何故戦場に来たのかと言うと、ただ一言、魔王の命を受けてのことらしい。
……今思うと、なるほど、クリスらしい。その一言は、シンプルだ。
「蹴散らしてこい」
……前に雑談の中ちらと聞いたが、本当にそれしか指示はなかったらしい。
ははは、いやあ愉快痛快。その言葉通り、彼女は防衛にあたっていた当時の使徒第八位を下し、見事イスタ陥落の立役者となったらしい。
……先ほど、目にした技。
人狼ヴァーミリオンが近接戦闘における最高峰と称される由来。
マナを、それこそ人間どころかそこらの魔族では及びもつかないほどの魔力を肉体能力の強化、それのみに特化して使用することによる、生物の限界を超えて放つ一撃。
歴代当主のその技の発動方法は各々異なるらしいが、今代の使用者であるガロンさんはその両手、そこから伸びる爪により、その恐ろしいまでの威力を放つという。
故の『赤爪』。
そして、彼女にその二つ名を与えたこの技こそ。
「……これが、ヴァーミリオンの『神喰』か。いやあ、良いもん見ちゃった」
そう呟くと、遠くからゆっくりとこちらに向かって歩いてきたガロンさんが、突然全力で駆けだした。
おやおや、そんなに僕に会いたいからって逃げやしないのに……いや待て、あの顔は……ああ、そんな。
マジギレしてる。
逃げねば、そう決心した時には最早手遅れ。
振りかぶった右腕で、彼女は思いっきり僕の頭をひっぱたいた。
「あいったあっ! ひっどい、何するんですか!」
「おまっ、ふざけんなよ! な、なな、なんでお前がそれ知ってるんだ!」
「……それって?」
「だ、だから! 技の、その、なんだ。ええと名前、その……か……か、かぐら……って」
尻すぼみになってしまって聞き取りづらかったが、一応聞き取れた。しかし、なんでと言われても知っているものは知っている。
何故なら。
「一時期人間の子供たちの間で大流行しましたよ。両手を下から上に振り上げて交差させて、『かぐら!』って叫ぶの」
「はあっ? マジか!? 嘘だろ!?」
「ほんとほんと。敵性遊戯ってことで、結局禁止されてましたけど。子供心にヒットしたんでしょうねえ。『見たか、これがヴァーミリオンに伝わる必殺技、かぐら!』って」
「うわああああああああああああああ!」
なんとも悲痛な声を上げ、しまいにガロンさんは地面にくず折れてしまった。
恥ずかしがることないのに。
いや、分かるよ。言いたくなるじゃんね、そんな一族代々伝わるような技があったらさ。
分かる分かる。必殺技叫ぶのはロマンだよね。
「違う、違うんだ……あれは若気の至りだったんだよ……」
「良かったじゃないですか。あの功績で魔王親衛隊長に大抜擢されたんでしょ?」
「良くねえよ……もう駄目だオレは」
かつてないほどテンションが低いガロンさん。最近までは落ち込みこそしてたけど、こんな姿は初めて見た。恥じらう女性っていいよね。
一般的な恥じらいとはまた違う気がするけれど、それもまた良し。
……まあ、おふざけはこんなところにしとこっか。
「ガロンさん」
……目の前で膝をついたままの彼女に、声をかける。二人っきりでも、僕は彼女を母と呼ばず、名前を呼んだ。
俯いたまま、ガロンさんはゆっくり立ち上がる。
「……なあ、なんでここに来たんだ」
ぼそぼそと、先ほどまでの勢いはどこに行ってしまったのか、落ち込みすら感じられる声音で彼女は喋る。
何事か言葉を返そうとしたが、彼女はそのまま続けた。
「なんでオレを……助けに来たんだよ。オレは、お前の仇じゃねえか」
何言ってんだか。そりゃあ……だって、助けない理由がありませんわ。
僕の中では、貴女はまだ僕のお母さんだもの。
貴女にとっては、もう違うとしても。
「オレは人狼だ。魔族の、ディアボロの一員だぞ。お前の故郷を滅ぼした魔族の」
知ってますよ。
「……さっき、言ってたろ。一瞬だけ聞こえちまった。故郷が恋しいって。恋しかったって」
……ああ、成程。ソプラノに言った言葉が聞こえていたのか。だからこんな態度取っちゃってる訳ね。
相変わらず可愛いなあ、ほんと。
彼女は、なあ、と小さな声で呼びかけて。
「……お前は人間だ。でも」
そう言うと、ガロンさんは俯いたまま両腕をこちらに伸ばし、僕をその胸の中に抱きしめてきた。
先ほどの技を放った時、一瞬だけ彼女の姿は獣そのものになっていたように見えたのだが、こちらに戻ってくる際には、いつも通りの姿に戻っていて。
だから僕は、ぽふ、と彼女の豊満な双球の中に顔を埋めることになった。
「オレは、お前のことをもう裏切りたくない。お前はオレを助けてくれた。お前はオレを……女として、見てくれた。だから」
「……」
「お前だけはもう、オレが命に代えても護りたい。オレは、お前の一番じゃなくてもいい。お前が何をしてもかまわない。お前が……どんなつもりでディアボロに来たのかも、もういいさ。オレが、お前を護りたいんだ」
そう言って、さらに強く強く、僕の頭を抱きかかえる。
「でもさ、やっぱりオレは馬鹿なんだなあ。お嬢のことも裏切れない。……一番を、決められないんだ。もしお前がオレ達を裏切ったなら、オレはどうするんだろうな……」
……やっと分かった。彼女、僕がまだ耳が聞こえていないと思ってる。
以前雑談でつい話しちゃったから、僕が読唇できるのは知ってる筈。だからさっきまではまだ会話するつもりだったんだろう。
そして今は、こんな致命的な言葉を、聞かせるでもなく呟いている。こちらの顔をふさいで、自分の言葉を知られたくないかのように。
聞こえてるんだけどにゃあ。
「お前が人間だって、そんなことでオレはさあ。お前のことを仲間だって信じたいのに、オレは弱いな。オレはよお、こんなに弱かったんだなあ……」
彼女は僕の両頬を優しくその肉球のついた掌で包み、はらはらと涙を隠さず、視線を合わせてきた。
「お前に、嘘をついたんだ。オレ今、泣いてるんだ。涙がよ、これ、止まらねえ。ここ数年で泣いたのは、親父に服が似合わんと言われた時以来かな……」
耐えきれずしゃくりあげると、右腕で乱暴に顔を拭う。だが、後から後から彼女の頬に、水滴が流れ落ちていく。
「オレは所詮、女だったのな。弱くて、優柔不断で、女々しい。こんなの、オレが一番嫌っていたはず、なんだぜ……? お前はオレらしくないって言ってたけど、ほんとのオレは、こんなんなんだ。こんなんなんだよ。幻滅しただろ? お前の母親になんか、なれっこない。オレは母様より、ずっと弱くて、駄目な奴なんだ」
そう言って、僕の頬に添えたままの手を、両耳に滑らせていく。
「悪い。ほんとにすまん。取り返しのつかねえことをしちまった、オレなんかの、こんなオレなんかの為に、お前の耳まで……」
そう言って、もう一度、僕の顔を胸元に引き寄せる。
「こんな駄目な奴、もうどこにも居場所なんかねえかなあ。いくらオレたちが仲間ぁ大事にするっつっても、流石に親父たちだって……今回のことでオレのことなんか見切りはじめてんだろうしなあ……」
「なら、奪ってあげましょうか」
「……は?」
「さっきからウジウジうじうじ、可愛いこと言っちゃって。僕が貴女に幻滅するわけないじゃないですか」
「あ……あ? お前……耳は?」
「そんなんはどうでもいいんです」
胸元でもごもご声がこもってしまうが、彼女が僕の頭を抱えている力は緩みもしないものだから、そのまま続けた。
「貴女は僕が裏切るかもしれない、そんなことを言いましたね。それを証明する術は、僕の手元にありません」
「……ん」
「でも、貴女は僕を裏切らない。もう、裏切れない……そう考えてよろしい?」
「……。ああ、そうだな」
「じゃあ、いったん城に戻りましょ?」
「はあ!? なんでだよ!?」
「貴女の居場所は無くなってないってこと、知ってほしくて。その上で、ちゃんともう一度、僕とお話をしてほしいんです。色々」
「……つったってよ」
もう、ごちゃごちゃと面倒くさい娘ねえ。
「いい加減寒さが限界なんですよ。ほら、手を触ってみてくださいな」
「あん……おい、呑気に何言ってんだ! これ! 凍傷になりかけじゃねえか!」
「だからね、ずびっ、とりあえず、えっくしゅ、あったかいとこ行きたいなって」
「ああもう今さらワザとらしく、くそ、わかったよ! 話は後だ、負ぶされ!」
「いぇーい」
「笑ってる場合か! 壊死したら……ああもう、急ぐぞ!」
……そんなこんなで、とりあえず僕らは、戦場から脱出したのだった。




